彦根城旅行記2022年1月-5
旅行期間:2022年1月(当日旅)
彦根の英雄!
さて彦根城で大手門橋を渡ってから、グルグルと本丸を歩かされて、やっと辿り着いた天守閣。
近くまでやってくると、思っていた以上に小さく思えた天守閣の建物だけど、約30万石だった譜代大名の城なので、これぐらいの規模は普通のようだ。
彦根城の見学!
彦根城の天守前に「ひこにゃん」が立っているように見えていたけど、近づいてみると、このように実物ではなく看板が立てられていただけだった。
人気者のひこにゃんは、冬場は1日3回の出番があって観光客をもてなさないといけないので、ここでじ~~っと立っている訳にいかないのだろう。
ひこにゃんと天守閣! 動画
ただこのひこにゃんの看板も、本物が居るかのような再現力で、記念撮影に向いている看板でもあった。
そんな薄っぺらいひこにゃんはさておき、今日の本命でもある「彦根城:天守閣」をこれからじっくり満喫する事にする。

彦根市が世界に誇る建築物だよ!
そんな彦根城天守閣の石垣は、このように”野面積”となっていて、この石垣が築かれた時代が何となく分かる様子となっている。
野面積は戦国時代~江戸時代前半までによく使われた石垣建築方法で、大きな岩を整える事なく石垣に使うので、石垣を築くスピードが速かったとされる。

野面積でも「牛蒡(ごぼう)積」と呼ばれた、胴長の石を積んだ方式だね!
しかし、野面積はその凸凹とした隙間に足を引っ掛けて登る事も出来た為に、築城技術が向上してくる江戸中期頃になると、その石垣間の隙間が少なくなるように石を四角く削った石垣が登場するようになる。
なので、江戸時代途中に石垣が崩壊して再構築された石垣などは、隙間の少ない石垣になっている事も多い。
そして本丸には、このような桜の木が目立つ。国内にある城跡にはこのような桜の木が植えられている所が多いけど、明治時代に爆発的に全国に植えられた事もあって、それなりに高齢化したような桜に見える。
ただこの本丸は天守閣以外に特に目立った建造物が無いので、天守閣入口に向かうしか選択肢はない。
というか、この彦根城本丸の中心部までやって来る人の殆どが、この天守閣内部の見学を求めて来ているのだが。。
この天守は3層3階&地下1階(石垣部分)の『複合式望楼型』となっている。
なお、この天守も琵琶湖の畔にあった大津城の天守の部材が流用されており、4重5階だった大津城天守を江戸城天守より小さくして移築したとされている。

大きな天守だと江戸幕府から監視対象となったから、敢えて小さくしたんやね!
天守内に足を踏み入れる!
天守入口で検温&消毒を行い、更には靴を脱いで天守内の入口を進んで行く。江戸時代から現存する天守では、土足厳禁になっている所が多い。
ただ、冬場は木の床が冷たくなっているので、厚めの靴下を履いて行くか、上履きのようなスリッパを持参してもいいかもしれない。
江戸時代初期に築城された彦根城天守だけあって、このように入口はとても狭くなっている。昭和時代に再建されたお城ばかり見学に行った事のある人からすれば、とても窮屈に感じる入口かもしれないけど、昔の城は敵が一気に雪崩れ込んでこないように、このように入口を狭く設計していたのだ。
そして入口にはこのような黒い門扉が取り付けられており、外側には金属が貼りつけられているので、少々の砲撃にも耐えられる扉となっていたようだ。
天守という建物は藩主の住まいではなく、敵が攻め込んできた有事の際の「シェルター」であったので、このように守りに特化した造りになっている。
そして、江戸時代からの城らしく、急な傾斜の階段が見られる。お歳を召した方からすれば、このような上まで続く傾斜のキツイ階段は見るだけで嫌になる人も多いかもしれない。
しかし、昔の城は敵の進入を防ぐ為に、嫌がらせのように傾斜のキツイ階段に敢えてしていたのである。
ただ現代では、足腰の弱い人でも登り易いようにと、しっかりした手摺が用意されていたりで、昔のまま残っている階段という訳でもなさそうだ。
個人的には江戸時代からのままの階段を登りたいのであるが、階段も何十年間も観光客が昇り降りする事で表面が摩耗して、ある程度の期間を過ぎると新しい階段と交換されるのかもしれない。
そして階段を登って到着したフロアは、石垣の上にある1階部分。この1階部分は特に敵を狙い撃ちにする為の場所だった事もあって、武者だまりや、鉄砲狭間などが至る所に設置されているのが分かる。
そして江戸時代からの現存する天守内を見学する観光客の人達も、周囲の様子を眺める人は多くても、このような天井をしみじみと眺める人は意外と少ない。
最近江戸時代からの現存天守を度々見学してくると、壁周りなどよりも、このように屋根に使われている古い木材に目が行ってしまうようになってしまった。
この彦根城は江戸時代初期に築城されたが、その時代は国内で全国的に新しい城が築城されていった”築城ラッシュ”だったので、希望する城を造るには多少理想を曲げて完成させるほかなかった。
その為に他の城からの廃材などを流用したり、また彦根城は上まで繋がる長い立派な柱が手に入らなかったので、各階だけを通す柱をそれぞれの階に使っていったという。
こちらには彦根城天守の「推定断面図」が描かれており、外からの外観だけでは分からない天守の構造を知る事ができるようになっている。

