毛馬閘門&水道記念館:訪問 2022年7月上旬
旅行期間:2022年7月上旬(当日)
初めて知った大阪の水門!
2022年の暑かった夏。
ある日にオカンが急に
けまこうもん・・・知ってるか?
と言い出した。
「けま黄門?」と首をかしげてしまったけど、どうやら淀川にある水門の事らしい。
オカン曰く、
昔に行った事あるけど、今どうなっているのか見てみたい!
という事で早速淀川沿いに出向いたのである。
2022年7月上旬に淀川の大川沿いを北上して、その水門へと向かっていく。
オカンは前回の鳥取砂丘で、海風に帽子が吹き飛ばされた後に新しく購入した帽子を被っていた。
そして、また風で飛んでいかないようにと、常に帽子に手を添えながら歩いていた。
川に飛ばされたら、アンタが泳いで取りに行きや!
初めて見る、「毛馬閘門」にて
大川沿いは中の島周辺付近を何回も散策していたけど、このような水門がその上流にある事を全く知らなかった。
なので、その上流にこのような水門がある事に衝撃を感じたのであった。。
ほらな、ワタシの言った通りやろ!
住所:大阪府大阪市都島区毛馬町
営業時間: 淀川河川公園 毛馬地区
平日:9時~17時(6月~8月:19時閉園)
土日祝:7時~17時(6月~8月:19時閉園)
入場料:無料
確かに大川を淀川側に向って北上していくと、淀川との境付近にこちらの水門が見えてきた。
なお、この毛馬閘門の「閘門(こうもん)」とは、河川や運河の水位が異なる場所で”船のエレベーター”的に、その高さを水量で調整する仕組みの門となっている。
【毛馬閘門】都島市役所:動画
「水戸黄門」の「こうもん」ではなく、パナマ運河などにある「閘門」やで!
この閘門は、まず片方側からやって来た船を中に入れて、一旦門を閉めて水量を反対側の水位に合わせて調整する。それから反対側の水門を開けて、同じ水位になった川に船が進んで行くというシステムになっている。
毛馬閘門では、この水門の奥の北側を西に向かって流れる淀川から、南側に分岐する大川との間に造られている。
なお、昔はこの大川が「淀川」と呼ばれていた主流の川で、今の川幅の広い淀川は1910年頃に開削された『シン淀川』だったのである。今では『シン淀川』とは呼ばれずに「淀川」と呼ばれ、大川が「旧淀川」とも呼ばれるようになっているという。
『シン淀川』って、庵野監督の次回作みたいな名前やな!(笑)
オカンは学生時代にこの毛馬閘門にやって来て、その門を写生して、その絵の出来が良くて学校内で張り出された事が頭の片隅に残っていたという。
従来の「旧淀川」は蛇行していた為に、大雨が降った際には下流で氾濫する事がとても多く、大雨の度に毎回淀川周辺が被害を受けているのを見過ごせなく、思い切った開削工事が行われたようだ。
その際に合わせて、大川間との舟の行き来などを管理する「毛馬閘門」などが整備されたという。
こちらは1983年に完成した「淀川大堰」で、淀川を流れ落ちていく水量を調整する施設である。
ただ、この淀川大堰がある為に、淀川を通る船はここを境に東西を跨いで移動する事が出来ない。その為に、淀川上流から下ってきた船は、毛馬閘門を通過して大川を経由して安治川から大阪湾に出ていくルートしかないのである。
その問題を解消する為に、淀川大堰の南東側の陸地部分を開削して、船が通れる『淀川大堰閘門』の建造を進めている。
2022年に着工し、大阪万博が開催される前年2024年10月頃に完了する予定で工事が進められているようだ。
どうりで淀川下流で船を見ない訳や!
それと毛馬閘門付近には、こちらの「与謝蕪村:生誕地」の記念碑も置かれているのが見られた。
「与謝 蕪村(よさ ぶそん)」は江戸時代中期を代表する俳人として知られている有名人だが、この地は江戸時代には”摂津国東成郡毛馬村”だったという。
「毛馬村」やから、毛馬閘門って名前つけたんやな!
毛馬閘門周辺の景観! 動画
こちらの大きな建物には「毛馬こうもん」と白い文字で書かれていたけど、この門は舟を通過させる為の物ではなく、シン淀川から旧淀川の大川へ流れる水量を調整する「水門」である。
ただこの水門やら閘門やらの機能をあまり理解していない人にとっては、どちらでも同じように思える事もあって、この「毛馬こうもん」という文字が採用されたのかもしれない。
昔から「毛馬こうもん」やで!
