彦根城旅行記2022年1月-8
旅行期間:2022年1月(当日旅)
寒くても毛皮があれば・・・!
”日本列島のヘソ”とも表現される事のある滋賀県。滋賀県というと、日本イチの面積を誇る湖の「琵琶湖」を思い浮かべるけど、江戸時代にこの東西を繋ぐ要所を治めていた彦根藩の彦根城も有名である。
彦根城の見学!
こちらは本丸にある天守の北側後方に設置されていた、「西の丸便所」。この天守の北側は細長い土地が広がっているけど、「北の丸」ではなくて「西の丸」だったようだ。
そんな北側の「西の丸」から眺める、彦根城の天守。ただこちら側はこのように木々が景観を邪魔しているので、天守の写真を撮影するには不向きな場所だった。
それもあって、この西の丸側から撮られた天守の写真が少ないのかもしれない。
この彦根城天守は見れば分かるように、天守単体の建物ではなく、天守以外に「附櫓」と「多聞櫓」が合体している複合式になっている。
左側に見えているのが一段下に下がった所にあった「附櫓」と「多聞櫓」だけど、内部は次の大震災が来た際に倒壊の恐れがある為に立ち入り禁止となっている。
天守の内部や本丸&西の丸内も充分に見学を済ませたので、まだ通っていない天守の裏側の門跡から、下に繋がる道を降りていく事にする。
本来ならもう少し天守の建物を眺めていたかったけど、流石に1月の滋賀県は、そんな気が無くなる程の寒さだった。。
こちらも両脇に石垣が築かれているけど、この形はここにかつて門があったという証でもある。今では消えてしまった門が多いけど、特に本丸の中には天守に繋がる道に幾多の門が備えられていたのである。
そのような門も恐らく明治時代頃に解体され、払い下げとなったのだろう。全国的に城で使われていた城門などは、至る所に持ち運ばれてしまっているが、中には昔の門が移設したまま現存している物もあったりする。
こちらは本丸の東側斜面だが、このように雪が積もっている光景が見られる。普段はこのように雪が積もっている時に城見学をする機会が無かっただけに、個人的にはとても新鮮な光景に見えた。
城が雪化粧したみたいでしょ!
普段雪を見る事が無い地域に暮らす外国人が、雪深い東北や北海道を訪れると、雪を見てとても喜ぶという。しかし雪が楽しいのは最初だけで、徐々に雪を見慣れてくる頃合いになると、慣れない寒さに体が警告を発するようになってくる。
その為に、程々に雪を見て楽しんだ後は屋内に直行する事が多いようだ。。
そして道をクネクネと下っていくと、右手の方にちょっとした広場のような場所が広がっていた。その広場に見えた場所は、かつて「井戸曲輪」と呼ばれた、塩を保存する塩櫓と井戸があったようだ。
水と塩は籠城する兵士達に欠かせない物資なので、他の曲輪に比べても高い石垣が築かれていたという。
この井戸曲輪の入口にも、門があった跡の石垣が見える。ここにあったとされる門はこのように石垣があまり大きくなかったので、小振りな門が造られていたのだろう。
井戸曲輪が本丸の東側に築かれていたのは、敵が襲ってくる可能性が少ない方向であったからだと推定できる。その為にこの彦根城は、東側ではなく、西側の敵を警戒して造られた城だという事が想像できる。
戦国時代の攻城戦がどういった内容で行われていたのかは分からないけど、個人的にはこのように「裏側の小さな門から侵入して行けばいいのでは?」と思ってしまう。
ただ客観的に考えると、城を落とすにはそれなりの人数を送り込まないといけないが、この狭い門からだと侵入できる人間も限られていたからか?
それとも西側から攻めてくるのであれば、そのまま直進する事が多かったからかもしれない。
そんな裏口でも敵に狙われる可能性があった井戸曲輪だったので、城内でもひと際高い石垣が設けられていた。彦根城を設計した時に、誰でも裏口から攻める事が頭に浮かぶので、その対策もちゃんと施されていたようだ。
人が思う以上に、色々な事を想定して城は設計されているんよ!
そして階段を降りて振り向くと、井戸曲輪やその上の本丸の石垣がひと際高くそびえるように見える。
この黒門側から侵入しようとしてきた敵も、これだけの高さがある高台から、鉄砲や弓矢で狙い撃ちとなったので、簡単に攻め込む事が出来なかった事だろう。
攻城戦では、高い場所に居る程に有利に働くんよ!
