ひこにゃんが溢れる城下町を散策し、名物のバウムクーヘンも買わずに帰る【彦根城旅行記17-完】

彦根城旅行記2022年1月-17:完結編

旅行期間:2022年1月(日帰り旅)

見るだけ!

彦根市 キャッスルロード

さて彦根城の見学を済ませてJR彦根駅に戻る途中、かつては城下町として栄えていた彦根市本町周辺を散策しながら歩いて行きます。

彦根城の西側にある「夢京橋キャッスルロード」脇には、観光客向けのお店などが立ち並んでおり、見た目にはそこそこな情緒があるように見える場所ともなっている。

 

 

彦根市内にて

彦根市 キャッスルロード 松下幸之助の名言

そんな彦根には、”経営の神様”とも称された松下幸之助の名言が書かれた看板が設置されていた。

何故に彦根で松下幸之助の名言なのかは分からなかったけど、松下幸之助の名言はどこで目にしても素晴らしい内容である事には間違いないのである。

 

万策尽きたと思うな。

自ら断崖絶壁の淵にたて。

その時初めて新たなる風は必ず吹く。

by  松下幸之助

飛虎ヤン
飛虎ヤン

いつ聞いても、素晴らしい名言やね!

直江クン
直江クン

退路を断たれた時に、人は最大限の力を出す事ができるんだよ!

 

彦根市 四番町スクエア 建物

そんな看板などが設置されていた、こちらの建物は「四番町スクエア」という商業施設。

この辺りにはかつて彦根市場商店街という賑わう商店街があったが、彦根駅前や郊外に大型ショッピングセンターが相次いで出店してきた為に、閑散となってしまった。

それを挽回しようと造られた商業施設となっていて、観光客向けのお店が立ち並ぶ場所となっている。

 

彦根市 四番町スクエア 建物 ひこにゃんの登場口

そしてこの「四番町スクエア」が、ひこにゃんショーのスタート地点ともなっている。

ひこにゃんショーは毎回彦根城の麓にある彦根城博物館前で行われている訳ではなく、初回だけはここ「四番町スクエア」で行われているようだ。

 

彦根市 寺町を歩く

そしてこの周辺には、そこそこに寺が密集していて、寺町が形成されていたのが分かる景色となっている。

江戸時代には仏教寺が庇護されていたので、全国的に多くの寺が建立されていったが、逆に明治時代に入っての廃仏毀釈によって、仏教寺が消えていく事になる。

 

彦根市 四番町スクエア 周辺 建物

とりあえず「四番町スクエア」周辺に、ひこにゃんの石像が置かれているという情報を見ていたので、この周辺を捜索してみる事にした。

この周辺も訪問時には、コロナ禍という状況でもあったので、観光客の姿は殆ど見られなかったが。。

 

彦根市 四番町スクエア ひこにゃんグッズ販売店

彦根市内では、兎にも角にも「ひこにゃん」ばかりの町となっている。

彦根市というと、世界的な自動車部品会社となった「タカタ株式会社」(経営破綻)や、近畿&中部地方を中心としてスーパーマーケットを展開する「株式会社平和堂」の創業地としても有名なのだが。

飛虎ヤン
飛虎ヤン

観光客は、タカタや平和堂には興味がないんよ!

 

彦根市 四番町スクエア ひこにゃんの看板

ちなみに「タカタ株式会社」は、エアバッグやシートベルトを世界的に販売する大きな会社だけど、元々は軍隊向けにパラシュートなどを製造販売していた小さな会社だった。

それがパラシュートの研究で戦後に渡米した際に、米空軍パイロットが戦争で亡くなるより、休暇中のドライブ中に事故死する方が多いという事実を知って、シートベルトの開発に取り掛かったという。

飛虎ヤン
飛虎ヤン

昔の車には、シートベルトが付いていなかったなんて驚きでしかないよね!

直江クン
直江クン

ジャパネットの「たかた」とは違うで!

