南海天王寺支線跡(2023年6月)-2
訪問:2023年6月
柵に隠された廃線跡?
今回初めて知った「南海天王寺支線跡」は、明治33年(1900年)に当時の南海鉄道が開通させた”天下茶屋駅~天王寺駅間”の路線であった。
「南海天王寺支線跡」とは?
当時の南海鉄道は難波からの次の駅はこの天下茶屋駅で、利用客を増やす為に主に奈良方面から天王寺を結ぶ「大阪鉄道 (初代)」の天王寺駅に相互乗り入れする計画を実施したのである。
それから約60年程は複線の路線として多くの乗客を運んできたが、1964年に新今宮駅が新設されて当時:国鉄の環状線に直接乗り換えれるようになって、乗客が激減する事になる。
そしてその煽りを受けて、1984年には天下茶屋駅~今池町駅区間が廃止となり、今池町駅~天王寺駅区間までが単線として辛うじて生き残った。
しかしその約10年後の1993年に、残された今池町駅~天王寺駅区間も廃止となってしまい、「南海天王寺支線」は消滅してしまったのである。。
大阪市内の路面電車は、全て地下鉄にヤラれてしまったわ・・・
かつて存在した「南海天王寺支線」の路線は約2.4kmの距離で、上記黄色いマーカーの線に沿った場所に敷設された。
この地理院地図をよ~~く見ると、薄っすらとその廃線跡の斜めになった道らしき線がある。
こちらは同じく地理院地図で、「2017年頃の航空写真」。
2017年頃の写真なのであるが、1993年に廃線となった線路跡らしき土地が何となく確認できる。
このように斜めに走っていた天下茶屋駅~~天王寺駅区間も、電車が走らなくなってからもその土地はあまり活用されていないのかもしれない。
ただ、西成区でも”腐っても大阪市”なので、その廃線跡の土地を放置しておくよりも、売却して新しい建物が開発されていくイメージを持っていただけに、廃線跡の土地がこれだけハッキリとしているのに驚いたのである。。
天下茶屋駅から、廃線跡の痕跡を辿る!
という事で、「南海天王寺支線跡」を巡る散策は、南海電車の駅の中でも創業当時に建てられた最も歴史のある駅の1つでもある「天下茶屋駅」からスタートする。
住所:大阪市西成区岸里1丁目1番
この天下茶屋駅は、明治18年(1885年)12月に南海電気鉄道(の前身会社)が開業したと同時に建てられた駅。
そして天下茶屋駅には南海空港特急『ラピート』も停まり、現在では「Osaka Metro堺筋線」とも乗り換えが出来て、南海電鉄駅の中でも利用客数が第3番目に多い駅となっている。
その天下茶屋駅の西側は車庫や工場が建てられていた為に、お店や商店街があるのが主に駅の東側となっている。
こちらは東側ロータリーの先にある「天下茶屋駅前商店街」アーケードで、この奥には道路を挟んで更に商店街アーケードがあって、それを抜けた先に阪堺電車:阪堺線の線路と「北天下茶屋駅」がある。
そして天下茶屋駅東口から、今では高架線路となっている南海電鉄本線脇の道路を歩いて、北上していく。
この辺りにはまだ廃線跡らしき土地の雰囲気は感じられないが、歩道の道路寄りに街路樹や植木などがある広さを見ると、ひょっとしたらこの辺りは線路跡だったのかもしれない。
線路跡らしき土地を発見!
そして北側に300mほど歩いて行くと、この辺りから歩道脇に並ぶ建物の土地が、かつての線路跡だったような斜めになっている箇所が見えてくる。
こちらは南海本線より分岐して、南海天王寺支線が東側の住宅街を通過してカーブしていく箇所のように思われる。
その北側にあったこのコインパーキングも、歩道側は真っ直ぐな土地になっているけど、その奥側は斜めとなっている。
このように不自然に斜めの敷地となっている土地は、この場所に線路跡があったという可能性が高い。
その”不自然な斜めの境界線”は、更に北側にあるファミリーマートの敷地の境目にもなっていた。
今までは何気なくこの辺りを数えきれない位に通っていたけど、それらの時には気付かなかった「南海天王寺支線跡」が、確かにこの土地に存在していたという事実が、自分の中で”確信に変わった瞬間”でもあった。
松坂大輔も同じような事、言ってたな!
そのコンビニの敷地を北東側に突き抜けた所には、このようなシャッターで閉じられた駐車場が見えてくる。
この駐車場の土地も南海本線から斜めに向いている土地で、その廃線跡の土地を駐車場として有効活用しているようだ。
こちらの写真はその駐車場を反対側から見た景色であるが、この駐車場の奥には小さなアパートが2軒ほど造られていた。
勿論、そのアパートの建物も、南海本線から見ると、斜めになった場所に造られている。
猫が「オマエ、誰や!」みたいな顔で見てるデ!
