彦根城旅行記2022年1月-6
旅行期間:2022年1月(当日旅)
雪深い滋賀県!
こちらが滋賀県彦根市が誇る『国宝』に指定されている、江戸時代から現存する「彦根城天守」の建物。江戸幕府に気を使って、江戸城の天守よりも小さく設計した為に、ちょっと控え目サイズの天守の建物のようにも感じる。
彦根城:天守内の見学!
この彦根市は江戸時代に入ってから、中山道の宿場町が近くに整備された事もあって、大きく発展していった。
彦根城の築城は当初、西軍の動きを牽制する為として日本の中心部という立地に造られたが、後になってからは戦に使われる事なく、中山道での欠かせない宿場町として経済発展していく事になる。
こちらの上に繋がる急角度の階段は、足を乗せる部分が金属で補強されていた。
元々この天守という建物は観光向けに造った施設ではなく、あくまでも敵が攻め込んできた際に逃げ込むシェルターとしての役割だったので、このような傾斜がキツい階段となっている。
彦根城天守の最上階にて
そんな階段を登ると、このように周囲は明るくなって、開放感があるフロアとなっていた。
どうやらここが最上階の3階のようで、小ぶりな天守だったので早々に最上階に辿り着いてしまったようだ。
姫路城や岡山城のように大きな天守を備えた城ではない彦根城なので、意外と早く最上階に到着した気分になってしまう。
ただ天守という建物も、高ければいい物ではなく、あくまでも有事の際に逃げ込むだけの建物だった。
なお、世界中では日々世界一の高層ビルを目指して各地で建設ラッシュが起きているが、江戸時代には”江戸幕府の目”が効果があった為に、無造作に競争して高い天守を建てるという事は起きなかった。
最上階からは彦根市を一望できる景観が待ち受けている。彦根市はJRの駅前にそこそこ大き目の建物が集中しているが、それ以外の場所はこのように住宅などが多いので、あまり高い建物は見受けられない。
そして最上階内はコロナ禍という事もあって、通路の進行方向が制限されていて、自由に中を動き回れないようになっていた。
観光する側からすれば、もっと自由に動き回りたいと思うけど、施設を運用している側からすれば、なるべく新型コロナウイルス感染者を減らすように尽力しているだけなのである。
最上階まで登ってくると、下のフロアに比べてやや狭く感じる。しかし、天井は結構高くなっていて、最上階内の圧迫感はあまり感じられなくて、逆に狭いながらも開放感を感じれる場所となっている。
この彦根城の「天守」&「附櫓」&「多聞櫓」は、戦後の1952年に国宝に指定されている。彦根市は第二次世界大戦時に数回空爆の被害を受けたが、幸いにもこの彦根城天守の建物などは無事だった。
戦争は大事な文化財が壊されるだけだから、もう起きて欲しくないね・・・
天守最上階の景観! 動画
木造建築物の柱って真っ直ぐなイメージがあるけど、実際にはこのようにそれぞれの形に湾曲した木材を、上手い事組み合わせて天守が造られている。
ちなみにこのような”湾曲した木材”を梁として使っている天守や櫓の建物が多いが、それは真っ直ぐな材木が手に入らなかったからではなく、このような”湾曲した梁”の方が普通に真っ直ぐな柱より頑丈だからだという。
エリート街道を進んできた天才より、挫折を繰り返してきた苦労人の方が大成するみたいな話かな?
この湾曲した梁が見た目も”良い味”を出していて、立派な天守の建物の雰囲気をより荘厳にしているようにも思えてしまう。
このように江戸時代から現存する天守は、昔に使われた木材に注目して見学するだけで、普通の見学をしている人々に比べて倍以上の満足度を得る事が出来る。
天守の見学はその歴史を見ると共に、このような古い木材を見る見学でもあるのだ。
この彦根城本丸からは、遠くの方に海のように見える琵琶湖も見えている。ちなみに滋賀県民はこの琵琶湖の事を『海』と呼んでいるらしい。
確かに日本国内で最大の面積を誇る湖なだけに、小さな海と言っても過言ではないかもしれないが。。
琵琶湖は滋賀県民の象徴やから!
