奈良旅行記⑤
旅行期間:2020年9月8日~9日
更に平城京跡についてお勉強!
ここは今から約1300年も前に都が置かれていたという平城京跡。しかしその後に廃れてしまい時代の表舞台から消え去っていた場所であるが、今現在ではこのような『第1次大極殿』という当時に国家的な行事を執り行っていたという建物が復原されている。
平城京跡にて
しかしこの平城京跡では最近になってから、正面奥に小さく見えている朱雀門やさっきの第1次大極殿、そして今復元中の第1次大極殿:南門などが続々と建てられてきているけど、平城京跡の敷地から言うとそれでもごく僅かな一部分のみの復原。なお平城京跡の敷地はこのように広大な原っぱとなっていて、この中心部分近くには人為的に盛り上がっている場所などもあった。この辺りにも何か建物があった跡なのか、それも畑などとして利用された跡なのか?!
こちらは1998年に約34億円もの工事費をかけて復原された『朱雀門』。開門時間にはこのように扉が開いていて、無料で自由に立ち入る事が出来る。なお平城京跡は奈良の世界遺産の一部になるが、殆どの場所は無料で見学ができるので財布にも優しい観光地である。
大阪人はタダという言葉に弱いねん!
この朱雀門はさっき見た第1次大極殿の南側の玄関口として、奈良時代当時に建てられていたという門。奈良時代の建物で現代に現存しているものは殆どないが、色んな古い文献などの資料をかき集めて、なるべく当時建てられていた姿に近いと考えられる建物を復原して造っている平城京跡の復原工事。
記念写真でのポーズが下手なオカンだったが、この「世界遺産:平城京跡」の石碑の前でグッタリ倒れ込むのは久しぶりにヒットしたポージングだった。
普段はこのような汚れた感じの上に寝っ転がる事はしないんですがね・・・
たまにはええ働き、するでしょ!(笑)
「棚田嘉十郎」という人物の銅像
この朱雀門の南側辺りに広がる広場は「朱雀門広場」という名前が付いていて、先程食事をしたレストランやカフェがある建物や資料館などが集まっている。そんな朱雀門広場の一角に銅像が立っているのを見つけたので、近寄ってみる事にする。この2020年はコロナ禍で途中から海外旅行に行けなくなった為に、国内旅行にシフトして何か所かを訪れたが、大概色んな観光地などで建てられているこのような全身の銅像になっている人物は、それなりに地域に貢献した偉人ばかりである。
こちらの銅像の横には丁寧にこのような説明碑も置かれていて、「棚田嘉十郎」という明治時代頃の人物のようだ。平城京跡は奈良時代の都だった後は廃墟となって荒廃しており、明治時代当時には草むらとなってその平城京跡という感じすら思えない場所だったという。
この説明によると、奈良公園で植木職人として働いていた「棚田嘉十郎」は、観光客から「平城京跡ってドコにあるの??」と問われた時に荒廃して草木がボーボーに生い茂っていた平城京跡を見て「このままじゃイカン、綺麗に保存して後世に残さないと!」と思い立ったという。そこで植木職人で裕福な家系でもないので保存活動を行う資産なども勿論無かった為に、大きく一般から寄付金を募った。そしてこの時の棚田嘉十郎が保存運動を起こした為に、今日でもこの原っぱの平城京跡が見られる景色となっている訳である。
一言で言うと簡単に思えるかもしれないけど、かなりの苦労が裏ではあったのだろう。。
平城京跡を勉強できる「いざない館」にて
ここを訪れたのは2020年9月8日とまだまだ夏の暑さが残っている頃。だから天気のいい屋外を歩いていると汗だくになっていたけど、この「いざない館」に入ると空調が効いていて涼しくてとても快適に感じる場所でもあった。
いや~~涼しい場所で休憩できるなんて幸せやね~!