 

 

彦根市 四番町スクエア 景色

それにしてもヒッソリとしていた、四番町スクエア周辺。観光客相手の町などは、2020年に世界的に大流行した新型コロナウイルスの影響で、その多くが壊滅的な打撃を受けた事だろう。

 

一応政府などからの支援金が出た為に、何とか存続している所もあるけど、コロナによる雇用調整助成金・休業支援金などは2023年初頭を持って打ち切られる予定なので、これから店を畳む所も更に増えてくる可能性がある。

飛虎ヤン
飛虎ヤン

経済的な第2波のダメージが、これから効いてきそうだね・・・

 

彦根市 四番町スクエア ひこにゃん石像

そして10分ほどこの周辺を散策して、やっとひこにゃんの石像を発見する。ただ、もっとキレイな像を想像していたけど、このように雨晒しになっていて、ちょっと汚れていたのが残念だったが・・・。

 

 

彦根市 銀座町 銀座商店街

そんなひこにゃんの石像を見学した後は、満を持してJR彦根駅の方に向かっていく。すると昔は賑わった商店街のように見える、屋根付きの「銀座商店街」という通りが見えてくる。

このように廃れてしまった商店街を見ると、日本という国がピークを過ぎて数十年経過し、崩れつつある現状を見せつけられているかのように感じてしまう。。

飛虎ヤン
飛虎ヤン

日本はもう浮上しないかもね・・・

 

彦根市 本町通 傾寄小僧”J" 建物

そんな活気が感じられない商店街を歩いていると、この近くに有名なお菓子メーカー「たねや」のお店があった事を思い出して、帰り道の途中に寄ってみる事にした。

すると、通り道に外観が古い建物があって、そのショーウインドウにレトロな品が飾られているのが見えた。

 

彦根市 本町通 傾寄小僧”J" ニッサン石鹼の看板

単に捨てられる品を集めてきただけのようにも見えるショーウインドウに置かれていた品の中で、ボクの目を特に引いたのがこちらの「ニッサン石鹸」の看板だった。

こちらは”知る人ぞ知る”的な老舗の石鹸・洗剤製造会社で、ボクが会社員をしていた頃にメインの得意先だった会社でもあるのだ。

 

ただ今から約10年前の2011年に、社名を「NSファーファ・ジャパン株式会社」に換えているので、若い世代にはあまり馴染みがないだろう。

ちなみに新しい社名の「NS」はニッサン=N、石鹸=Sを省略したものとなっている。それと「ニッサン」という名前はニッサン自動車とは直接関係が無く、日本油脂のグループ会社から来ていたようだ。

会社員時代の思い出が強い、ニッサン石鹸でした!

 

たねや&クラブハリエを見学!

彦根市 本町通 クラブハリエ たねや 石碑

そんな昔の思い出を思い出しながら歩いていると、すぐにこちらの「クラブ ハリエ」の文字と建物が見えてきた。

今や関西では知らない女性が居ない程に有名になってしまっている、老舗洋菓子メーカーのお店である。

 

 

彦根市 本町通 クラブハリエ 建物

「たねや」というと老舗お菓子メーカーであるが、個人的には「たねや」よりも、バウムクーヘンが大人気の「クラブハリエ」の方が印象が強い。

クラブハリエは「たねや」の洋菓子部門が別会社として設立された会社で、関西の大きな百貨店では必ず行列が出来ているお店でもある。

 

彦根市 本町通 たねや 建物

この「たねや」は本社が滋賀県にあるのは知っていたけど、わざわざ滋賀県の「たねや」に来た事が無かったので、ちょっと中を見学してみる事にした。

 

彦根市 本町通 たねや クラブハリエ 館内の景色

さっき歩いてきた夢京橋キャッスルロードにあったお土産店などは、全然観光客の姿が見られなかったけど、さすが「たねや」とクラブハリエは、お客さんが途切れる事なく、次から次へと出入りしていて、コロナ禍でもそこそこに盛況な様子だった。

