彦根城旅行記2022年1月-12
旅行期間:2022年1月(日帰り旅)
有名な鎧兜!
ここは彦根城でかつて表御殿が造られていた跡地にある、「彦根城博物館」。江戸時代に彦根藩を守り通した井伊家の資料やお宝など、総勢約9万点もの所蔵品が収められている。
ただ、その全てを展示する程大きくはないので、期間毎に展示品を入れ替えて、訪問する毎に違う展示が楽しめる博物館にもなっているようだ。
彦根城博物館の見学!
こちらは「鉄地六二間筋兜」という、戦国時代に造られた兜。戦国時代までは無造作な戦ばかりの国内だったが、戦国時代頃から“華やかさ”が好まれていき、機能性と共に見た目の優美性も求められる時代になっていった。
こちらの兜は質の良い鉄板が使われており、江戸時代にはこれらの質のいい兜などが収集家の人気を集めていたようだ。
現代から過去を振り返ると、このような当時の鎧兜は貴重な品に思えるが、江戸時代当時にも戦国時代の上質な鎧兜は、大名などから人気があった事だろう。
現代人が見てもいいと思う品は、当然昔の人達にとっても良い品だったようだ。
こちらの書物は『今昔物語』で、本としては江戸時代の写本のようだ。『今昔物語』は全部で31巻もあるが、ただ全部が残っている訳ではなく、3巻分が欠け落ちているという。
そして主に釈迦の話と、その仏教伝来した中国と日本の話と、3部構成になっている。
こちらは杖の先っぽが鳩の形に彫られている「鳩杖」。鳩はムセる事が無い為に、長寿を願う人があやかっていたという。
ちなみにこの鳩杖は、彦根藩:第8代藩主「井伊 直定(いい なおさだ)」が50歳を迎えた1751年に、80歳となっていた元乳母から贈られた物だという。
彦根藩を治めた井伊家は、藩主が若くして亡くなった人数も多かった事もあり、隠居した元藩主が後に藩主に再就任して返り咲くという事が2回もあった珍しい藩でもある。
その為に、「彦根藩:第○〇代藩主」という数え方に”注釈”が必要になっており、ちょっとややこしい藩でもある。
復帰した元藩主を、歴代藩主に新たに加えるかどうかで、数え方が変わってくるんよ!
今までに訪れた城を治めていた藩の中でも、隠居した元藩主が裏で執政として操っていたのはあっても、元藩主が表舞台に復帰した例は殆どなかった。
それなのに井伊家では2人も藩主に復帰していたのは、全国の譜代大名の中でも江戸幕府からの信頼が特に厚かった井伊家だったので、幕府からしても簡単に改易させなかったからかもしれない。
井伊家は徳川家康の配下として特に優れた殊勲を残しており、その後も歴代将軍に信頼されてきた名家だった。
それもあって外様大名みたいに跡取りが若死したら、容赦なく改易させたりする訳にいかなかったのだろう。
信頼できる家柄は直ぐに構築できないから、使い捨てには出来なかったんだろうね!
その為に藩主が若死した際に、その間の”繋ぎ”の為に元藩主が復帰して、何とか存続した井伊家。しかし、『桜田門外の変』の後に、その不始末として約15万石を取り上げられ、長州征伐では旧式の武器しか無かった為に長州軍の前に大敗してしまう。
だが、結果的にその不遇の時代があったからこそ、いち早く薩長連合に呼応し、戊辰戦争では新政府軍に加担した為に、彦根城が戦火に巻き込まれる事が無かったのだろう。
全国イチの譜代大名が、薩長連合に付いた影響は大きかったんだろうね!
こちらの鎧兜は、井伊家を象徴する朱漆塗りで統一された『井伊の赤備え』とも呼ばれたデザインになっている。
これは「朱漆塗紅糸威本小札:二枚胴具足」という、彦根藩最後の第14代藩主となった「井伊 直憲(いい なおのり)」が所有していた物だが、それ以前の藩主から代々伝えられたようだ。
このような『井伊の赤備え』という甲冑のデザインは、井伊家の当主だけではなく、井伊家の家臣団全てに取り入れられて、軍団全体がこのような朱色に染まっていたという。
正確には、『井伊の朱備え』だね!