ここ「いざない館」も入場料は勿論無料で入れる。平城京跡は最近になってこのような資料館のような物なども建っているが、現時点ではこのエリアの建物などは基本的に無料で入る事が出来て有難い場所である。これも全て国からの税金で造られているからかもしれないけども・・・。
さっき第1次大極殿:南門近くにあった「復原事業情報館」という建物内では、第1次大極殿などの建物を復原する際に行われた伝統的な木造建築技術の紹介などがあったが、ここ「いざない館」では平城京跡に付いて全般的な資料などが展示されている。
現在復原工事中の第1次大極殿:南門などで行われている内容の説明パネルが簡単に紹介されている。単なる建物の復原ではなくて、奈良時代当時の建造方法を再現して造り上げているので、手間もお金も掛かっている平城京跡の復原工事。だから復原された建物を実際に見学できる機会には、単に眺めるだけではなくて、そういった古代からの伝統的な建造技術の粋が結集された建物という事を意識しながら見学する必要がある場所でもある。
「いざない館」は建物内の通路の壁にも、このように奈良時代をイメージした雰囲気となっている。奈良時代というと約1300年も前の事だけど、実際に当時の人々はこういう恰好をしていたのだろうか? 今となってはその確認をしようにも方法がないので、特に深く考えずに進んで行く事にする。。
今現在の朱雀門は1998年に復原されたものでこのような槍を持った門番はいなかったけど、この周辺の食べ物屋さんの情報を詳しく教えてくれる警備員のオジサンが1人だけ門の脇に立っていた。どこかの警備会社のオジサンなんだろうけど、せっかくならこのような衣装を着せて警備させるだけでも、記念に写真を撮って楽しんでくれる人がいると思うので良いと個人的に思うけども。。
平城京跡も今でこそ何個かの建物が復原されているが、それでも奈良時代当時にあったハズの建物から比べると、今の建物はごく僅かでその全貌は現物の風景だけでは分かり得ない。しかしこちらには小さい模型が展示されていて、その当時の様子が事細かに再現されているので、これを眺めると平城京の街の様子がある程度認識できるようだ。
ここの部屋はちょっと照明が暗くなっていて、中央に置かれている模型の建物別に順番にスポットライトが当たったり、このように壁にもライトが当たったりと、この「いざない館」にもそれなりにお金が掛けられているのが分かる。国の事業として平城京跡地の復原作業が行われているからか、それなりの予算がある感じを受ける館内であった。
しかしこういうのを見ていると歴史ってものは、興味を持ってしまうと底なし沼のように感じてしまう。前までは戦国時代についてだけ興味があったけど、最近は国内旅行で鹿児島を訪れた際に島津斉彬公という人物を知ってからは江戸時代後期の幕末頃の歴史にとても興味が惹かれてしまった。それ以降はその時代に関連した書籍を読みだしたら、色んな本が出ていて、本を読む毎にまた次の本が読みたくなっていくというスパイラルにハマッている状態である。。
こちらでは馬上から矢を打つポーズをしている「流鏑馬(やぶさめ)」のようなパネルが見えてくる。この奈良時代の争いでは勿論銃は無いので、主に遠くから矢で射るのが有効な戦闘手段だったのだろう。そしてこの奈良時代にはまだ馬に取り付ける鐙(あぶみ)が開発されていなかったので、実際にこのように馬上から矢を放っていたかは分からないけど、もし実際に放っていたとしても馬が立ち止まっている時にしか矢を打てなかっただろう。
奈良時代にはそれ以前の時代に中国大陸から伝わって来た稲作が日本全国で広まった事で、それまでの生活様式から色んな変化を遂げつつある時代だった。それまでは木の実や魚や動物の肉などを主に個人で採取していたのが、稲畑での集団行動が必要になった為に村という集団生活が行われるようになった。そして集団で暮らす事によって他人からの影響を大きく受けるようになり、村からその地方や国全体の人間を統率する為に宗教という物が普及していく。
平城京では今復原されている建物以外にも、沢山の建物があったと考えられている。今は第1次大極殿南門まで復元中だけど、次はその第1次大極殿を囲む回廊を造ろうとしていて、最終的にはどこまで平城京を再現するつもりなのだろうか?!
観光客の様子を見ながら創っていくのかな?!
でもコロナ禍の影響で、そんな計画も頓挫したかもね!
こちらには先程内部を見学した「第1次大極殿」の、大きな木造部分構造の模型が展示されているのが見える。しかも見学しやすいようにか、木造模型も半分の所でカットされている。
この第1次大極殿が使われていた奈良時代当時は、ここが日本国内で最も影響力を誇っていた場所なので、当時の技術の粋を集めた建物が造られていたのであろう。それもあってこの第1次大極殿の復原には、この平城京跡で約180億円という最も費用が掛かっているのである。
地震の多い日本国内では、耐震構造の面でも完全木造の新しい建物はほぼ消えつつある。勿論この第1次大極殿も木造建築物ではあるが、所々に耐震補強の構造が取り入れられている。だからこのような歴史的な木造建築物を復原しようと思うと、耐震構造の基準をクリアした物を造らないといけないので費用とかも更に増えてしまう。
なお名古屋にある名古屋城なども耐震構造の面で問題があり、現在は天守閣には立ち入り禁止となっている。そして今の天守閣を取り壊して新しい木造天守閣に造り替えるか、それとも今の天守閣に耐震補強をして使い続けるかが議論を呼んでいる。なお現名古屋市長の河村たかし氏は選挙の公約の中に『名古屋城天守閣の本物復元検討着手』と、新しい木造天守閣に造り替えを盛り込んでいる。
戦後になって再建された城が老朽化してきて、全国の城も大変そうですね・・・
日本は地震が多いから、大変やねんな!