 

彦根市 本町通 たねや クラブハリエ バウムクーヘン ショーウインドウ

甘い物が好きな女性からすれば、このショーウインドウを見れば「美味しそ~~!食べた~い!」と思う事だろう。しかし、別に甘い物をわざわざ買ってまで食べたいと思わない、硬派なボクはそのお菓子ではなく、お菓子を入れる箱に目が行ってしまう。

このバウムクーヘンを入れている貼り箱も表紙は、高級感があって、なかなかに箱にもこだわっている様子を感じる。

オカン
オカン

箱なんてどうでもいいから、中身のバウムクーヘンを買ってきなさいよ!(怒)

 

彦根市 佐和町商店街 華ICHI-BAN パチンコ店 建物

という事で写真を撮るだけで、「たねや」とクラブハリエはスルーする。店員さんもボクがそんなお菓子を買いそうに見えなかったからか、それとも押し売りをそこまでしないからか、近寄っても来なかったが・・・。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

怪しいヤツやと思って、警戒して近寄って来なかっただけやけ!(笑)

 

そして再びJR彦根駅を目指して歩いて行くと、古風なパチンコ屋さんが見えてきた。

 

彦根市 佐和町商店街 華ICHI-BAN パチンコ店 建物 壁

ただ、このように建物の下だけを見ている分には、この建物がパチンコ屋だとは思えない外観となっていた。

もっと幟が立って、壁にポスターを貼りまくっている従来のパチンコ屋のイメージだと、彦根城の城下町に相応しくない印象を与えるからか、このようにカモフラージュされていたようだ。

 

彦根市 佐和町商店街 歩く

そして駅へと向かう道は、「佐和町商店街」という文字が見えたけど、この通りもだいぶ寂れた雰囲気を感じた。

滋賀県では基本的に生活する上で”1人/車1台”がいるエリアでもあるので、郊外に大きなショッピングセンターなどが造られると、このように昔からの商店街の個人店はその大半が廃業に追い込まれたのだろう。

 

 

「大師寺」に寄り道!

彦根市 佐和町 大師寺 門

そして駅に向かって歩いていると、道の脇にこちらの提灯が光っている「大師寺」という寺を見つけたので、ここもちょっと寄り道してみた。

この大師寺は滋賀県内では少ないという”真言宗”のお寺で、そこまで歴史が古い訳ではなく、昭和時代頃に建立されたようだ。

 

 

彦根市 佐和町 大師寺 七福神の石像

そんな大師寺の脇には、『彦根一箇所七福神』とも呼ばれる、一箇所に七福神の石像が集まっている。

この七福神は主にインドや中国で生み出された神様であるが、1人だけ日本生まれの神様が存在している。

 

彦根市 佐和町 大師寺 七福神の石像 弁財天

「七福神の全員を答えろ!」といきなり言われても全然名前が出てこないけど、こちらの神様は琵琶を持っているので、『弁財天(べんざいてん)と直ぐに分かった。

全国で多く祀られている神様の弁財天は、唯一の女性の神様でもある。

朋ちゃん
朋ちゃん

似たような名前のフルーツ大福屋が、最近人気よね!

 

彦根市 佐和町 大師寺 七福神の石像 福禄寿

そして全く名前が出てこなかったのが、こちらの長い杖を持って、頭がツルツルで縦長だった、おじいちゃんの像。

このように老人の外観をした神様は2人居るけど、右手に「杖」と、左手に「如意宝珠」を持って、更に頭が長く、髭も長いのが『福禄寿(ふくろくじゅ)の特徴である。

 

彦根市 佐和町 大師寺 七福神の石像 布袋

大きな袋を担いでいるのは2人居て、服装がはだけて出っ張ったお腹が出ている、その辺の飲んだくれオジサンのような恰好をしているのが『布袋尊(ほていそん)である。

日本では「布袋様」としても呼ばれている神様だけど、七福神の中で唯一実在していた人間だったそうだ。

飛虎ヤン
飛虎ヤン

どうりで一番人間らしい外観をしているんやね!