こちらの鎧兜を見ていると当主だけの特別な鎧兜かと思っていたけど、『井伊の赤備え』は家臣団全ての決まりとなっていたので、みんなこのようなデザインになっていたという。
このような朱色のデザインに軍団を統一する事で、敵からすれば、その朱色軍団を見ただけで怯んでしまう者も出ていたのだろう。
こちらは井伊家の旗印である「朱地井の字金箔押」の旗。
『井伊の赤備え』な井伊家だけに、このように旗印も朱色で統一されており、また「井」の文字が金箔で大きく貼られていて、遠くから旗印を見ても一目で分かるようにしていたようだ。
こちらは彦根藩士の三居孫太夫家に伝来した、「朱漆塗萌葱糸威:二枚胴具足」。井伊家の家臣だった彦根藩なので、鎧兜に朱色が使われているのが分かる。
こちらは「白猪毛 橘 紋空穂」で、「空穂(うつぼ)」というのは弓矢の「矢」が収められていた道具である。
弓矢が戦場で大きく活躍したのは室町時代で、戦国時代後半からは鉄砲が主力になってきたので、江戸時代には武芸を争う為に使われる事が多かった。
こちらは「合わ弓」という、竹と木を貼り合わせて強度を強くしていた弓。江戸時代には出番が少なくなっていった弓も、主力ではないものの、改良が加えられていっていたようだ。
こちらは「黒漆塗 橘 紋竹蒔絵鞍」という、豊臣秀吉が政権を握っていた『桃山時代』に造られたとされている鞍。
ちなみに最近まで『安土桃山時代』という言葉の意味について深く考える事が無かったけど、調べてみると、織田信長&豊臣秀吉が政権を握っていた時代を表す言葉のようだ。
なので、『安土』は織田信長の居城だった「安土城」、そして『桃山』は豊臣秀吉の居城だった伏見城が『桃山丘陵』にあった為に、それぞれを取って名付けられているという。
秀吉というと、大阪城のイメージが強いけどね・・・
こちらの鞍は、徳川家の”葵の御紋”が入った「金梨地 三つ葵 紋蒔絵鞍」。
金梨地の装飾で豪華な外観となっていて、将軍に信頼されていた井伊家だけあって、将軍家から贈られた品だと考えられている。
しかし、このような豪華な鞍や鐙などを将軍家から贈られても、実際に使うには勿体な過ぎるので、子孫末代のお宝として保存されていた事だろう。
このように細かい装飾が施されて芸術の域にまで達していた品も、本来の道具として使われる事はなく、飾り物や贈答品へと移行していく事が多かった江戸時代のようだ。
こちらは「朱漆塗枝 橘 紋井桁 紋散鞘大小拵」という、井伊家の”橘”と”井桁”の家紋マークがあしらわれた大小刀である。
昔の武士は1本の刀ではなく、脇差と呼ばれる小さい刀と2本1セットで持つのが”武士の正装”となっていたようだ。
こちらはそんな刀に使われていた、パーツの「鍔(つば)」と「小柄(こづか)」である。そしてそんな小さなパーツにもこだわった装飾が施されていて、こちらは虎の彫刻が彫られている。
本来は戦いの際に敵を切る道具として発展してきた刀も、江戸時代になるとその斬る用途よりも、贈答品として装飾が施されるようになっていった。
そして再び「井伊の赤備え」デザインの甲冑を眺めてみる。
すると、甲冑に井伊家の始祖である井伊直政のオーラが漂っているようにも見えて、思わず漫画『聖闘士星矢』の黄金クロスを思い出してしまったのである。
甲冑を見ただけで、敵が怯んだのが理解できるね!
こちらは「肥前国忠吉」と太刀銘の入った、江戸時代に造られたと考えられる刀。
肥前国忠吉は今の佐賀県である「鍋島藩」御用達の刀工で、刀の反りが少ないのは江戸時代以降に造られた刀に多く見られる特徴だとか。
こちらの恐い鬼のお面は、井伊家伝来のお宝の1つでもある能面の名品である。
現代の若者達には理解できないかもしれないけど、今みたいに娯楽が溢れる時代ではなかった江戸時代には、歌舞伎や能などの限られた娯楽しかなかった。
その中でも昔から人気の”石橋(しゃっきょう)”に使われていた獅子の面で、江戸時代前半の鬼の面作成でも有名な「赤鶴」が制作した希少価値の高いお面となっているようだ。
【能「石橋」ダイジェスト】
こんな旅はまた次回に続きます!
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