奈良の平城京跡を横切る近鉄奈良線と、それを眺めるマスク姿のせんとくん【奈良旅行記②】

奈良旅行記②
 旅行期間:2020年9月8日~9日

世界遺産の敷地内を走る線路

奈良の平城京跡にある朱雀門の景色

ここは奈良市中心部から歩いても近い場所にある、『古都奈良の文化財』として世界遺産に複合登録されてもいる「平城京跡」。今から約1300年も前の奈良時代にこの場所に当時の天皇が都を移して、当時は日本の中心地となっていた場所。しかしその平城京も長くは続かずに数十年後に平安京に都を移転された後は荒廃し、次第に時代の流れに取り残されて廃墟となっていた場所。

 

平城宮跡歴史公園にて

平城京跡にある遣唐使船

この平城京跡には明治時代になってその跡地の遺構を保存する活動が起こった為に、その土地は保管される事となった。しかしそれまでは平城京というと特に奈良時代の建物など無くて、単なる原っぱが広がる場所だった。だが2010年に”平城遷都1300年記念事業”として1300周年を記念した大事業によって、平城宮大極殿やこの復原遣唐使船などが新たに造られている。

オカン
オカン

前までは平城京跡というと、何も無かったイメージしかないですね!

 

 

復原遣唐使船に乗り込む

平城京跡にある遣唐使船の乗り場

この復原遣唐使船には実際に乗り込む事が出来るので、乗船口へと向かう。この乗船口ではコロナ禍という事もあって、このように乗り口と降り口が一方通行で分けられていた。こういう施設を運営する側の人達は、このような細かい事などの感染防止対策にも気を使っていたというのが分かる。

 

平城京跡にある遣唐使船の写真

この復原遣唐使船は全長約30m/全幅約10mという大きさで、復原された船。こんな大きさの船に約100人程乗船して、また中国大陸へ貢ぎ物として渡す荷物も沢山積んでいたという。

 

平城京跡にある遣唐使船の写真1

そして復原遣唐使船の船体はこのように今見る一般的な船の形とは違い、長期滞在するキャンピングカーみたいな場所だった為か、家のような建物も見える。要人が眠る場所というよりは、唐の皇帝からの下賜品などをキチンと保管する保管庫だったのかもしれない。なおこの復原遣唐使船は具体的な資料が現存していない為に、ある程度の予測を踏まえて当時の形を復原したものなので、実際にこれが当時航海で使われていた物ではなくて、あくまで参考品程度の船のようだ。

 

平城京跡にある遣唐使船の写真2

この遣唐使船も航海術が未発達な時代だったので、悪天候などに思いっ切り影響されて、難破して遭難して死ぬ確率が高かった。だからこの当時に遣唐使として選ばれる事は大変な名誉であったハズだが、その代わりにその名誉と共に命を失う確率も高かったという重要な役目だった遣唐使。

 

平城京跡にある遣唐使船の説明パネル

この遣唐使船が約150トンの積載荷重があったと推測される。ただ乗船する遣唐使だけではなくて、大量の積載されている荷物も下手したら難破して海の藻屑となってしまう可能性も高かった。ただそれほどのリスクを考えみても、唐へ行くメリットの方が大きかったのだろう。今の時代から見れば命の危険性の割にメリットが少ないように感じる遣唐使だが、当時はそれ以外には外部の文明と接触を図れる機会がそれだけ無かったという事でもあろう。

 

平城京跡にある遣唐使船の説明パネル1

こちらにはこの復原された遣唐使船について「復原にあたって」というタイトルで説明がされている。約1300年前の遣唐使船姿については、古過ぎて確固たる証拠が残っていないという。だからその当時に実際に使われていた船を再現するのは困難で、かつ勝手に想像を膨らませて造るのも無理がある為に、その約400年後に運行されていた遣唐使船が描かれた絵を参考にして復原されたという。

オカン
オカン

教科書にも出てくる無難な船を選んだみたいやで!

 

平城京跡にある遣唐使船に乗り込む

この復元された遣唐使船には勿論乗り込む事も出来るが、高い場所は転落する危険性があるからか、このような所は乗り上げる事は禁止となっていた。

オカン
オカン

普通の人間はこんな場所には乗らないけどね!

