神奈川県&東京旅(2022年12月中旬)-43
訪問:2022年12月中旬(2泊3日)
神の具現化!
想像していた以上に展示品の見応えがあった「東京国立博物館」。
もし、これから初めて東京国立博物館を訪れる予定のある人は、かなりの長期戦を想定して行くべき場所であると感じた。
日本イチの博物館だぜい!
住所:東京都台東区上野公園13番9号
営業時間:9時30分~17時頃(※定休日:月曜日他)
電話番号:050-5541-8600
総合文化展観覧料:大人1000円/大学生500円/満18歳未満&満70歳以上は無料
館内の見学!
さっきまで見てきた展示品から打って変わって、このコーナーでは紀元前1000~400年頃の”縄文時代(晩期)”に作られた『みみずく土偶』が見えてくる。
2000年以上も昔の作品だが、その時代の人々の考えは書物などでは残されていない為に、このような土製の”土偶”の特徴を研究して、そこから当時の人の考えや風俗を割り出す材料ともなっている。
研究者も創造力逞しくないと、務まらないぜい!
こちらは群馬県太田市で出土した、6世紀の古墳時代に作られた『埴輪 正装の男子』。
先程の土偶から1000年以上が経過した時代に作られたので、だいぶ進化した造形技術を日本人が習得してきた事が一目で分る作品である。
アメリカ大陸の服装っぽいよね~!
こちらは名古屋で出土した、1~3世紀の弥生時代後期頃の作品とみられる『台付壺』。
単に土を固めて作った土器ではなく、赤色顔料を塗って、外観も華麗に見せるデザイン性が加えられている。
『パレススタイル(宮廷様式)』と呼ばれる程に優雅なデザインらしいよ!
※国の重要文化財
こちらは奈良県河合町で出土した、4~5世紀の古墳時代に青銅で作られた『変形方格規矩獣文鏡』。
青銅での漢式鏡スタイルは中国大陸から伝来した物だが、こちらはその鏡を参考に日本国内で作られた物だという。
鏡よりも、盾に見えてしまうな・・・
※国の重要文化財
こちらは奈良県天理市で出土した、8世紀の奈良時代に作られた『高坏(たかつき)』。
「高坏」は日本国内で本格的な水田稲作が始まった弥生時代頃に生まれたとされる器で、豊潤や雨乞いなどで神様に祈願する際に献上物を載せる台として使われた。
稲作をする事によって、色んな神様が生まれてきたのね!
※国の重要文化財
こちらは7~8世紀の飛鳥~奈良時代に作られた薬師寺東院堂に納められている”国宝”『聖観音菩薩立像』を、昭和時代に模って作った”模造品”の像。
仏像の形も奈良時代はまだ中国大陸から仏教が伝来してきてから間がない為に、当時の中国の仏像らしい特徴が出ているという。
こちらは7世紀の飛鳥時代に作られた、木像の『菩薩立像』。
霊木として信仰された楠木から切り出された彫刻作品だが、ややイースター島のモアイ像にも見えるような気がするが。。
こちらは8世紀の奈良時代に作られた『金銅鉢』で、僧侶が常に携帯して食べ物などを入れる鉢として使われていたという。
ただ、この『金銅鉢』は常に携帯するには大き過ぎるサイズなので、仏像の前に置いて供物入れに使われたと考えられている。
※国の重要文化財
そんな日本でも古い歴史の品が飾られているブースの途中には、こちらの大き目の椅子が置かれた休憩所的なブースも見られた。
これだけ広かったら、横になって休めるな♪
博物館で横になって寝ては、イカンぜい!
そんな休憩所的なブースには近代的な絵が1枚だけ飾られていたが、こちらは明治時代に活躍した洋画家「川村 清雄(かわむら きよお)」が描いた代表作の『形見の直垂』という作品。
川村清雄は幕末に旗本の家に生まれ、高橋由一などから絵を学び、明治4年には勝海舟などの斡旋により”徳川宗家給費生”として、海外に留学する事になる。
川村清雄はアメリカで、津田梅子の看病をした事があるそうよ~!