このように最初は「城なんて、その気になれば簡単に落とせそう!」と思っていても、実際に城内の仕掛けや造りをじっくり見学していくと、正に『難攻不落』という言葉が当てはまる程に精巧な造りになっているのが分かる。
国内で”最後の内戦”ともなった西南戦争では、薩摩軍が熊本城を襲ったけど、西郷隆盛曰くは「官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ!」との言葉を残す程に、江戸時代の築城名人が設計した城郭の構造が威力を発揮した数少ない事例でもある。
薩摩軍に最新式の大砲があれば、勝てたかもね!
黒門跡にて
そして道を進んで行くと、「黒門跡」に彦根城本丸の出入り口が設置されていた。かつてはここに2階建櫓付きの黒門がそびえていた場所であるが、今ではその姿はない。
そしてこの黒門跡から本丸内の有料ゾーンへの出入りが出来るので、中に入るには入場チケットが必要である。
明治時代当初には、この黒門は存在していたようで、このように古写真が残されている。立派な2階建の櫓門だっただけに、時が経てば復元の計画が起きる可能性も無きにしも非ずだろう。
ひこにゃんの稼ぎ次第で、黒門が復元されるかも!
そして黒門の外側には、このように本丸を取り囲む内堀が築かれている。
冬場だと、攻めてきた敵が内堀を強引に進んでやって来たとしても、その時に濡れてしまって、逆に寒さで凍え死んでしまうという風に寒い土地柄も防御に生かされていたのかもしれない。
この雪深い滋賀県に拠点を築いているだけで普段から寒さと戦っているように思えるけど、彦根城が想定していた敵は西軍だったので、あまり寒さに慣れていない温暖な地域に住んでいた兵士からは、このような寒い時期に彦根城を襲うなんて想像すら出来なかったのかもしれない。
黒門橋から内堀を眺める! 動画
この内堀沿いには桜の木も植えられていて、桜が綺麗に咲き誇る春先には、素晴らしい景観が想像出来る場所ともなっていた。
堀沿いに桜の木が植えられている城跡は結構あるけど、夜にライトアップすると、それが水面に反射して幻想的な景色を映し出してくれる。
水に浸からなくてもかなり寒かった彦根城だけど、このように冷たい水温にも関わらず、水面には沢山の鴨が平然とした顔をして泳いでいる姿が見られる。
渡り鳥などは寒さを避けて遠くまで越境していくけど、鴨は寒さにも耐えれるように進化したからか、何喰わない顔をしていた。。
寒さを全く気にしない鴨達! 動画
井伊直弼:生誕地の「槻御殿」にて
そしてそんな様子を見ながら歩いていると、こちらの『井伊直弼:生誕地』という石碑が見えてきた。
江戸時代にこの彦根城を治めていた彦根藩の井伊家は、明治時代を迎えるまで16代目を継いでいた。
そんな16人の歴代藩主の中でも、特に現代人に知られているのが、第15代藩主の「井伊 直弼(いい なおすけ)」であろう。
教科書に出てくる有名人なんよ!
その井伊直弼の生誕地は、1678年頃に建てられた藩主の下屋敷「槻御殿」だった。
その槻御殿は後に「楽々園」と呼ばれるようになったが、老朽化の影響で2005年から改修工事が行われており、最終的には2025年度中の完成を見込んでいた。
歴代藩主の下屋敷であった「楽々園」は、当初の姿から増築が行われ、合計9棟の建物が立つ程になっている。
江戸時代からの建物が現存している為に、約20年掛かりでの改修工事期間が必要となっていたのだろう。
ただその楽々園は見学中止とはなっておらず、既に改修工事が完了している建物などは見学できるようになっていた。
また、隣に造られている大名庭園の「玄宮園(げんきゅうえん)」も見学する事が出来るが、玄宮園の見学は有料となっている。
(※玄宮園の見学は大人200円/ただし、彦根城の本丸入場料に玄宮園の入場料も含まれている)
そして工事中の門付近を迂回して回っていくと、楽々園の玄関棟が見えてくる。この玄関の建物は楽々園の改修工事計画の中でもトップバッターとして行われたので、今では綺麗に補修された姿で待ち受けているのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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