こちらのパネルでは日本古来の巨大建築物が、当時の簡単な道具だけで造られているのが驚異的であると訴えかけている。当時は今みたいに道具もそうだけど金具などもそう使われていないので、建物の構造は完全木造だった。だから知恵を働かせて、上手い事柱がハマって固定されるような設計になっていたりする。このような今みたいに鉄筋コンクリートが使えなかった時代ならではの知恵で、現代人は色んな発明をして賢くなったように思えるけども、実際には近世の発明によって人間自身の能力としては廃れつつあるのかもしれない。
この奈良時代の人達も今の時代から見ると、中国人っぽい文化のような服装をしていたのだろう。というのも遣唐使の前身である遣隋使などが文明をリードしていた隋(中国)などからの文明品などを持ち帰ってきて、それが日本国内に広まっていって当時の最先端としてもてはやされたのだろう。
朱雀広場に造られていた「いざない館」は意外と広くて、全部見て回るにはかなりの根気が必要になる場所。というのも奈良時代のものばかりが展示されていて、こういった遺跡が好きな人でも好きな歴史の時代が別れている。だから奈良時代に興味がある人だったらいいけど、ボクは戦国~幕末頃までが今は興味があるけど、この奈良時代はあまりに前過ぎて興味が出ないのである。なお、こちらの木の中身がくり抜かれたものは、昔に使われていた「木樋」という排水管の役割をしていたもののようだ。
今もそうだけど人間の排出物などの問題は、当時から付き物だったもの。勿論今みたいに全然他人のウ〇チの匂いを嗅ぐ必要の無い時代ではなく、日常的に他人の糞などの匂いに慣れていたのかもしれない。ただそんな時代でもちゃんと排水管の重要さが認識されていたようだ。
地球上に生きる生物の中でも人間社会がこれだけ繁栄したのには、人間同士が大きなコミュニティーを作って集団活動をしながら、お互いに切磋琢磨して色んな知恵を身に付けていったからだろう。元々は類人猿だったとは思えない程の進化ぶりを、こういう図を見ると改めて感じてしまう。
こういった歴史博物館的な場所での展示は、とても勉強になるものばかりで素晴らしい場所であるが、何せ奈良時代にはあまりまだ興味を持てていなかった時でもあったので、目の前の豊富な資料などが”猫に小判”状態となっていた。。
何に興味が有るか無いかで、人生って大きく変わりますからね!
集団生活を始める事によって、その集団がどんどん大きくなって、村が集まって大きな地方(豪族)が生まれて、さらに日本国として天皇が誕生する事になる。今では何気なしに必然的にそのような流れになったかと思ってしまうけど、このような資料館などで過去の歴史を調べていくと、それが必然と思っていた流れにもそれなりの理由があって今があるという事を勉強できる。そしてそれが理解できた時には、有頂天になる程楽しめてしまうのである。
こちらは「扁額」という当時の建物などに大きく飾られていた、建物の名称が書かれていた額である。2010年に復原された第1次大極殿の建物南側2階部分にもこの「扁額」は取り付けられており、こちらはその実物大の大きさで高さは約2.6m。
そしてこの「いざない館」の見学で疲れだしてきて気力がだいぶ落ちていた頃に、さっき朱雀門広場にあった銅像のモデルである「棚田嘉十郎」の肖像画を発見した。この平城京跡が今でも綺麗に保存されているのは、この棚田嘉十郎という人物のおかげであるが、残念ながら棚田嘉十郎は最後に自害する事になったという悲しい結末もある。というのも彼が約束した事が守られなかった事を受けて、その責任を取ったのである。
こういった責任の取り方も、江戸時代生まれの人だったからかな?!
こちらの展示品は模造品であるが、棚田嘉十郎が集めた平城京跡を保存する賛成人の同意を集めて提出した書状である。そしてこの書状の宛先は、当時の陸軍少将になっている。数年前までは「原っぱしか残っていない平城京跡」とも言われていたけど、この棚田嘉十郎が当時に保存活動を行わなければ、そんな平城京跡の原っぱすら残っていなかったのであろう。
こんな旅はまた次回に続きます!
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