そしてそこから北側には、阿倍野斎場跡前から花園町を結ぶ「千秋通り」とも呼ばれる道路が見えてくる。
なお、この「千秋通り」なる東西に延びる道路は、地理院地図の「1928年頃の航空写真」では存在しなかった道路のようだ。
それが次の時代に撮影された「1936~1942年頃の航空写真」では、このように広い道が整備されており、更には先程見た「今船駅付近のロータリー」も造られているのが分かる。
恐らく1930年代後半の都市計画の一環で新しく整備された道路「千秋通り」なのだろうが、勉強不足の為にこれがいつ造られたのかまでは判らない。
そしてこの「千秋通り」という名前も、何かしらの意味があるのだろうが、その名前の意味も含めて自分への宿題とする。
そして千秋通りを北に渡って、更に北側の線路跡の土地を散策していく。
すると、この辺りの線路跡は特に建物が建てられている訳ではなく、このように柵や網で仕切られた空き地となっていた。
そしてその土地では家庭菜園が行われている景色が多々見られた。
この西成区付近は昔から”ガラ”があまりいい場所ではないが、そんな場所にある土地を囲むフェンスは当然の如く、汚い落書きがされていた。。
ただ、今の西成区は他の人達が言う程に「カツアゲされる・・・」とか、「絡まれる・・・」という危険は、21世紀になっては殆ど見られない場所となっている。
他人のブログを見ていると、”治安が悪い!”という面に言及しているのを多々見かける。
けど、ボクは高校生の時にはこの地域をチャリンコで横切って通学していたので、周囲の人達が思っている程に”治安が悪いという印象は受けない”。
この辺りで生活している日雇い労働者の人達も高齢化している為に、そういった軽犯罪を行う力が無くなってきている事も影響しているのかもしれない。。
更に道を進んでその柵に囲まれている土地の中をチェックしていく。
この辺りは大阪人でもあまり住みたく思えない土地でもあるので、廃線跡の再活用しようも無いからか、このような空き地のまま放置されているのだろうか。
ただ、フェンスの落書きも汚い訳の分からないものだけではなく、このように人気漫画『ドラゴンボール』に出てくる「神龍」風の作品もあった。
西成区では建物やフェンスなどに落書きが多発している為に、近年ではフェンスや壁にアーティストに絵を描いてもらって、落書き対策をしている箇所も多々見受けられる。
治安があまり良くない地域では、それに比例するように街並みの景観が悪くなり、このような落書きやゴミの散乱が増加する傾向にある。
そしてその落書きやゴミの散乱が増加する事によって、更に犯罪などが増えて悪循環となる。
その為に西成区では力を入れて落書き防止対策や、定期的なゴミ拾い活動を行っているが、大きな改善は見られなくてイタチゴッコの状態になっているように見受けられる。
そして更に進んで行くと、昔に西成で暴動が起きた際に中心地となった、通称「三角公園(萩之茶屋南公園)」付近に出てくる。
今まで何回も三角公園周辺を通った事があるのだが、「このフェンスの中に何があるのか?」という事は、今まで一度も疑問を持った事が無かった場所である。
オレの好きな場所やけ!(笑)
南海天王寺支線の「今池町駅跡」
その三角公園沿いをフェンスに沿って北東側に進んで行くと、その先もこのようにフェンスで区切られた場所があった。
この柵で囲まれて入れない場所が、実は南海天王寺支線の「今池町駅」が存在していた場所だったのだ。
【前面展望】 南海電鉄天王寺支線(2) 飛田本通ー今池町
ここにかつて存在した南海天王寺支線の「今池町駅」は、戦後の昭和24年(1949年)に新しく開業した駅である。
住所:大阪府大阪市西成区萩之茶屋3-1-8周辺
※立ち入りできません
それ以前は「曳舟駅」と「大門通駅」という駅が左右に存在していたが、戦争時の空襲でダメージを受けた為に、戦後に新しく新設された駅となっていた。
また1984年に天下茶屋~今池町駅間(約1.1km)が廃止となった後は、 単線となった南海天王寺支線の始発・終着駅となった。
そして1993年に南海天王寺支線が廃止となった際に、この今池町駅も合わせて廃駅となって約44年の歴史に幕を下ろしたのである。
永い間、お疲れ様でした・・
※電車好きでもない人間が調べた内容なので、間違っている情報や追加情報などがあれば、コメント欄にてご指摘頂ければ幸いです。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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