安治川や大川沿いはよく歩いた事があるけど、まさかこのシン淀川との合流地点にこのような歴史ある水門があるとは思わなかっただけに、いきなりオカンが「毛馬閘門」と言ってくれたおかげで、いい勉強が出来たのである。
もっと感謝しなさい!
「旧毛馬閘門」にて
そんな毛馬閘門周辺を歩いていると、道の脇に『天空の城ラピュタ』みたいに、古そうな建造物の壁にびっしりと雑草が生え揃っている場所が見えてきた。
こちらの施設は「毛馬洗堰」という明治43年(1910年)に造られた、大川の水量を調整する為の堰だった物。
今では新しく造られた毛馬閘門と水門のおかげで使われる事が無くなってしまったが、”国の重要文化財”にも指定されている鉄筋コンクリートと煉瓦による造りで、明治時代末の重要な建造品として保存されている。
そして明治時代の終わりにこの大規模な淀川改修工事を担当したのが、こちらに胸像のあった「沖野 忠雄(おきの ただお)」である。フランスに留学してフランス式の治水技術を学び、帰国後に日本国内にその技術を伝えて、多くの河川工事に携わったという。
「毛馬第一閘門」にて
そしてその奥に見えてきたのが「毛馬第一閘門」という、明治40年(1907年)に造られた『毛馬閘門:初号機』なる門である。
エヴァ風の呼び方、マニアにしか通じへんで!
この「毛馬第一閘門」は、先程見学した『シン毛馬閘門』が1974年に完成した事を受け、1976年に閘門としての役割は廃止された。
そして周辺が公園として整備され、この『毛馬閘門:初号機』は”国の重要文化財”としてここに保存されている。
多分この門が小さい頃に写生した門やと思います!
ここは閘門だった事もあって、手前と奥に大きな門がそのまま残されているのが見える。なお、奥の方が低い事もあって、門の大きさは手前の方が大きくなっている。
そしてこの「毛馬第一閘門」は一般開放されており、昔は舟が行き来していた所を今では歩き回れるようになっている。
「毛馬第一閘門」を歩く! 動画
煉瓦の壁には舟を繋いでおくようなフックみたいな箇所も見える。1907年に完成してから約70年間近く、大阪を流れる淀川の水運を仕切っていた「毛馬第一閘門」。
この古い方の毛馬第一閘門 (毛馬閘門:初号機)の扉は、「マイター・ゲート(miter gate)」という観音開きの構造となっている。
この仕組みはあのレオナルド・ダ・ヴィンチが発明したという説があるようだが、ゲート内に水が満たされている際には上流側の門が閉じて、それ以上水が流れないシステムになっているようだ。
また、閘門を通過する船の高さに制限がない構造ともなっている。
それと比べて現在の毛馬閘門(シン毛馬閘門)は「ローラーゲート」という、水門のゲートが上に引き上げられる構造となっている。
こちらはボタンを押せば扉が昇降するので扱いやすいが、その代わりに扉が上にあがった高さを通過できる舟しか通行できないという制限があるようだ。
新旧の閘門でそんな扉の違いがあった所に目が行かなかっただけに、所々に設置されている説明文は見ておいた方がいい。
この「毛馬閘門:初号機」が稼働していた時代を知らない世代からすれば、”無用の長物”にも見えてしまう場所だが、このように治水技術が進化していく過程を勉強できる場所であった。
そんな昔の閘門跡はこのように芝生が綺麗に生え揃っていて、真ん中は短距離走で使われるトラックのように整備されている。この近くに住んでいてランニングなどをする人からすれば、この毛馬第一閘門は絶好のランニング場所だろう。
確かにこのように淀川近くの上流側の門部分は、とても風格を感じる。
大阪市内にこんな素晴らしい河川施設がある事に気付けなかったとは、まだまだ自分が未熟に思えてしまった場所でもあった。。
未熟過ぎます!(笑)
大阪は昔から「川の街」だった事もあって、このような歴史ある河川施設は探してみると、そこそこに見つけられる。
しかし、それらの歴史ある施設はマイナー過ぎる事もあって、自分で探そうとしない限り、なかなか目にする機会が無い。また、興味が無いと、それらの施設が目の前にあっても、気付かずに通り過ぎてしまうのでもある。。
今回の毛馬閘門訪問では、このような水門があった事によりも、「旧淀川」と「シン淀川」があった事に大きく衝撃を受けたのであった。。
次回はこの淀川近くにある「水道博物館」を見学します!
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