 

平城京跡にある遣唐使船に乗り込む1

こちらはそんな遣唐使船から見える朱雀門や、その手前に造られている朱雀門ひろばの「天平うまし館」という食事処が入っている建物の右側に見えている。さてそろそろ昼飯をドコで食べるかを決めないと、オカン山が噴火する可能性がある。という事で先程簡単に内部を見学した「天平うまし館」に行ってみる事にする。

 

平城京跡にある遣唐使船の景色

この遣唐使船もまだ出来て新しいものでとても綺麗過ぎたので、全然古臭さを感じなかった。そういう意味ではあまり奈良時代の船を再現したとは思えにくい船だったように感じた。個人的にはもう少し質素な感じで、塗装もあまり綺麗に塗らずに逆に汚い感じにしていた方が、まだ奈良時代の船というイメージが出ていたかもしれないと思った。

 

 

「天平うまし館」にて昼食を

平城京跡にある遣唐使船の説明パネル

さて遣唐使船を見学した後に「天平うまし館」に向かうが、そう簡単にはレストランなどには入らないボク。とりあえずさっき見えていた、こちらの船と坊主オジサンの像に引き寄せられてしまう。

オカン
オカン

いつもこんな感じなので、もう慣れた事です。怒っても無駄なんです!

 

平城京跡にある遣唐使船の説明パネル1

こちらの説明パネルには5~8世紀に混沌としていた東アジア地方の説明が書かれていて、当時の東アジアでは色んな勢力が台頭しては勢力争いが起きて激動の時代だったようだ。そしてその時代に東アジアで力を持っていた勢力などが日本にもやって来て、色んな進んだ文明などを伝授していったようだ。この時代頃に中国大陸から仏教などの教えが伝来して、奈良時代にはそれらの考えが大きく広まっていったようだ。

 

平城京跡にある遣唐使船の説明パネル2

こちらは中国から贈られた、日中友好1000年以上を記念した船と鑑真の像が展示されている。この奈良時代に遣唐使を送り込んで友好的な関係を結んだ中国大陸は、日本にとっては海を隔てた先の魅力的な地であった。江戸時代には鎖国制度が始まったものの、中国大陸との取引は江戸幕府管轄下で独占的に継続して貿易は続けられていた。

 

平城京跡にある遣唐使船の説明パネル3

こちらの目を瞑ったオジサンの胸像は、唐で生まれた鑑真のもの。仏教徒の僧として日本に仏教を伝来する為に日本行きを決断したものの、彼を危険な渡航で失う事を恐れた周囲の人間たちによって、何回も渡航の機会を逃す。そして日本行きを思い立ってから約10年後に遣唐使船に乗り込んで、日本に向かい無事到着する。しかしその時点で既に視力を失っており、日本の景色をその肉眼で目にする事が出来なかったという鑑真。そして日本に到着してから約10年後、鑑真が創建した唐招提寺でその生涯を閉じる事になる。

 

平城京跡にある食事処

この「天平うまし館」にはレストラン風の食事処と、こちらのカフェっぽい食事処の2店舗が入っていた。ただレストラン風のお店『tokijiku kitchen 平城京(トキジク・キッチン)』は満員で、コロナ禍という人が少ない時期でも順番待ちとなっていたので、仕方なしにこちらのカフェに入る事にする。

 

平城京跡にある食事処2

なおこの『トキジク・キッチン 平城京』では1,500円・2,000円・3,000円というそこそこなお値段のランチコースが、結構人気だったみたいである。

 

平城京跡にある食事処1

レストランではなくカフェ系の店舗なので、店舗前の看板などもアイスなどの軽食がアピールされていた。食べ物にこだわる人にはちょっと物足りない店かもしれないけど、あまり食にこだわらない人間としては何か食べれるだけで充分なのである。という事でこちらの『IRACA COFFEE(イラカ・コーヒー)』の方に入ってみる。

 

 

平城京跡にある食事処でアイスを食べる

いつもは延々とギブアップ寸前まで歩かされるオカンだけど、今回はすんなりと昼食休憩を貰えてご満悦の顔をしている。

オカン
オカン

この子、ワタシの年齢を気にせずにいつも連れまわすんですよ!(怒)

 

平城京跡にある食事処でアイスを食べる1

しかしなんとオカンはここで、まさかのアイスクリームを選択する・・・。あれだけ腹が減ったら動けないと平気で言う割に、昼飯でアイスクリームを食べているオカンの姿を始めて見たかもしれない。。

オカン
オカン

だって暑かったからアイスを食べたいと思ったし、上に乗っている鹿ちゃんも可愛いし!

ナラ鹿
ナラ鹿

鹿は食べる物ではなく、眺めるものナラ~!

