大阪城の櫓見学(2022年11月)-2
訪問:2022年11月
証拠残し?!
期間限定で一般公開される、大阪城内に江戸時代から現存する「多門櫓」と「千貫櫓」。
大阪城というとシンボルともなっている”天守閣”の建物しか印象にない人も多いけど、やっぱり江戸時代から現代に生き残る歴史的な建造物も趣深いのである。
多門櫓内の見学!
この”国の重要文化財”にも指定されている「多門櫓」は、江戸時代後半の1848年頃に造られた物とされている。
江戸時代に造られた建物らしく木造建築となっており、とても大きな建物だけあって、屋根などの重量を支える為に太い梁が見える。
ただその直ぐ下にあった支えの柱は比較的新しい物に見えて、これは近年に耐震補強の一環として加えられた物だったのかもしれない。
日本は地震大国だから、耐震にはうるさいのだ!
ただ”江戸時代から現存する建物”といっても、全く手付かずで残っている訳ではなく、時と共に建物に使われている資材などが劣化していくので、定期的な補強が過去に行われてきている。
この多門櫓も昭和44年に解体修理が行われており、こちらのテーブルにはその修理の際に使われなくなった部品が展示されていた。
こちらは昔の日本家屋でよく見られる「懸魚(げぎょ)」という、”火除けのおまじない”の一種として取り付けられていたパーツである。
この懸魚は一般内部公開はされていない「一番櫓」の解体修理で、ボロボロになっていたので使われなくなった物である。
一番櫓は玉造口近くにある櫓だぞ!
こちらは1620年頃に造られたとされる「千貫櫓」で使われていたパーツである。
歯医者に定期的に通って行う”歯の手入れ”のように、建物も大きく損傷する前に定期的なメンテナンスをしておく事で、耐久年月が延びるのである。
最近、歯医者に行ってないな・・・
こちらは多門櫓に取り付けられていた「鯱(しゃちほこ)」で、300年近くこの建物の上で雨風を毎日24時間受け続けていた貫禄が感じられる。
現在見られる大阪城の姿は、ご存じのように江戸時代初期に徳川幕府が豊臣時代の大阪城の上に、新たに築いた大きな城である。
西の都でもあった”大阪城”は、三重櫓が12基、二重櫓が15基も設置され、名実ともに強固な城だった。
今生き残っているのは、たった5基だな。
こちらは戦前のまだ大阪城天守閣が再建される前の時代との航空写真の比較だが、当時は陸軍が管轄する土地となっていたので、陸軍関係の建物が乱立していた様子が見られる。
大阪城の歴史も”燃えた歴史”ばかりだな・・・
江戸時代初期に江戸幕府によって築かれた大阪城の天守閣は、完成から約40年後に落雷によって焼失してしまったという。
天守閣が焼失した後は江戸城のように不必要な天守閣の再建よりも、治世を良くする為に予算を回した事もあって、江戸時代の大半はその姿が存在する事は無かった。
豪華な江戸城も、燃えてしまったな・・
名君:保科正之公が天守より民の生活を優先したからだぞ!
その為に大阪では江戸時代以降は、この地に天守閣が存在しない期間の方が長かったのである。
江戸幕府最後の将軍:徳川慶喜がこの大阪城から江戸に逃げ帰った時には、その混乱の最中に大阪城内で火災が起こった。
その際に天守閣が火に包まれるイメージを勝手に想像していたけど、実際には御殿などの建物で、建ってもいなかった天守閣は燃える事も無かったのだ。。
豪華な天守閣程、無用な物はないぞ!
そしてこちらには、この大阪城に築かれている石垣の中に刻まれた刻印について、それぞれの模様を説明するブースが置かれていた。
江戸時代初期に再建された大阪城は、全国から50を超える大名が集められ、互いに競うかのように立派な石垣を築いていった。
そしてその石にはそれぞれの藩だと認識できるように、このような刻印がその石に刻まれていたようだ。
こちらは越前の藩が彫刻した、「アルファベットの刻印」。
キリスト教が弾圧された江戸時代に挑戦的な刻印を使ったなと感じるが、直線的な文字で彫りやすかったのかもしれない。
こちらの「左卍字」マークは、徳島藩を治めていた”蜂須賀家”の家紋マークである。
蜂須賀家というと、”小六”の名でも知られる「蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)」が斎藤道三の配下から織田信長⇒羽柴秀吉と主君を替え、一国の城主にまで出世する。
その跡を継いだ嫡男「蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)」が関ヶ原の戦いで東軍に加担した為に、その褒美として阿波国一国(約18万)を与えられ、江戸時代には蜂須賀家だけで守り通したのである。
淡路島も江戸時代までは徳島の一部だったんだけどな・・・
石垣の刻印も簡単な家紋やマークだけではなく、このような平仮名や漢字まで刻まれていた。
これらは藩というよりも、その石垣を築くグループに帰属する集団意識を表していたように考えられる。
それ以外にもこのように積む場所を記した番号の刻印もあったようだ。
それぞれに形の違う石を器用に積んでいく為には、キチンと管理しないといけなかった事だろう。
万が一大坂城の石垣が崩れたら、切腹モンだぜ!
そして今では「蛸石」として知られる巨大な鏡石の上にも、江戸時代にはこのような多門櫓が築かれていたという。
今の大阪城で見られる石垣しか残っていない部分は、ただ石垣を築いたのではなく、その石垣の上にこのような要塞の建物が全て築かれていたのである。
巨大な大阪城では27個もの櫓が築かれていたが、それらが全て現存していた時代のスケールはとてもじゃないけど想像できない。
この大手門に造られている多門櫓でさえ、このように奥まで廊下が延びる大きな建造物なのに、これが他にも何個もあったというのである。。
どれだけの労力が費やされたかも想像できんぜ!
特に江戸時代初期頃にはまだ外様大名も財政がそこまで悪化していない時代だったので、徳川幕府に恩を売るような気持ちで競って立派な建造物を建てたのかもしれない。
今まで大阪に住んで、この大阪城も数えきれない位にやってきた場所だけど、その歴史を真剣に考えてみた事が無かった。
しかし近年に日本各地の城跡などを訪れて、日本の歴史に興味を抱くようになり、今日の大阪城の現存する櫓見物に至ったのである。
歴史は勉強し出すと面白いけど、眠くなるぜ!(笑)
こんな旅はまた次回に続きます!
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2021年11月下旬に訪れた、大阪城内の多門櫓と千貫櫓という普段は見れない江戸時代の建造物を見学しました。