大阪城の櫓見学(2022年11月)-3
訪問:2022年11月
気遣いの床!
普段は見学できない、大阪城内に現存する江戸時代に造られた「大手門多門櫓」。
他にも5つの江戸時代に造られた櫓が現存している大阪城だが、その内部を一般人が拝めれる機会は少ない。
「大手門多門櫓」の見学!
江戸時代の城の特徴でもある”桝形門”の大手門を守る要塞だった「大手門多門櫓」は、昔の時代らしく”戦に特化した建物”だった。
この大阪城が江戸時代に再建された江戸初期には既に火縄銃が武器として主流となりつつ時代だったので、このような「銃眼」と呼ばれる鉄砲を狙う小穴が至る所に設けられていた。
この大手門多門櫓からは、このように大手門とその手前に延びる坂を行き交う人々の姿がよく見える場所となっている。
この大手門側から大阪城内へと入ってくる人達も、まさかこの場所から狙撃手に狙われているなんて事は、想像すらした事がないだろう。。
今は平和な時代だぜ!
こちらに置かれていた四角い石は、室町時代に造られたと考えられている「五輪塔の一部」に使われていた石だという。
全国の城跡に築かれた石垣の内側には、足りない石材を代用する為に、墓石や地蔵様などが詰められていたという事例も多々あったようだ。
”手当たり次第”ってヤツだぜ!
江戸時代には想像できない程に巨大な城だった大阪城。
幕末には鳥羽伏見の戦いで敗北した旧幕府軍のトップだった徳川慶喜が、この大阪城からコッソリ内緒で江戸城に逃げ帰ってしまった為に、統制が付かずに大混乱の最中に大阪城内は炎上してしまったとされる。
慶喜公が大坂城で踏ん張ってたらな・・・
「船が沈み出したら、真っ先に逃げろ!」だぞ!
こちらの仕掛けも定番の「石落とし」。
とてもアナログな仕掛けだけど、どこの城にも造られていた仕掛けなので、それ程に効果があったのだろう。
ただ、石落としを使う為には”落とす石”を大量に用意しないといけないので、この多門櫓などには廊下の至る所に”落とす為の石”が山積みにされていたのかもしれない。
「千貫櫓」も見学!
そんな大手門多門櫓の見学を終えて、続いて隣にある「千貫櫓」内部の見学に移る。
ここも江戸時代の初期頃に造られた木造建築なので、土足厳禁で靴は脱いでビニール袋に入れての内部見学となる。
大手門多門櫓の隣に造られている「千貫櫓」からは、このように大手門に繋がる坂道を真横から見る事が出来る。
このような場所に造られているという事は、大手門側からやって来る人達を監視する為の見張り台だったと考えられる。
この千貫櫓は”二階建の櫓”で、江戸時代初期に建造された櫓の生き残りである。
大阪城内では江戸時代の大きな火災や戦争時の空襲などで被害を受けているが、敷地が広かった事から飛び火せずに現存する建物もあるのだ。
この千貫櫓も”国の重要文化財”に指定されており、大阪城内では最も古い建造物の1つともなっている。
ちなみに「千貫櫓」の由来は、かつてこの地にあった石山本願寺の櫓が簡単に攻め落とせない難所だった為に、当時攻城した織田信長が「この櫓を攻め落とした者には、千貫払ってやるぞ!」という趣旨の発言をした事から来ているという話があるそうだ。
石山本願寺を落とすのに、本当に苦労したぞよ!
石山本願寺があった場所は今の大阪城が築かれている場所とはちょっと違っているらしく、このような由来が本当かどうかは何とも言えない。
ただそのような由来を想像しながら見学するだけで、より楽しく時間を過ごせると思う。
千貫櫓の中は外側に武者走りの廊下がグルッと取り囲んでおり、内側は区切られた部屋となっている。
それにしてもかなり高い天井となっており、アンドレ・ザ・ジャイアントが廊下を歩いても、頭を打ちそうに無い高さとなっていた。
コイツ、ホンマにデカかったぜ!
こちらは千貫櫓内の柱だが、このように削れた跡などが多数見られる。
この千貫櫓は近年になってから一般公開されだした建物なので、今までは観光客は殆ど来なかった場所である。
そんな場所の柱に削れた跡などが見られるという事は、明治時代以降に大阪城内を管轄としていた陸軍の兵達が試し切りなどをしたのかもしれない。
千貫櫓の2階に登る階段は、このように「立ち入り禁止」となっていた。
江戸時代から現存する建物も、近年高くなっている耐震基準の影響もあって、下手に2階に観光客を入れて万が一の事が起きても面倒なので、2階には入れないようにしていたのかもしれない。
歴史的な建造物として”木造建築”は貴重なのだが、その”完全木造”のままだと近年の耐震基準に満たない事も多々増えている。
その問題が浮き彫りになったのが、名古屋城である。
現在の戦後に再建された名古屋城は、老朽化の問題で建て直す計画に入っている。
名古屋城では江戸時代に築かれていた名古屋城の図面などが残されている為に、新しい21世紀に再建される城はその図面通りの”完全木造建築物”とする予定だった。
しかし、5層5階建の大きな名古屋城天守閣は木造建築物だと、”震度7の地震が来ても崩壊しない安全性”が必要となるが、木造建築だとそれをクリアできないという。。
河村市長もそろそろ切腹やな・・・
デカい天守閣ほど、現代には難儀な建物だぞ!
その為に木造建築物を保存するにも、新しく復元するにも、大きな建物になればなるほどに難易度が上がっていく。
2011年に起きた東日本大震災によって耐震基準が上げられた事もあって、木造建築物にとっては21世紀はとても生きづらい時代となってしまった。。
段々、内部非公開の建物が増えていくだけだな・・・
こちらでは、そんな上に上がれなくて残念に思っている人向けに、この千貫櫓2階部分の映像がわざわざモニターに映し出されていた。
客観的にみれば、たとえ2階に登った所で部屋が大きく違ったり、珍しい物が見れたりする訳でもないので、1階に入れるだけでも充分に有難いと感じるが。。
こちらは天井裏に設置されていた、荷揚げをする運搬口だと見られている穴をふさぐ格子である。
この穴が開けられた時代は詳しくは判明していないけど、江戸時代の建造物にはあまり見られないので、個人的には明治時代以降に陸軍が改造した箇所だと感じた。
それとこの千貫櫓で珍しいと思った所が、この床一面に手斧仕上げされた「釿痕」だ。
これは江戸時代の建造物内で、人の手がよく触れる柱で木のトゲが刺さらないようにと、表面を削ってある加工だ。
ただ柱にしてあるのだったら分かるけど、このように手であまり触れない床にまで施されているのは初めて見た気がする。。
将軍様に怪我させないように、という気配りかな!?
そして目の前にある幅の広い堀側に向っても壁に銃眼が設けられており、ここから対岸に来た敵に向かって銃を撃つ事も想定していたようだ。
ただ、江戸時代初期の鉄砲もそこまで命中精度が高かった訳でもないので、ここから鉄砲を撃って狙い通り敵に当たるかはビミョーにも思うが。。
『下手な鉄砲も数撃てば当たる』だぞ!
今までは大手門に繋がる道を歩いている時に、「薄汚れた建物が見えるな・・」程度にしか思っていなかった千貫櫓。
しかし、徳川時代の大坂城で最も古い建物の1つであり、約400年間の歴史を今に伝える建物でもあったのだ。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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2021年11月下旬に訪れた、大阪城内の多門櫓と千貫櫓という普段は見れない江戸時代の建造物を見学しました。