 

平城京跡にある食事処でうどんを食べる

そんなアイスクリームを平気で昼食代わりに選ぶオカンにガッカリしつつも、こちらは簡単にきつねうどんを食べる事にした。このうどんは朱雀門に居た警備員のオジサンが「アソコで食べるきつねうどんは量少ない割に高いので、他所で食べた方がいいよ!」と言っていたもの。確かにこれほどのうどんで450円~500円程という値段設定は観光客なら食べるけど、この辺で働いている人からするとあまり食べたくなるような値段設定ではなかったのかもしれない。

 

平城京跡にある、マスク姿のせんとくん

さて昼食を食べた後は朱雀門広場に置かれていた、奈良のマスコットキャラクターである”せんとくん”とご対面する。実はこの”せんとくん”は2010年の行われた「平城遷都1300年祭」のマスコットキャラクターとして、生み出されたもの。そしてその選考の際に反対意見などが出て、その反対勢力が別のマスコットキャラクターをぶつけてきた。だがそれで逆に全国ニュースなどに取り上げられて知名度が高くなり、その後は「平城遷都1300年祭」だけではなく奈良のマスコットキャラクターまで出世した”せんとくん”である。

 

 

平城京跡にある、マスク姿のせんとくんで記念撮影

そんな元々の平城京跡に設置されている”せんとくん”と、一緒に記念撮影を行う。なお今回の旅では新たに購入した自撮り棒を兼ねたスマホ用携帯三脚を持って来ていたが、オカンがいたのでそれを使わずに代わりに写真撮影を任せる。するとオカンはあまりスマホでの写真撮影に慣れていないので、イマイチこちらが思っている構図での写真が撮れなくて何回か撮り直す事に。。

オカン
オカン

ワタシに撮ってもらっているだけでも有難いと思いや!(怒)

ナラ鹿
ナラ鹿

君のオカン、すぐ怒るんやな~!

 

平城京跡の朱雀門

もう少しじっくりと”せんとくん”と写真を撮ろうと思っていたが、向こう側から「あ~~、マスク付けた”せんとくん”がおる~~!!」と、校外学習で来ていた小学生の団体が近づいてきたので諦めて平城京跡中心部に向かう事にする。

 

平城京跡の朱雀門1

そしてこちらは朱雀門を渡って反対側の北側から眺めたもの。正面側の南側に「朱雀門」と文字の入った看板があったけど、それ以外は前後対称的な造りで造られていた朱雀門。なお朱雀門を通る際にさっき話をした警備員のオジサンに「結局あそこのうどんを食べましたよ!」と伝えると、「公園の外側まで行けば良かったのに!」という言葉が返って来た。。

 

 

平城京跡敷地内を走る線路

平城京跡を横断する線路

そして朱雀門を通り過ぎて天皇が住んでいた場所があったとされる所まで北進しようとすると、その眼前に線路が邪魔しているのが見えてくる。こちらは近鉄奈良線の「大和西大寺」~~「近鉄奈良」間の路線である。

 

平城京跡を横断する線路1

この近鉄奈良線の路線はこの平城京跡が史跡として認定された1922年よりも、約8年早くここに造られたもの。当時は田んぼなどしか目立った物が無かった原っぱだったのであまり気にせずに用地を取得して線路を敷いたものの、後になって国の史跡となり、更には世界遺産(複合登録)にもなってしまった平城京跡。

 

 

平城京跡を横断する線路2

そしてこの近鉄奈良線の線路については移設計画が持ち上がっている。というのも世界遺産にも登録されてしまった場所なので、その敷地内を平気で電車が横切るのも問題だけど、それと共に問題になっているのは通勤ラッシュ時などのピーク時間帯には”開かずの踏み切り”になってしまっている事だそうだ。この時は昼間だったので全然その開かずの踏切感が無かったけど、観光客が多く訪れる事を期待している奈良県からすると迷惑な路線となってしまっている訳だ。

 

 

平城京跡を横断する線路3

ただそれだけの本数が通る電車という事は、それだけ重要な路線であるという事。単なる渋滞緩和であれば高架線路にするという案もあるけど、ここは世界遺産に認定された場所なので高架や地下路線などは出来ずに迂回せざるを得ない。そうすると費用の面からも色んな問題が出てくるそうだ。ただ奈良県としては前向きに線路の移設を行っていく考えなので、次来るときにはこの線路も無くなっているのかもしれない。

 

 

平城京跡を走る近鉄奈良線の電車 動画

 

 

平城京跡を進む

ただ世界遺産に認定された後に「平城遷都1300年祭」などもあってこのように原っぱだった場所に復原されつつある建物などが見えているけど、約100年程前には近鉄奈良線の線路しか見当たらなかった場所。時代の移り変わりに応じて、線路も場合によっては移設せざるを得ない時代が来たという事かもしれない。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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