 

彦根市 駅前 ひこにゃんのぬいぐるみ

そしてJR彦根駅に辿り着き、近くにあったショーウインドウを眺めていると、このようにお土産屋売り場は「ひこにゃん」一色であった。

同じような観光地でも、このような全国的に人気のあるマスコットキャラクターが存在しているかどうかで、お土産の売れ行きが違ってくるのだろう。

 

彦根市 駅前 ひこにゃんデザインマンホール

今でこそ「彦根城を世界遺産に!」という運動をしているけど、仮に200~300年が経過した未来では、彦根城ではなく、この愛くるしい大人気の「ひこにゃんを世界遺産に!」という運動が行われているのかもしれないな。。

飛虎ヤン
飛虎ヤン

「飛虎ヤン」にも一票、お願いします!(笑)

 

<まとめ>

 

電車の車窓から 眺め 雪一面 滋賀県

さて、2022年の旅はこの一面、銀世界の景色から始まった。特に前々から計画していた訳ではなく、1月中旬のとても寒い日に「雪が積もっていそうだから・・・」と安直な考えで、家を飛び出してJRの電車に乗って滋賀県に向かったのである。

 

滋賀県 彦根駅 駅前ロータリー 井伊直政の銅像

その目的の彦根市には、彦根藩を江戸時代に治めていた井伊家の居城だった「彦根城」がある。

この彦根城は国内で12個しか残っていない、”江戸時代から現存する天守”の1つに数えられている、歴史的に大変貴重な建造物となっている。

 

滋賀県 滋賀縣護國神社 境内 雪

彦根市は滋賀県内では比較的降雪量が少ない地域らしいけど、このように場所によっては人が通らない地面に、雪がたっぷりと積もっている光景が待ち受けていた。

このような雪だらけの景色を見ると、子供のように心が躍るのである。

 

彦根城 いろは松 道 景観

そして彦根城内へと入る道には、『いろは松』と名付けられた土佐から運ばれてきた土佐松が植わっている。

石垣に使われる石だけではなく、このような表通りの道に植える松までも、遠くから船で運ばれてきていたという事実にいきなり驚くのである。

 

彦根城 佐和口多聞櫓

そして数年振りに目の前に現れた、彦根城。ここはまだ中堀で本丸は更に内側の内堀の中にあるけど、昔はこの辺りから城内という認識だった場所。

昔に訪れた時は車でこの辺りの道を軽く走っただけで、天守などの建物には立ち寄りさえしなかったので、その頃の自分に今会えたとしたら、「なんで彦根城まで行って、天守を見学しないんだ!(怒)」と怒鳴りつけたい気分である。

 

彦根城 内堀 大手山道 廊下橋

彦根城は関ヶ原の戦い後に、この地に移封されてきた井伊家が新しく築城した城で、江戸時代初期の築城技術で造られている。

その当時はまだ敗北した西軍の残党などがその辺りに潜んでいた頃で、西軍が万が一東に向かって攻めてきた際に、ここで食い止める必要があったので、堅固な造りになっている。

 

彦根城 天秤櫓 廊下橋

今見た橋はいざとなったら崩れるようになっていて、正面に見える天秤櫓は長浜城から移築されたと伝わっている。

天守閣の建物に辿り着くまでに、城内にはこのような櫓付き門が何個も設置されていて、彦根城が攻め落とされる光景が全く想像できない城ともなっている。

 

彦根城 本丸 天守閣の建物 

そしてこちらが”国宝”にも指定されている、彦根城の天守。

意外とこじんまりしているような印象を受けたけど、将軍の居る江戸城の天守よりも控えめな大きさで設計された為に、これほどのコンパクトサイズだったそうだ。

 

