兵庫県赤穂市:訪問 2022年7月下旬-1
旅行期間:2022年7月下旬(当日)
フラッと赤穂市へ!
今回日帰りで訪れた「赤穂市」(兵庫県)。
赤穂市というと『赤穂浪士』など討ち入り事件話が有名になっているが、その場所を正確に知っている人は意外と少ないのではなかろうか。
近畿地方で最も大きい都道府県の”兵庫県”の中でも、その赤穂市は上記地図にもあるように南西端で岡山県との県境にある。
赤穂浪士が有名になったけど、意外と赤穂市の知名度は低いままよ・・・
赤穂市に到着!
今回その兵庫県赤穂市を訪れたのは、2022年7月下旬のとても暑い真夏。
元々この赤穂市に行こうと思った事も無かったのだが、たまたま訪れた知人宅で「今から赤穂市まで墓参りに行く!」との事で、その墓参りに便乗する形で一緒に車に乗せてもらったのである。
なお、大阪市内から赤穂市までは約130kmの距離があり、車移動だと高速道路を使って約2時間掛からない位の場所。
そんな赤穂市にやって来て、まず立ち寄ったのがこちらの「赤穂城跡」。
この赤穂郡を管轄していた「赤穂藩」の居城だった城跡で明治時代まで存続したが、明治時代に入ってからの廃城令で城郭が取り壊されてしまっている。
ただ、現在は昔の姿を再現しようと戦後から平成時代にかけて、城郭の復元工事が進んでいる。
そんな赤穂城跡の石碑前でお腹を覗かせて記念撮影をしているのが、今回墓参りに便乗させてもらった友人の「シンちゃん」である。
腹なんか出して、切腹するつもりか?!
このシンちゃんとは仕事関係で知り合ったのがキッカケで、歳は30歳ほど離れていて父親に近い位の存在なのだが、知人というよりも言いたい事を遠慮なく言い合える友人となっている。
赤穂市は赤穂浪士が飛び抜けて有名になっているが、このように赤穂城跡などの遺構は意外と知られていない。
ただその赤穂城跡があまり知られていないのは、江戸時代の面影があまり残っていないからでもあるようだ。
そして江戸時代から目立つ天守閣の建物もなく、5万石前後のそこまで注目される事もなかった小さな藩でもあった。
そんな城跡の脇には「赤穂大石神社」という、赤穂浪士を率いて討ち入りを先導した「大石 内蔵助」の霊を祀る神社も建立されていた。
江戸時代には赤穂浪士の討ち入り事件は幕府からお咎めを受けた為に、表立って大石内蔵助や他の赤穂浪士の霊を祀る事が出来なかった。
しかし明治時代に入って、明治天皇が赤穂浪士の霊を弔った事により、その気運が変わって堂々と祀れるようになったという。
そしてこの入口にあった大きな石碑の文字は、あの「東郷 平八郎元帥」の筆跡が彫られている。
東郷平八郎氏は、明治時代には軍神的な存在になったな!
”赤穂浪士の討ち入り事件”はその後の時代に歌舞伎などで人気になった演目でもあった為に、実際に起きた事件よりも派手に脚色されたストーリーが現代に伝わっているようだ。
単なる”仇討ち”に色んなストーリー性を加えられて、また”忠君”を理想とした日本人的な思想に大きく迎え入れられた事件でもあったのだろう。
この赤穂大石神社は、赤穂藩の歴代藩主などを祀る「赤穂神社」と、大石内蔵助やその他の赤穂浪士を祀る「大石神社」が合体した神社となっている。
本来は藩主が神のような存在に祀り上げられている事が多いけど、ここでは仇討ちを行った赤穂浪士達も、それに準ずるレベルで祀られていた。
そして”赤穂浪士の討ち入り事件”でその話の主役となっているのは、その時の赤穂藩主だった「浅野 長矩(あさの ながのり)」ではなく、筆頭家老だった「大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)」である。
主君で赤穂藩主だった浅野長矩が1701年のとある日に、「吉良 上野介(きら こうずけのすけ)」に江戸城本丸の廊下でいきなり斬り掛かった。
しかし周囲の人が止めに掛かり、吉良上野介は切り傷を負ったものの一命を取り留め、浅野長矩は拘束されてしまう。
このいきなり浅野長矩が斬り掛かった事件であったが、このような江戸幕府の中心地である江戸幕府本丸内での斬りつけ事件はこれが初めてではなく、過去にも何度かあったとされている。
そして江戸城本丸内で過去に斬りつけ事件を起こした人物は、死罪ではなく謹慎などになっていた前例もあって、浅野長矩も謹慎で終わる可能性があった。
しかし、実際に下された命令は「死罪」であったのだ。
江戸幕府からしても、将軍のお膝元というか足元の江戸城本丸内で、このような刀の斬りつけ事件は見逃せなかったのだろう。
その為に周囲への見せつけもあって、死罪を選択したと考えられる。
いかなる理由があろうとも江戸城本丸内で刀で斬りつけるという事件は、今でも許されない事だろう。
ただこの時代は主君に対して”絶対的な忠臣”が理想とされていたので、浅野長矩の家臣達もその後を追って、切腹して果てると考えた事だろう。
しかしただ家臣達が切腹しても”犬死”になってしまう事もあり、それなら憎き吉良上野介を成敗してから朽ち果てようと思ったのかもしれない。
そして赤穂藩の家臣団が赤穂47浪士となって、吉良上野介の屋敷に討ち入りを行い、その首を召し取った。
「仇討ち」というと、大昔のハンムラビ法典などでも「目には目を、歯には歯を!」などとも書かれていたように、人類の考えには付き物だった。
しかし、憎しみという物は伝播し易く、片方が仇討ちすれば、殺された側にも”仇討ち”をさせるキッカケを作る事にもなってしまう。
そうしてお互いに殺し合いが続き、常にいがみ合って争いが続いてしまう事もある。
それもあってこのような”仇討ち”が良しとして日本国内で語り継がれてきたのは、あくまでも恨みを晴らす為というよりも、”忠君”の信義を示したからだろうと思われる。
そしてこの赤穂浪士達は、単なる浪人ではなく、『義士』として祀り上げられている。
こちらの字は、田中角栄元総理の筆跡だね!
赤穂藩主と大石内蔵助を始めとする赤穂浪士達が合祀されている「赤穂大石神社」には、真夏のとても暑い時期にも関わらず、そこそこの参拝客が訪れていた。
もう2022年は終わってしまっているけど、令和4年だった2022年は「寅年」だった。
そしてこの赤穂大石神社には、なんとその赤穂浪士47士の石像が設置されていた。
ただし、この赤穂浪士47士の石像について、共に訪れていたシンちゃんより苦言があった。
というのもこの石像は数が多い事もあって、予算的な都合もあり、中国で制作された物だという。
確かに47体もの石像を作ろうとした場合に、日本国内だと高くついて、かなりの金額となってしまう。
その為に中国で制作させた石像だったが、中国の職人達は日本古来の武士を知らないので、服装や手に持っている武具などが、どうしても中国の物になってしまっているのである。
刀や槍などが、日本ではなく中国の物となっていてね・・・
せっかく赤穂浪士の面影を残そうとして設置されたハズの石像も、よ~~く見てみると赤穂浪士の面影すら感じない、中国民族の像が並んでいるコーナーになってしまっているのが、この大石神社の残念な所であったのだ・・・。
こんな旅はまた次回に続きます!
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