そしてアメリカからヨーロッパに渡り、絵画の勉強をして明治14年に日本に帰国する。
それから大蔵省印刷局に入ったものの、1年も経たずに退職し、勝海舟の支援を受けて画室「心華書房」を設立し、徳川家代々の肖像画制作を依頼される。
そして明治後半には、討幕派藩出身の洋画家が多く活躍した中で、旧幕臣側出身の洋画家として地位を築く事になる。
そんな川村清雄は先に亡くなった勝海舟の死を悼み、白装束を身に纏った女子が形見を見つめている姿を描いた『形見の直垂』を制作したという。
棺の上に載っている胸像は、勝海舟だったんだな!
この時代までは、死を悼む時は白装束を着ていたんだぜい!
こちらは1162年の平安時代に作られた、かつて奈良県に存在していた『毘沙門天立像』。
仏像内に『印仏』と呼ばれる仏教版画などが入っていた事により、この毘沙門天立像が作られた時代まで判明しているようだ。
※国の重要文化財
「毘沙門天(びしゃもんてん)」は仏教の世界では『四天王』の1人として数えられる事が多く、その場合は『多聞天』とも呼ばれる事がある。
なお、毘沙門天は室町時代には”七福神の一尊”にも加わる事になり、7福神が並べられている寺院などでもよく見られる仏像となっている。
上杉謙信公が毘沙門天様ば、崇拝すてだよ
こちらは15世紀の室町時代に作られた『十二天像:帝釈天(たいしゃくてん)』の絵。
「帝釈天」も古代インド神話に登場する神様から来ており、”雷神”と呼ばれる程に武闘派の神様だったが、仏教の世界では釈迦を助けた事によって、釈迦の”守護神”的な存在に変わっていったという。
「帝釈天」というと、柴又帝釈天と”寅さん”を連想するよね~!
こちらも15世紀の室町時代に作られた『十二天像:毘沙門天』の絵。
このような仏教に伝来する神様の話を調べると、それらの殆どは古代インド神話の神様に繋がっていく。
全ての宗教には、同じ血が流れているんじゃ!
こちらは14世紀の鎌倉時代に作られた『因幡堂薬師縁起絵』という、京都市下京区にある「平等寺(因幡堂)」の御本尊:薬師如来像の由来について描かれた巻物となっている。
※国の重要文化財
こちらは京都市下京区因幡堂町にある、現在の「平等寺(因幡堂)」を写したGoogleマップ。
平等院鳳凰堂とは違うんやな。。
この『因幡堂薬師縁起絵』の話では、平安時代の貴族だった「橘 行平(たちばな の ゆきひら)」が主人公となっている。
橘 行平は”因幡守”の任を与えられ、因幡の国(現在の鳥取県)に向かっていた所、病気に罹患した夜の夢に怪しい僧侶が現れ、「因幡賀留津(かるのつ)の浜に浮いている霊木を祀れば、病気は回復する!」と告げられたという。
そんな半信半疑だった橘行平が実際に因幡賀留津の浜を訪れてみると、霊木が海に浮かんでおり、その霊木を引き揚げさせるとそれが「薬師如来像」だったという。
そこで橘行平は因幡に仮のお堂を造らせ、そこに海で引き揚げた薬師如来像を安置させ、自らは因幡守の任を終えると京都に戻っていった。
すると、ある日に京都に戻っていた橘行平の元に、因幡国に置かれていた薬師如来像が、何と”空を飛んで”現れたという。。
流石に仏像が空を飛ぶという話は、やり過ぎに思えるけどな。。
そんな飛んできた薬師如来像の為に橘行平は京都に『因幡堂』を建設し、そこで本尊として薬師如来を祀る事になったというお話のようだ。
海に仏像が浮いていたという話は長谷寺などでも目にした事があったけど、さすがに仏像が空を飛んできたというエピソードは今回が初めてだった。
現代程の科学が進んでいなかった昔の時代には、このような空想話にしか思えない話が一般的に信じられていたようだが、ある意味”仏像のスーパーマン”的な存在として、創造された逸話が庶民の間で語り継がれていったのだろう。。
飛んでじゃなくて、走っていったのかもね!(笑)
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓神奈川&東京旅:一覧ページ↓↓
2022年12月中旬に『どこかでマイル』を使って訪れた、2泊3日の神奈川県&東京旅です。