琵琶湖は滋賀県民の象徴であり、誇りでもあるので、横の京都人に対しては「琵琶湖の水を分けてやっている!」と考える県民性があるという。
ただ上の記事にもあるように、琵琶湖の水が流れていく京都側で、その水を止めると琵琶湖の水位が上がって、琵琶湖周辺の街が水に浸かってしまうようになる。
なので、京都府民からすれば「琵琶湖の水を流してやっている!」という考えになるようだ。
滋賀県民も京都府民も、地球の上に住ませてもらっているのに偉そうね!
地球の有難みを分からない人類は、極刑に値するゾ!
この彦根市は琵琶湖の南西に位置して、滋賀県内でも比較的温暖で、積雪は少ない地域である。しかし、そんな彦根市でも冬となればそれなりに雪が積もり、国宝の天守を白く染めていた。
太鼓門櫓内部の見学!
本丸には今では天守ぐらいの建物しか残っておらず、それ以外にあった建物は撤去されている。
なので、入ってくる時に下を通ってきた「太鼓門櫓」の内部を見学してみる事にした。
彦根城内には天守以外に、こちらの「太鼓門櫓」や「西の丸:三重櫓及び続櫓」や「天秤櫓」など、江戸時代から現存する櫓の内部を見学する事が出来る。
なので、天守だけを見学して帰るのではなく、他の櫓もしっかり見学して帰るべきである。
ただ江戸時代から現存する櫓といっても、このように内部は改装されている事もあって、昔のそのままの姿を残している訳でもない。
こういった所は残念なポイントなのであるが、時代が進む毎に補修や改修などを経て、姿を変えていくのは仕方ない事かもしれない。。
この太鼓門櫓の窓からは、下の階段から攻めあがってきた敵に向けて攻撃できる構造になっている。
このように江戸時代初期に築城された城は、敵襲に備えた仕掛けばかりとなっているが、この彦根城は敵襲に遭わなかったので、その仕組みがどれほど効果があったかは不明のままである。
こちらは昔の彦根城絵図が飾られていて、今では見られない櫓などの建物が多く見受けられる。
また、本丸内には建物が無い斜面などに木を植えて、天守への視界を遮る役目も果たしていたようだ。
こちらは明治時代に撮影された、彦根城内の古い写真が飾られている。江戸時代末期に日本国内に写真技術が渡ってきて、明治初期にはこのような名所の写真撮影が多く行われるようになっていった。
そしてその明治時代に撮影された写真でしか、今となっては見れない建物も多い。世界遺産に登録しようとしている、歴史ある建造物が多く残る彦根城でも、こうやって明治時代初期と比べれば、多くの建物が失われている現状が理解できる。
『形あるものは、いつか壊れる』という言葉もあるしね!
そんな古い城の写真を撮影していた明治時代初期に、このように城が観光名所となって重宝されるとは、想像しにくい時代だった事だろう。
その明治時代初期は、次々と海外からの文化が流入してきて、国内で昔から伝統として引き継がれてきた文化が、”時代遅れ”として蔑まれていったからだ。
「着見台」にて
天守の南東方向にはこのように階段状になっている所があったけど、この場所にはかつて「着見台(月見櫓)」という建物があった所となっている。
本来なら城内で最も重要な場所だった本丸の周囲は、櫓や塀などの建物で取り込まれている事が多い。
本丸内でも最も東端にあった櫓なので、ここから遠くを見渡せる展望台の役割を果たしていたようだ。
ただ、残念ながら明治初年に早々に櫓は取り壊されてしまって、今ではその名残りを残した展望台となっている。
ここからも琵琶湖や佐和山城跡などを一望できる展望が広がっている。彦根城の周囲に大きな建造物が見当たらない事もあって、見通しの良い展望台となっている。
また奥に見える山も、雪が積もって白くなっている光景が冬らしくも思える。
着見台からの景観! 動画
この彦根城本丸内は高い場所がないので、天守を水平線レベルの角度で綺麗に撮影できるスポットが見当たらない。
本丸の中でも少し高台となっていた、この「着見台」からだと、ちょっとマシな写真が撮れたけど、それでも手前の売店の建物がその景観を邪魔していたが・・・。
他に彦根城天守を撮っている人の写真を見たけど、皆考える事は同じようで、ちょっとでも高台から撮りたくて、この着見台跡の上から撮影していた写真もそこそこ見受けられた。
このような天守は下から見上げるように撮影してもその姿を上手く捉えられないので、このような高台に撮影スポットを設けてくれると有難いのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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