彦根城 本丸 天守閣 入口階段と扉

ただし、天守の入口はこのような分厚い扉が用意されていて、この天守に敵が攻め込んできても、簡単に天守内に侵入できない造りとなっていた。

しかし、この彦根城は結局戦乱に巻き込まれる事が無かったので、せっかくの堅固な造りは活かされずに、贅沢な保管庫として使われるだけだったようだが・・・。

 

 

彦根城 天守閣 建物の内部を進む

江戸時代初期に造られた彦根城天守内は、勿論木造建築物であったので、床は木の板が敷き詰められている。

冬場に木の板が敷き詰められている木造建築物の城を訪れると、土足厳禁の為に靴を脱いで見学しないといけないので、冷たい床に体温が奪われてしまう為に注意が必要な場所でもある。

 

彦根城 天守閣内の井伊直弼の木像1

そして彦根藩を治めていた14代に渡る歴代藩主の中でも、現代人にひと際知られているのが「井伊 直弼」だろう。

”安政の大獄””桜田門外の変”に関わった人物として日本史で必ず勉強する名前の人物だけど、意外と井伊 直弼自身がどういった人間だったかという事まで勉強した人は少ない。

 

彦根城 天守 3階最上階の屋根内側

3階部分の天守に辿り着くと、その最上階からの見晴らしよりも、個人的にはこのような天井に組まれている梁に目が行ってしまう。

最近は江戸時代から現存する天守に特に興味を持って、日本各地を訪れているが、その歴史ある建造物を見れば見る程に、このような使われている木材に目が行ってしまうようになってしまった。

 

彦根城 本丸 双眼鏡クンの先にある佐和山城跡

この琵琶湖の東側の土地は昔から要所として、特に信頼される人物が配置されていた場所でもある。

豊臣秀吉時代には、奥に見える佐和山の上に城が築かれていて、関ヶ原の戦いで西軍の大将ともなった「石田 三成」が城主に任命されていた。

 

彦根城 本丸 天守を眺める

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、そんな要所だった場所に”徳川四天王”とも称された、特に信頼できる部下の「井伊 直政」を送り込んだ。

そして新しい城を築城する場所や、関ヶ原の戦いで銃弾を受けて早い死にしてしまった井伊 直政の跡継ぎなどは、家康が直接指示する程に気に掛けていた場所でもあったようだ。

 

彦根城 黒門外側 井伊直弼生誕碑

そんな彦根藩の井伊家は歴代徳川将軍家からも信頼され、5人の大老を輩出し、常に江戸幕府の政治に関わっていた。

しかし、幕末時代にこの場所で生まれた彦根藩第13代藩主が関わる大きな事件が発生し、その責任を取らされる形で井伊家は幕府の中心地から遠ざけられて不遇の時代を過ごす事になる。

 

彦根市 玄宮園 武蔵野からの景色

彦根藩第13代藩主:井伊直弼は、この彦根城脇の屋敷に先代藩主の十四男として生を受ける。

井伊家は藩主になる嫡男以外は、他の大名や家臣に養子入りするか、寺に出家するか、それとも屋敷内で”部屋住み”するかという選択肢しかなかった。

 

彦根市 彦根城 井伊直弼の銅像 正面

井伊家は全国の藩の中でも珍しく、隠居した先代藩主が2人も藩政に復帰した歴史がある。

それは家康時代から厚い信頼を寄せてきた井伊家の彦根藩を、簡単に改易できないという事情があったからだろう。

 

 

彦根城博物館  展示品 朱地井の字 金箔押旗印

江戸時代は現代とは違って現代医学がまだ発達していなかった時代で、赤ちゃんが成人にまで生き残れる確率が50%も無かった時代であった。

そして成人となって元服し、藩主を継がせたかと思ったら、若くして急死してしまう事もとても多かった時代でもある。

 

彦根城博物館  展示品 鎧兜「井伊の赤備え」 斜めから

その為に家督を継がすのに多くの室(妻)を抱えて、沢山の子供を生ますようにしていた。

その為に井伊直弼も今では考えられない”14男”となったのだ。しかし、この江戸時代には30~50人もの子供を作った大名もそれなりにあって、特に珍しい事もなかった。

 

