彦根城旅行記2022年1月-16
旅行期間:2022年1月(日帰り旅)
彦根の観光通り!
さて彦根城の歴史ある天守の建物や彦根城博物館もじっくり見学し、更には「ひこにゃんショー」を2回も鑑賞したので、気分的にすっかり満腹状態。
あとは奥に見えている佐和口多聞櫓の中にある、「開国記念館」という場所を見学して帰るとする。
「彦根市開国記念館」の見学!
二ノ丸から外に繋がる橋には、このような多聞櫓と門がそれぞれに建てられていたが、江戸時代からの建物が現存しているのはこの佐和口のみである。
そして、佐和口に残っている多聞櫓もその全体は残っておらず、右側の櫓部分しか残されていない。
今立っている付近には、佐和口から入る門があった場所で、左側に見える建物「佐和口続多聞櫓」は明治初年に解体されてしまっている。
なので今見られる建造物は、”井伊直弼没後100周年”を記念する事業で鉄筋コンクリート造りにて復元された建物で、この建物に「彦根市開国記念館」が入っている。
佐和口続多聞櫓の階段を登った2階に「彦根市開国記念館」の入口があるが、入場料は無料で嬉しいのだが、館内は撮影禁止となっていて、嬉しさが半減してしまう場所でもあった。。
館内は撮影禁止だったので、代わりに入口で寝そべっている「ひこにゃんの看板」だけ、写真に収めた。
彦根市開国記念館内では、彦根城の模型などが置かれていて、彦根城の歴史などについて詳しく説明されていただけに、写真撮影出来ないのがとても残念であった。。
しっかり記憶に留めて帰ってね!
この佐和口多聞櫓のように、一部は江戸時代から現存しているものの、半分以上は明治時代に解体されて、のちの時代に復元された建物だというのが意外と多い。
何も知らない人間からすれば、江戸時代から現存する天守の建物だけを見て、「江戸時代の風景がそのまま残っていて凄~~い!」と思うかもしれない。
ただ実際には文明開化の明治時代やそれ以降の近代化の波を受けて、完全に江戸時代の景色が残されている場所は国内には殆ど存在していないのだ。
それと二ノ丸跡には、このように郵便ポストの上にも彦根城の像が置かれていた。城のメインはその中心部にあった天守閣の建物だけど、やっぱり世界遺産となるとせめて中堀までの建造物は江戸時代のまま、残っているのが望ましいように思うが・・・。
佐和口から城内に入ってきたので、帰りは別の出口から出ようと二ノ丸跡を散策して、出口を探す。
二ノ丸跡から本丸を眺めると、このように周りに植えられた木々が邪魔して、本丸を見通せないようになっている。
こちらは今では「滋賀県立彦根東高等学校」が建っている場所だが、江戸時代に代々彦根藩の家老職を務めた「長野家」の屋敷があった場所でもある。
長野家というと、井伊直弼時代に現れた国学者:長野主膳かと思ってしまうけど、その長野ではなく、元武田家臣から徳川家に移って、最終的に井伊家に仕えた家柄のようだ。
そして見えてきた大きな櫓は「旧西郷屋敷長屋門」という、これも江戸時代に家老職として井伊家に仕えた西郷家の屋敷があった場所。
ただ、この長屋門は江戸時代のまま現存している貴重な建造物で、”彦根市指定文化財”にも指定されている。
西郷家といっても、あの西郷隆盛とは関係ないけどね!