外から見ると同じように見える天守閣も、中の構造は全て違うんやね!
そして江戸城に気を使って小さめの天守になっている彦根城は、その代わりに「切妻破風」や「入母屋破風」や「唐破風」など多種な装飾を施している。
周囲に井伊家の威厳を示すような大きな天守は造れなかった代わりに、豪華な装飾でその威厳を表したのかもしれない。
今ではこのような窓の内側にガラスが取り付けられていたけど、昔はガラスがなかった為にこのような寒い時期には、冷たい風が天守内に吹き付けてきていたのだろう。
ただ、この天守は藩主の普段住まいで使われる建物ではなく、江戸時代は主に倉庫として使われていたので、冷たい風が吹き付ける寒い場所でも問題なかった事だろう。
こちらには数段の木の階段が設けられていて、ちょっと高くなっている場所がある。
この写真だけを見ていると綺麗な廊下に見えるけど、冬場はこの木の板が冷たくなっており、また天守内には暖房が設置されていないので、裸足だったら冷たくて見学どころではないだろう。
天守内部の景観! 動画
その廊下の先には一段下がった部屋「附櫓&多聞櫓」があったけど、震度6強以上の地震が発生した際に石垣下に倒壊する可能性があるとの事で、これから先の内部公開は中止となっていた。
地震で被災して壊れた部分ではなく、これから起こる可能性の地震を見越して、公開を中止にしているというのも何とも日本らしい事情である。

地震大国の日本らしいわ!
このような次に起こる地震への備えは、日本人が慎重なだけではなく、過去に何回も大きな地震によって被災してきた経験が活かされているのである。
これまで経験した大震災で多くの人々が犠牲になったが、その時の悲しい教訓を次に活かして来たのが日本人の歴史でもある。
こちらには彦根藩主で最も知名度のある、第15代藩主「井伊 直弼(いい なおすけ)」の木像が置かれていた。
井伊家というと徳川家康の側近の中でも特に優れた井伊直政が祖となっている名門家系であるが、井伊直弼が大老時代に起きた暗殺事件『桜田門外の変』などで、悪いイメージのみしか浮かばない井伊家となってしまった。
井伊直弼はペリー提督の来航から約5年後の1858年に大老に就任したが、その当時は開国して外国勢と”通商を望む派”と、鎖国を突き通して外国勢を撤退させる”尊王攘夷派”に大きく世論が二分していた時期でもあった。
江戸時代になってから約250年間も守り続けられて来た「鎖国」という特殊な政策が崩れ去り、新たな時代が到来しようとしてきた時期でもあった。
そして大老となった井伊直弼は、天皇陛下からの勅命無しにアメリカと通商条約を結んだとされているが、井伊直弼自身は勅命を待ってから外国勢と条約を締結する考えだったとされている。
しかし、勅命を待つ為に交渉をなるべく引き延ばすように指示して送り込んだ使者が、「交渉が上手くいかない最悪の場合は、勅命無しに条約を締結してもいいか?」と井伊直弼に問うたという。
それを聞いた井伊直弼は、『已むを得ざれば、是非に及ばず』と答えたという。つまり、なるべく引き延ばし交渉に尽力し、それでも勅命が間に合わなければ、他に方法はないので仕方ないという意味のようだ。
しかし、このように鉄の意志がない指令というのは、大概悪い方向に進んでしまう事が多いのである。

「止む無く○○した・・・」という言い訳が、最も見苦しいよ!
そして案の定、遣いに出した使者は勅命を待たずに条約を締結してしまい、尊王攘夷派を怒らす事になってしまった。そしてその怒りが自分に向かってきた為に、井伊直弼はその尊王攘夷派を強引に弾圧する事になる。
しかし、運命というのは面白いもので、世界的にこのように他人の意志を強引に武力で弾圧すると、その怒りが後々になってブーメランのように自分の元に災難として降りかかってくる事になるのだ。

一度歯車が嚙み合わなくなったら、壊れるまで突っ走るだけやね・・・
こんな旅はまた次回に続きます!
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