道後温泉近くにある河野家が支配していた湯築城跡の景色【愛媛旅行記51】

愛媛県/松山旅行記51

 旅行期間:2020年9月23日~26日

 

城跡は綺麗サッパリと!

愛媛県旅最終日はまず朝イチに石手寺を訪れた後は、再び道後温泉街付近まで戻ってきて道後公園に造られている大きな「正岡子規記念館」をこれから訪れたいと思います。このような4階建ての大きな博物館ですが、愛媛県などの歴史にではなくて「正岡子規」個人だけに焦点を当てており、なかなかこれだけ1人の人物に対しての力の入れようが正岡子規の偉大さを物語っているように見える。

 

 

ただこの正岡子規博物館内は、残念ながら写真撮影は禁止されている。基本的に写真を撮る旅なのでちょっと思案したけど、松山市で一番の偉人の記念館なので写真撮影は我慢して場内を見学する事に決める。

 

この博物館内は写真撮影が禁止といっても、このロビーなどでは写真撮影は禁止されていなかったので「ここだけでも・・・」と写真を先に取っておく事にした。

 

このように博物館の展示は2階からスタートするようになっていて、入場券も2階の展示室前で購入できる。なおここではキャッシュレス決済に対応していて便利だったので、全国のこのような博物館でもキャッシュレス決済が増えてくれればありがたい。

 

 

松山市立子規記念博物館の見学

ここから先は有料ゾーンで、玄関脇の看板にもあるように写真撮影禁止となっているが、このドアを入るまでは写真撮影が可能。という事で一応博物館に入ったという証拠も兼ねて、ここで写真を撮影してみた。

 

基本的には館内では写真撮影が禁止だったけど、唯一こちらの家だけが撮影可能だった。ここは松山で正岡子規と夏目漱石が約50日間程に渡って、同じ建物の下で同居した時の家を再現したもの。

 

このように「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」という、この家だけが写真撮影可能。そこまで写真に撮りたいとは思わなかったけど、スマホで撮った写真は後で簡単に消せるので、とりあえず写真を撮っておく事にする。

 

この愚陀仏庵という名前は、当時松山市内の中学校に赴任していた夏目漱石が『愚陀仏』という号を名乗っていた事から来ている。

 

その場所に正岡子規が居候してきて、約50日間に渡り同居していたという。そんな愚陀仏庵という建物は実は2階建てで、建物自体は第二次世界大戦時の松山空襲の際に焼失してしまった。

 

なのでこれはあくまでもそれを再現した当時の家の様子だけど、特別何かがあるという訳でもなかったので、この展示室内で唯一写真を撮れる場所であったが、わざわざ写真を撮るほどの場所ではなかった・・・。

 

道後公園内の湯築城跡にて

そして約30分ほどで正岡子規記念館での見学を終えて、この記念館の横にある道後公園へと向かう。ここは戦国時代以前にこの地を支配していた河野家の居城だった湯築城跡があり、そのエリアが今では公園として管理されている場所となっている。

 

さて博物館の見学はいいけど、やっぱり館内で写真を撮影できない場所だと、後から写真を見返して記憶の整理をしたり復習したりできないので残念である。という事でその鬱憤の反動を、この道後公園にブツける事にする。。

 

そして道後公園の入口では早速、このような石で造られた古そうな物が置かれているのが目に飛び込んでくる。

 

こちらの石は昭和29年に”愛媛県指定有形文化財”に指定されている、道後温泉で昔から使われていた湯釜だそうだ。湯釜というのは温泉に行くと、口などからお湯が出てくる石造りの物。

 

しかもこの湯釜は奈良時代に造られた物とされていて、今の明治時代に造られた道後温泉本館の建物が出来た際に、お役御免となってこの場所に移転されて保管されているという。

 

そんな歴史的な石の湯釜には、このように1円玉が差し込まれているのが見える。それにしても人類は硬貨をこのような場所に挟んだり、投げ込んだりして願を掛けるのが好きな生き物である。

 

この湯釜は直径約166cm、高さ約157cmと大きい。それとこちらの案内板によると、この湯釜に彫られている「南無阿弥陀仏」という文字はあの全国で温泉を開発した一遍上人が刻んだものとされているとか。

 

さて入口でいきなり鎌倉時代に造られたとされる石造りの湯釜を見た後は、この公園内にあるという城跡へと向かいます。ここは「湯築城跡」であるが、城跡という言葉通りに建物は残っていなくて、城が昔あっただけの場所となっている。

 

ここは城跡でもあるけど今では公園となっているので、このように園内の道は綺麗に整備されているのでとても歩きやすい。

 

少し階段を登っていくと、昔に湯築城の本丸があったと思われる高台が見えてくる。松山城に比べるとそんなに広くはない本丸だけど、如何にも城跡だったという雰囲気を醸しだしている。

 

この湯築城は14世紀頃に河野家により造られたとされていて、戦国時代の後半に河野家が愛媛県から追い出されるまで使われていた。そしてその後に伊予松山藩に入ってきた加藤嘉明が松山城を築城し、その際にはこの湯築城の建材が一部使われたという。

 

そしてここから奥に見えている小高い丘の上が、恐らく城主が住んでいた建物があった場所とされている。あの上の場所で標高約70mとされているので、そこまで大きな城ではなかったのが分かる。

 

こちらにはこの場所が「本壇」という名称で説明されているけど、この本壇という言葉は江戸時代に使われていたもので、河野家が支配していた頃にこの本壇がどう呼ばれていたかまでは記録に残っていないそうだ。

 

 

湯築城跡展望台からの眺め

上に登っていくとこのような展望台が頂上に造られているのが見えてくる。湯築城跡だけに「もう少し天守閣っぽい建造物の展望台を造っても良かったのでは?!」とも思えたが・・・。

 

ただこの湯築城跡は中世に造られた城なので、江戸時代に造られたような強固な石垣や立派な天守閣は存在していなかったと考えられている。だからこの頂上の展望台もあえて、天守閣をイメージするような建造物にはしなかったのかもしれない。

 

今の日本で見られるお城というのはその大半が江戸時代に造られた城が現存・復元されているものばかりで、今の日本人の城に対するイメージが勝手にその江戸時代の物になってしまっている。だが日本には江戸時代前にも何千以上もの城が造られており、その多くが石垣や豪華な天守閣を持たない平山城だったのである。

 

さてとりあえず展望台の上までやって来ました。ここからは周囲に特に視界を遮るものがないので、このように360度松山市内を見渡す事が出来ます。

 

愛媛県にやって来たのは今回が初めてだけど、松山市は四国で最大の都市ではあるものの、やっぱり地方なので大きな建物は松山中心部の駅周辺にしかない。だから逆にこのような展望台からは、周囲の景色がよく見える。

 

しかし奈良時代以前からあったとされる道後温泉だけど、昔の絵を見ると今の道後温泉本館が出来る前はまるでバラック造りのような温泉だった。それに比べると明治時代に当時の町長だった「伊佐庭如矢」という人物が手掛けた、一連の政策による道後温泉街の再生については大成功だった訳である。

 

 

道後公園からの展望 動画

 

 

ここからは西側の山の上に松山城が見えている。この江戸時代に造られた松山城がこれだけ堅固な造りになっていたのは、この愛媛から外様大名が配置されている中国地方や九州地方からの攻撃に耐えれるようにする為だったという。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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