ここに屋敷を構えていた西郷家も、静岡出身で元々は徳川家に仕えていた。
そして徳川家から井伊家に仕えるように指令を受けて、彦根藩にやって来て、幕末まで場所を替える事なく、ここに屋敷を構えていたという。
そんな屋敷跡を見ながら進んで行くと、目の前に「京橋口:御門跡」が見えてくる。
このような両脇に鋭角な石垣が構築されているという事は、昔にここに大きな門が設置されていた跡でもある。
そんな立派な門があった場所も、今ではこのように道路が敷き詰められていて、普通に車が通行できる道となってしまっている。
個人的には彦根城を世界遺産にするのであれば、中堀の内側にある二ノ丸などは、車で通行できない場所にして、このような道路も撤去した方がいいと思うのである。
ここにあった「京橋口御門」も明治時代の初期までは現存していたけど、明治時代途中に解体されてしまっている。
明治天皇が行幸してきた際に大隈重信が「彦根城は残すように」と上申したようだけど、このような門などは通行に不便な為に、取り壊されてしまった。
そういう事実を知ると、先程見た「旧西郷屋敷長屋門」が綺麗に現存しているのが奇跡的に思える。
ただ、その長屋門は上手く京橋口に繋がる道を塞がずに脇に建っていただけなので、取壊しを免れただけだったのかもしれないが。。
京橋口にて
そんな門跡の石垣を抜けていくと、目の前に通りが見えてくる。昔に車に乗って彦根城の中を走った記憶があったけど、その時は彦根城の二ノ丸内を走っていただけ。
ただ、このような二ノ丸跡の城郭が綺麗に残されている場所を車で通行できる場所は少ないだけに、車で城内を走る体験も楽しめる彦根城である。
そして彦根城の西側に造られている、京橋口に架かっている橋の欄干にあった擬宝珠。そろそろ16時過ぎとなっていたので、遠くの空では太陽が沈み出そうというサインを発していた景色も見られた。
昔の城郭では、内堀・中堀・外堀と三重に堀が造られていた所が多い。
しかし、明治時代以降に役立たなくなった堀は埋め立てられてしまい、このような内堀は見られる所はあっても、外堀は完全に埋め立てられてしまった所が多い。
そしてこの京橋口から先に延びる道は『夢京橋キャッスルロード』と名付けられていて、元々は大手門へと繋がる城下町として江戸時代に栄えた場所だった。
しかし、近代化が進むと彦根駅側に官庁や病院が転居していき、この辺りの町は廃れていった。
その為に2000年を前にして再開発事業が行われて、彦根城にやって来た観光客をターゲットにしたお店が立ち並ぶエリアに生まれ変わっている。
江戸時代を通じて発展してきた城下町も、明治時代になってから鉄道が敷かれた後は、人と物の流れが途切れてしまって活気を無くしてしまった。
それだけ”人と物の流れ”は経済発展に大きく影響しており、現代でもリニア新幹線の駅招致合戦が行われている理由も理解できるのである。
『夢京橋キャッスルロード』に立ち並ぶ、江戸時代風のお土産屋の建物も何となく昔に見た記憶がある。恐らく、この彦根城内を車で軽く走った後に、この京橋口から出てきて、『夢京橋キャッスルロード』をちょっと走ったのであろう。
ちなみにその時は得意先の担当者を横に乗せていて、その人の得意先の1つがホームセンターの「カインズ」だったので、この近くにある「カインズ彦根店」まで行って市場調査をした記憶が甦る。
その際に得意先担当者の人が、店頭に陳列されている自社製品を1個ずつ正面に向けて並べ直していた姿も思い出す。
そういった姿を見ていると、会社で自分が担当する商品を販売するだけではなく、実際にその売った商品が現場でどういう使われ方をしているかを調べたり、また陳列されている商品でも、ちゃんと綺麗に並べ直す事の大事さを知ったのである。
最終ユーザーまで、満足してもらうように心掛ける事はとても大事やな!
彦根城にやって来た観光客の流れを取り込もうと整備されている夢京橋キャッスルロードも、このように寒い1月で、しかも新型コロナウイルスの影響もあって、通りには全然観光客の姿は見られない。
この通りにはズラ~~っとお土産物屋や飲食店が並んでいたけど、休業しているお店もチラホラあって、全く活気が無かった。
しかし、長いコロナ禍を経験し、比較的感染が収まってきた2022年末頃から開始された『全国旅行支援キャンペーン』の影響もあって、2023年には人通りも戻っているのかもしれない。
そして体力のない店は淘汰されて、新しい店も続々と出店してきているようだ。
この通りに立ち並ぶ建物の屋根には、今朝降った雪がまだ残っており、外観だけはレトロな雰囲気を醸し出していた。
しかし、これらの建物の多くは江戸時代から残る建物ではなく、江戸時代風の建物に似せた外見で造られているのだが。。
そしてこんな彦根城の城下町にも、こちらのフルーツ大福で人気が爆発した「覚王山フルーツ大福 弁才天」の彦根店があった。
(※2022年の後半に閉店)
