神奈川県&東京旅(2022年12月中旬)-45
訪問:2022年12月中旬(2泊3日)
天下人の兜!
数千点の展示品が見られる「東京国立博物館」の中でも、個人的に大好きな戦国時代に関わるコーナーがやってきた為に、俄然に展示品の鑑賞が楽しみになってきた頃合い。
住所:東京都台東区上野公園13番9号
営業時間:9時30分~17時頃(※定休日:月曜日他)
電話番号:050-5541-8600
総合文化展観覧料:大人1000円/大学生500円/満18歳未満&満70歳以上は無料
館内の見学!
早速見えてきた兜は、あの天下人となった豊臣秀吉が所用していた『一の谷馬藺兜(いちのたに ばりんのかぶと)』という、秀吉を象徴する兜の逸品となっていた。
秀吉公好みの、派手な装飾だじぇ!
この兜は岡崎藩士であった志賀家の祖先が、秀吉から賜った兜だとして伝来した物となっているそうだ。
後ろの細長い板を折らずに保存するのも、大変だっただろうな。。
こちらは『一の谷馬藺兜』の背面部分で、「馬藺(ばりん)」とも呼ばれたアヤメ科の「ネジアヤメ」の長細い葉をイメージして、檜で作られた薄板が放射状に嵌め込まれている。
大仏様の光背みたいに後光を表しているともされ、遠くからでもその威厳を周囲に見せつけたかった秀吉らしい兜の形に思える逸品である。
こちらは11世紀の平安時代に作られた『十二間星兜鉢』で、戦国時代~江戸時代の兜デザインから比べると、だいぶ昔の物という雰囲気が漂う作品となっている。
こちらは17世紀の江戸時代に作られた『熊毛植二枚胴具足』で、鎧兜の至る所に黒熊の毛がふんだんに使われている逸品となっている。
日本国内にはライオンや象やゴリラが居なかった為に、最強の動物として「熊」が最も”強さの象徴的存在”だった事だろう。
こちらも17世紀の江戸時代に作られたとされる『白糸縅胴丸具足』で、美濃国岩村藩主となる”大給松平家”6代当主「松平 家乗(まつだいら いえのり)」が使っていたと考えられている一品。
こちらは室町時代の15世紀に作られた『黒韋肩裾取威腹巻』で、上級武士が使用する鎧だった為に当時としては豪華な鎧となっている。
黒韋(くろかわ)を藍で濃く染め、紅糸と白紐を用いた肩裾取威の腹巻となっている。
※国の重要文化財
バカボンのパパの腹巻とは、全然違うよね~!(笑)
こちらは江戸時代の18世紀に作られた『長裃 鶸色麻地松葉小紋 三つ葉葵紋付』で、江戸時代に武士が正式な場に出る際の制服的な「長裃(ながかみしも)」と呼ばれた品。
”遠山の金さん”が着ていたような、足の先まで裾が延びる服やで!
この長裃は徳川家第5代将軍:徳川綱吉が所用していたとされる品で、有名な『生類憐れみの令』を発令した際にひょっとしたら着用していた物かもしれない。
葵の御紋入りは高級品だぜい!
こちらは安土桃山時代に作られたとされる『胴服 水浅葱練緯地蔦模様 三つ葉葵紋付』で、武士が普段着の際に小袖の上に着用したという上着的な存在だった着物。
こちらも”三つ葉の葵の御紋”が入っているが、これは鷹師だった「荒井源左衛門」が農村の争い事を解決した褒美として、徳川家康が贈った品だからであるという。
家康公からこんな立派な服を貰っても、絶対着れないよね~!