彦根城 二ノ丸跡 京橋から眺める夕陽

ただし、子供を多く儲けて、その子供達が死なずに成人してしまうと、藩主の座は1つしか無いので、家督を継ぐ嫡男以外は全て他の道に押し込む事になる。

しかし、早死や突然死が日常茶飯事だった江戸時代は、仮に藩主が亡くなった際に保険を掛けておく必要があった。

 

 

彦根城博物館  奥の木造棟 「天光室」茶室

その保険として”売れ残った子供”が『部屋住み』という、国元の屋敷内で生活をさせられていた。

この『部屋住み』となると、結婚が許されずに他家にも行けずに、ただ時間が過ぎていくという”飼い殺し”の状態でもあった。

 

彦根市 彦根城 井伊直弼の銅像 正面 斜め

井伊直弼は17歳から32歳までの約15年間に渡って、『部屋住み』として生活を彦根城で続けていた。

普通の人間なら腐ってしまいそうな環境ではあったが、井伊直弼は寝る間を惜しんで、色んな武芸から茶道や絵画など、ありとあらゆる物に手を出して修練に励んでいた。

 

彦根市 彦根城 井伊直弼の銅像 正面 アップ

そしてある日、藩主となっていた兄が亡くなり、急に井伊直弼にスポットライトが当たった。そして彦根藩主となり、更にはその治世の評判を聞いて大老にまで抜擢される。

井伊直弼が大老の時に諸外国との通商条約を締結した事で、鎖国から一点開国に舵を切った日本へと生まれ変わる道筋を作ったのである。

 

井伊直弼のイラスト

井伊直弼のイラスト(ACイラストより)

しかし、現代へと伝わる歴史内での井伊直弼の評価は、”悪人”というレッテルが貼られている。それは諸外国との通商条約を締結する際に天皇からの勅命を待たずに行った事と、後に『安政の大獄』という反対派を強引に弾圧した事から来ているようだ。

 

それぞれに後の明治政府に繋がるメンバーが、反対派の一橋派と天皇家だった事から、井伊直弼の歴史の悪い面を強調して伝えてきたのだろう。

しかし、今回彦根城を訪れるまでそんな悪人と思っていた井伊直弼の印象が、ガラッと変わってしまった。

 

それは彦根城周辺の歴史などを知って、更には井伊直弼が約15年間も軟禁状態にありながら、腐らずに逆に睡眠時間を極限まで削って、多趣味に没頭していた事を知ったからでもある。

それだけ地道に苦労して光が当たらない中でも継続を続け、茶道では”大名茶人”とも称される程に精進していた。

 

一期一会のイメージ

一期一会のイメージ(ACイラストより)

そして井伊直弼が茶道の心得を説いた書物の初めに、『一期一会』という言葉が使われていた。

この言葉は元々は千利休が考えたとされる思想であるが、それを文字として表現した最初の人物が井伊直弼だったとされている。

 

個人的にはこの『一期一会』という考え方をとても大事にして生きてきたつもりなので、その言葉を生み出した人物が井伊直弼だった事に驚き、またこのような素晴らしい言葉を生み出した人物が悪人だったと考えられないのである。

 

歴史というのはとても残酷なもので、事実が後の時代に教えられていく訳ではなく、その時代の支配者の都合の良い内容が後年に伝えられていくのである。結局は戦争での勝利者に都合の良い歴史が、今まで語られてきたのである。

 

そして井伊直弼が本当の所はどういう人間だったかという事は今更知りよう無いのだが、少なくとも『一期一会』という言葉を茶道の一番大事な心得としていた事は事実である。

 

だから今回彦根城を訪れて、自分でこのような井伊直弼の人柄を知れた事がとても大きな財産に思えた、彦根城の旅であった。

 

以上。

2023.1.6

 

<完>

 

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