最近ではその辺でもよく見かける「覚王山フルーツ大福 弁才天」だけど、この彦根店は2021年3月頃にオープンしていた。
店内は井伊直弼のイメージに合わせたデザインになっていたようだが、残念ながら2022年の後半に閉店してしまっている。
この「覚王山フルーツ大福 弁才天」は2019年に開業したフルーツ大福の販売店であるが、インスタ映えする商品が受けて、一気に店舗数を増やした。
元々は広告代理店に勤めていた人が素人同然で始めた店であるが、その職人と違う着眼点からの斬新さが評判となった。
そして最近になって、創業者の社長が株式の半分をファンドに売却したようだが、出店ラッシュで2022年末で70店舗近くまで急成長したブランドの売却時期として、個人的に見事なタイミングだと思う。
というのも、このように一気に成長した飲食店やお土産屋などは、店舗を増やし過ぎた為にそれが祟って経営難に陥る会社がとても大きいからだ。
この弁才天の創業者は自分に経営のノウハウや経理的な知識が欠けている事を認識していた事もあって、それで早めにファンドに株式の半分を譲渡したという。ただ、一応残りの半分の株式はまだ所有しているらしく、お店の海外出店をこれから計画しているそうだ。
ただ、高級食パン専門店「乃が美」のようにフランチャイズ制にして多く出店しても、時と共に人気のあった商品が飽きられる日が近い内にやってくる。
この「覚王山フルーツ大福 弁才天」も『暖簾分け制度』という言葉を使ってはいるものの、同様にフランチャイズ展開で加盟者から収入を得るビジネスも、どこかで行き詰る時期が必ずある。
この訪問時に見た彦根店も2年を持たずに閉店してしまっており、一気に全国展開する程になった人気ある商品ほど、急に売れなくなって潰れてしまう事も多い。
株式の世界でも、期待の高くて人気の株は、その会社の実績の何十倍もかけ離れた値段に急騰する事が度々あるけど、必ず高くなり過ぎた株価は見るのも悲惨な位に急落して、二度と立ち上がれなくなる場合が多い。
ちなみに上記の株価チャートは、2020年のコロナ禍で大活躍した”ビデオ・オンライン会議”を提供する「Zoomビデオコミュニケーションズ」(Zoom Video Communications, Inc.)である。
コロナ禍で世界中の企業がZoomを使い始めて、爆発的に売り上げと利益が増えて急成長したが、2021年初頭に株価はピークを打って、そこから下落を続け、2023年初頭の段階で最初の頃の株価まで落ちてしまった・・・。
株の世界は怖いな・・・
業界に革命的な衝撃を与えて現れる新しいお店も、売上追求の為に出店ラッシュをしていって、自社店舗同士で客を奪い合うようになり、そこに競合他社との戦いも加わって採算が採れなくなっていく事が多い。
株の世界もそうだけど、本当に長く続く商売などは、じわじわと慎重に店舗を増やしていく店であって、急展開している「覚王山フルーツ大福 弁才天」の将来がどうなるか楽しみでもある。
宗安寺に寄り道!
そんな観光客向けのお店が立ち並ぶ夢京橋キャッスルロードにあった、こちらの歴史ありそうな「宗安寺」という寺にちょっと寄り道してみる事にした。
なお、こちらの立派な山門は、佐和山城大手門を移築した表門という言い伝えが残っており、朱色に塗られている事もあって『赤門』と呼ばれているようだ。
元々は井伊家が治めていた関東の上野国に建立された寺であったが、井伊家が彦根に移封されてきた際に合わせて移築したという。
当初は佐和山城の麓にあったが、彦根城の築城と共にこの地に更に移築されてきたという。
そして元禄14年(1701年)に彦根で起こった大火で焼失してしまうが、翌年に井伊家の資金提供もあって再興される。その際に長浜城の御殿が移築されてきて、それを改造して寺の本堂として使っているという。
そして寺の境内に飾られていた、こちらの鬼瓦と徳川家の『葵の御紋』。
この『葵の御紋』が刻まれているものは、本堂の上に取り付けられていた避雷針を支える為の物だったようだ。
そしてこちらの鬼瓦は、大火で焼失した本堂が再建された後の1748年に造られてから、1997年に行われた大改修工事まで約250年間に渡って本堂の上に取り付けられていた鬼瓦だった。
現在では同じ大きさの新しい鬼瓦が本堂に取り付けられているが、歴史ある昔の鬼瓦はここで御役御免として保存されていたのである。
彦根の歴史を見てきた鬼瓦やね!
このように江戸時代には、仏教寺が厚く庇護されていた為に、江戸時代の歴史が多く詰まっている。
なので城跡などを訪問する際には、近くにある歴史ありそうな寺に立ち寄ってみると、色んな発見が出来る機会が埋もれているのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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