犬山城&岐阜城旅-2:訪問 2022年9月下旬
旅行期間:2022年9月下旬(当日旅)
江戸時代の香り!
さて遠路はるばるやって来た、愛知県犬山市の「犬山城」。
コロナ禍の影響もあってか、意外とひっそりとした雰囲気の犬山城で、これから手前の坂道を登って天守閣へと向かいます。
犬山城天守閣へと向かう!
坂を登っていくと、こちらの「黒門跡」の石垣が見えてくる。
ここにかつて存在していた黒門は、明治9年(1876年)に近くの「徳林寺」に払い下げられ、移築されてしまった。
しかし、愛知県丹羽郡大口町にある臨済宗妙心寺派「徳林寺」では、その移築された黒門がまだ現存して山門として使われているという。
今ではこの坂道には門が1つも無いけど、江戸時代には何重にも門が連なっていた景色が想像できる。
またこの坂道で台車を押して降りてくる業者の人を見かけたけど、坂道をよ~~く見てみると、右側の方は段差があまり無いスロープみたいになっていた。
そして坂道を登り切ると、奥に大きな大手門のような物が見えてくる。
こちらは「大手鉄門」という、観光用に新しく造られた門で、江戸時代にあった門を再現した物ではないという。
そしてその手前に、犬山城天守閣内への入場券を販売する券売所があった。
なお、大人は入場料550円となっているが、券売機では交通系ICカードや電子マネーなども使えて便利であった。
私がよく使う「AuPay」は残念ながらありませんでした・・・
犬山城の本丸内へ入城していく!
券売機で入場券を購入して、意気揚々と大手門へと向かっていきます。
あと僅かで天守閣にご対面できるという事で、嬉しくなってくる瞬間でもあります。
大手門の柱には「国宝犬山城」と、わざわざ『国宝』の文字が入れられているのが見えてくる。
国宝の天守閣は日本国内に5箇所しかないので、それを誇らしく思って文字を入れたのかもしれない。
そしてその大手門をくぐって中に入っていくと、早速凛々しい犬山城の天守閣が顔を覗かせていた。
この犬山城は戦国時代に築かれたとされており、今見られる天守閣の建物は江戸時代の1617年頃に築かれたと考えられている。
それとこの犬山城天守閣は国宝だけではなく、”日本で最後(2004年)まで個人が所有していた城”でもある。
明治時代を迎えて廃藩置県が行われ、各藩の中心地であった城は県の所有物となって、その多くが払い下げられていった。
この犬山城も同様に愛知県の所有物となって、天守閣以外の建物は取り壊されてしまった。
しかし、明治24年(1891年)10月28日に発生した、日本史上最大の内陸地殻内地震『濃尾地震』(マグニチュード8.0程)で、この天守閣が半壊してしまった。
その際に愛知県側から、天守閣の修理を条件に犬山藩:旧藩主であった成瀬家に譲与された。
その後も成瀬家が代々所有してきたが、平成16年(2004年)になって「財団法人:犬山城白帝文庫」が設立されて、成瀬家側から犬山城白帝文庫に対して天守閣と土地、更に約6500点の古文書や工芸品などが寄付されたという。
犬山城は2004年まで個人所有物で、その管理は1965年から犬山市が行っていた。
ちなみに城自体の固定資産税は免除となっているが、成瀬家の所有する古文書などに多額の相続税が発生する為に、それらの離散を恐れた犬山市と協議して、財団法人に犬山城も含めた所有権が渡ったという。
現代は固定資産税という制度で、金持ちの財産を奪い取っているのだな!
そんな天守閣の脇には、こちらの1本の大きな木が見られた。
この木は「大杉様」と呼ばれており、樹齢は約650年と、犬山城が築かれた頃から存在していたと考えられている。
ただ既に枯れてしまっているらしいが、最大は高さ24mになっていたとされ、天守閣の落雷避けや雨避けになって”身代わり”になっていた大事な木だったという。
天守閣の内部へと進む!
さて現存天守の中での共通ルールとして、まずは入口前で靴を脱いで、天守閣内へと足を踏み入れてくる。
最初に登る階段は地下2階部分から地下1階へと登る為の物だが、見ている分にはそこまで古い階段では無さそうで、ちょっとガッカリした階段でもあった。
その階段を登ると、地下1階部分の踊り場が見えてくる。
この犬山城天守閣は「望楼型三重四階&地下二階」構造となっており、まずは石垣内をしっかり支える構造が見られる場所となっている。
このように天守閣を、土台の下で支える立派な梁。
そして梁などには、手で触れてもトゲが刺さらないように『手斧(ちょうな)仕上げ』で丁寧に表面を削った跡も見られる。
そして1階部分に向かう階段がすぐ目の前にあるが、ここでは登った後に向かうルートを配慮してか、左側通行ではなく右側通行となっていた。
そしてこちらはその階段を登った、天守閣の1階部分。
ちなみにこの天守閣は約200坪で、1階部分は150畳の広さとなっているようだ。
この犬山城天守閣は明治時代後半に倒壊した後に修復された事もあって、江戸時代のままではなく、一部は現代風に改造されたのかもしれない。
このような窓に障子が取り付けられていたけど、現存天守閣内でこのような障子は見た記憶がないような・・?
こちらはこの天守閣内部の説明が書かれていたプレート。
これには「天守の石垣が低いのは、室町時代の特徴」と書かれているが、江戸時代初期に天守閣を改修した際に天守台の石垣はそのまま流用されたという事なんだろう。
こちらは戦国時代の有名な「4つの戦場」が描かれた『犬山城 四戦場の図 』の屏風。
オリジナル作品は江戸時代に描かれた物で今は金沢市内で保管されており、こちらの絵は昭和前半に活躍した日本画家「瀧 秋方(たき あきかた)」が制作したレプリカとなっている。
この犬山城は1584年の『小牧・長久手の戦い』時に、羽柴秀吉が一時入城した城でもある。
この『小牧・長久手の戦い』は本能寺の変後に勢力を拡大していく羽柴秀吉が、織田家当主を実質継ぐように担がれた織田信雄を安土城から追い出した為に、織田信雄が徳川家康と手を組んで抗争を繰り広げた戦いである。
ワシの死後に、猿は無茶苦茶やりおって!(怒)
戦国時代は『下剋上の時代』ともされているが、それまでの封建社会的な血を継いだ世界ではなく、実力のある人物がのし上がっていく時代に移り変わっていた。
それまでの時代であれば、本能寺の変で亡くなった信長の後は織田家が日本を支配していたのかもしれないが、それを許さなかった羽柴秀吉の凄さが歴史を見れば伝わってくる気がする。
確かに猿は、ワシの配下の中で一番野望を持っておったぞ!
こちらは犬山藩士が所有していた鎧兜で、その”小牧山合戦で実際に着用された物”だと伝わっているという。
そんな約450年前の実戦で使われた鎧兜には思えない程に、綺麗な鎧兜となっているように見受けられる。
ほぼ傷を受けなかったのか、それとも綺麗に修復されているのか?
ただ、このフェイスマスクのような「面頬」の迫力が、その時代の激戦を伝える雰囲気を醸し出していた。
こんな旅はまた次回に続きます!
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