こちらは江戸時代の17世紀に作られた『梅鷹蒔絵鞍鐙』で、銀梨子地に金蒔絵で梅と鷹が描かれている、豪華な鞍鐙となっている。
江戸時代には馬に乗れる身分は限定されており、そんな限定された高い身分の中でも、更に頂点に君臨する一握りの存在向けに作られていた豪華な装飾の鞍鐙。。
こちらは18世紀の江戸時代に「呉春(ごしゅん)」という、与謝蕪村や円山応挙に絵を学んだ京都の絵師が描いた『山水図屏風』。
山水図は古代中国時代から多く描かれてきた代表的な作品で、その文化が日本国内にも流入して、国内の画家も多く描いた作品となっている。
東京国立博物館で次々に色んな時代の展示品を見てきたけど、江戸時代になると贅沢な金などの装飾がふんだんに施された作品が一気に増えてきたという印象を受けた。
ただ庶民にまでこのような金が使われた装飾品が普及したというよりは、徳川将軍家などに近い人々が所用していた為に、大事に保管され続けて現代にまで残っている品が多いのだろうが。。
江戸時代の庶民には、金なんて程遠い存在だぜい!
こちらは江戸時代の16世紀に作られた『源氏絵彩色貝桶』で、これは”貝合わせ”という江戸時代に人気のゲームに使われる金色の下地に絵が装飾された貝を入れる為の箱だった物。
”貝合わせ”で使われる貝は360組用意されており、その中から1つの貝に合う、もう一対の貝を探し当てるという平安時代から行われていたというゲームだという。
そんな”貝合わせ”は間違えずに一対の貝を選ぶという事が求められた為に”夫婦節操の象徴”となり、江戸時代には上流社会の嫁入り道具の一種としても人気だったという。
平安時代から伝わる「貝合わせ」をやってみた!
神経衰弱みたいだね~!
こちらは19世紀に作られた『犬張子』という、魔除けのおまじないの置物。
「張子」とは木枠で作られた人形を粘土で周囲を固めて、その外側に紙を貼り付けて作った物で、中身が空洞な為に”はりぼて”とも言われる事も多い。
ただ『犬張子』と言う割には、このように全然”犬”っぽい顔をしていないようにも見えるのだが・・・。
髪の毛が黒色になっているから、ちょっと変に見えるのかもね~!
こちらは江戸時代の19世紀に作られた『火事羽織 紺木綿地雷神模様刺子』で、火事が多かった江戸では鳶職の男性が火消しにあたる際にこの「刺子」と呼ばれた水分を含みやすい服を着て、火事場に向かっていたという。
ちなみにこの雷神模様が描かれているのは外側ではなく内側となっており、”火消しの際の御守り”的存在でもあり、無事に火消しが済んだ際には刺子を裏返しに着て、雷神模様を見せながらその活躍を周囲に人に見せつける役目もあったという。
火消しは江戸の華だったぜい!
こちらは江戸時代の19世紀に作られた『火事頭巾 金革紺萌黄黄段羅紗』で、男性ではなく女性向けの火事装束として作られた頭巾となっている。
江戸時代には”大名火消”が多く任命されており、武家の女も現場に出向く際には、実用性よりも華やかなデザイン性が加えられた頭巾を好んでいたようだ。
こちらも江戸時代の19世紀に作られた『火事装束 緋羅紗地注連縄模様』で、町火消の衣装とは違って、大名火消の衣装はより華やかなデザインとなっていたようだ。
現代の消防士には考えられない衣装よね~!
江戸時代の江戸の街は、急激に人口が増えた為に木造の町屋が密集して建てられていた為に、一旦家屋に火が点くと、その火が次々と燃え移り、火事が拡がり易い町ともなっていた。
その為に火事に頭を悩まされた江戸幕府は、各大名に火事役を任命し、今みたいに建物を消火するのではなく、先回りしてこれから燃える可能性がある建物を先に潰すのが、火消しの大きな役割でもあったのだ。
火消しは”火を絶つ”のが仕事だぜい!
こんな旅はまた次回に続きます!
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2022年12月中旬に『どこかでマイル』を使って訪れた、2泊3日の神奈川県&東京旅です。