ロシア旅行記:4日目
阪急交通社ツアー「お1人様参加限定:ロシア7日間」
-2020年3月12~18日
ロシアのコレクション
さてサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館には300万点を超えるという所蔵品がありますが、これだけ展示されているにも関わらず全体の約5%未満しか公開されていないという。
エルミタージュ新館にて
by ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)
1888年頃の作品。フランスのマルヌ川沿いを描いた風景画で、水面に映る景色は特に変化がなく凍っているようにも見えてしまいます。
by ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)
1900年頃の作品。こちらの肖像画のモデルはセザンヌの奥さんであった、マリー・オルテンスフィケット(Marie-Hortense Fiquet)であったとされる。彼女は27枚の肖像画のモデルになったという。
「ゴッホの間」にて
さてお次は20世紀後半にその絵画の取引価格が高騰し、日本人もその売買に関わって日本人なら知っているフィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)の作品が展示されている部屋です。
by フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)
1888年頃の作品。この絵を描いた時期は有名な画家のゴーギャンと共同生活をしていた頃で、ゴッホはこの絵を描いた数週間後に自分の左耳を切り落とすという事件が発生した。その不気味な事件の動機として考えられているのは、この闘牛場での様子を描いた為だとされている。
闘牛では負けた闘牛の片耳を切り取って、それを女性の観衆に手渡すという習慣があるそうだ。すっかり闘牛に魅せられたゴッホはゴーギャンに対して、急に突進したりという変な行動をするようになった。そしてそれから家に帰り、自分の左耳を切り落として娼婦館へ行き、そこのある女性に片耳を手渡し「大事にするように!」と伝えたという。。
こちらはその耳を切り落とした後の療養している時に描いた、自画像2枚の内の1枚である。この絵を見れば右耳が無くなったように見えるが、鏡を見ながら描いた為に反転して左耳が無いのである。そしてこの療養中を最後にゴッホは自画像を描かなくなったという。
そして退院したゴッホであるがその奇行は周囲の住民に知れ渡っており、精神異常者とされて約1か月間に渡って病院で監禁される事になる。そしてその翌年の1890年に37歳という若い年齢でこの世を去るのである。
by フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)
1888年頃の作品。ゴッホは27歳から画家へと転身した遅咲きの経歴であるが、生前残したのは油絵だけで約800枚。しかしゴッホの作品が彼の生前に売れたのは、なんとたった1枚だけだという。しかしそんなゴッホの遺した作品の価値は20世紀に入るとうなぎ上りに上がって行き、1987年にロンドンで行われたオークションでは現:損害保険ジャパンが当時の為替レートで約53億円で落札するまでに高騰するのである。
そんな売れない画家だったゴッホは主に弟が支援者で、生計を立てていた。そして画家たちでグループを作り、それぞれの絵画が売れたお金を分配する提案もしていた。そして経済的に困窮していたゴーギャンを自分の元に呼び寄せて共同生活を開始する。この絵はそんなゴーギャンの情熱的なタッチに影響された作品だという。
by フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)
1889年頃の作品。こちらの絵は耳切事件の後にサン・レミにある修道院で療養をしている時に、そこから見えた景色を描いたもの。ゴッホはこの療養所で約1年を過ごす事になる。
油絵でも力強く見えるタッチには、ゴッホの情熱的な気持ちが込められているのかもしれない。芸術家として特徴を出すには一般的な能力が欠けている方が、より際立つように思う。そこには普遍的な感覚ではなく、ある意味異常な感覚がないと辿り着けない境地なのかもしれない。
今まであまり絵画については真剣に見てきた事が無いけど、急に1枚10億円以上はすると聞くと、急に絵が芸術品に見えてくるもんなのである。。
絵の価値は値段だけで判断するものではないんだけどね!
エルミタージュ美術館(新館)にはこの時、ゴッホの絵が7枚飾られていた。
「ゴーギャンの間」にて
お次は先程のゴッホと約9週間、共同生活をしていたポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の作品である。ちなみにゴーギャンとゴッホの価値観は異なっており、それぞれに芸術家らしくポリシーを曲げなかったので、最終的にゴーギャンはゴッホの元を去る事になる。
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
左は1896年頃の作品で、右は1893年頃の作品。ゴーギャンは1891~93年までの間にタヒチで生活をしていた。彼の傑作とされる作品はこのタヒチに渡航して以降に、生み出されたものが多い。フランスに帰った後は1895年に再びタヒチへ向かい、約6年間を過ごす事になる。
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
1894年頃の作品。タヒチからフランスに帰って、パリに滞在している時に描いたもの。主にタヒチの女性が描かれているが、ゴーギャンはタヒチに滞在中にそれぞれ13歳と14歳の現地女性を妻にしていたとして、現代社会からバッシングされる対象となっている。
しかしゴーギャンの絵も20世紀の近代絵画ブームに乗り、オークションでは高値で取引されるようになる。そして2015年にはゴーギャンの作品が1枚3億ドル(約320億円)という、史上最高値で取引されたという。
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
1893年頃の作品。タヒチは元々は原始的な生活を送っていたが、1880年には正式にフランスの植民地となり、他の国同様にタヒチ独自の生活様式や文化が失われていく事になる。ゴーギャンが最初にタヒチを訪れた時に、タヒチの理想的な原始的生活スタイルが頭にあった光景を描いたものと見られる。ゴーギャンはタヒチの首都パペーテに住むも、近代化した街に嫌気が差して島の反対側に移り住んだという。
ポリネシアの小さい島でもこのようにヨーロッパ勢の進出により、多くの文化が失われた事が分かる。特にその国の国民を分断させて支配するのに、キリスト教布教が大きな役割を持っていたのも歴史を見ると分かるのである。
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
1897~1899年頃の作品。中央の『テ・アヴェ・ノ・マリア(マリアの月)』は、聖母マリアが祀られる5月に神聖な白いスカーフを身に付けた女性が、クリスチャンとタヒチ人にとって神聖であり純白な存在であるという事を表しているそうだ。
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
左は1901年頃、右は1898年頃の作品。ゴーギャンにとってタヒチという場所は現実逃避の場所であり、かつ自分の快楽を満足させることが出来る場所だったようだ。彼は若い小娘をはぶらかせ、家にはポルノ写真を張りまくっていたので周囲の住民達がわざわざ彼の家を見に来る程だったという。
by ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)
1896年頃の作品。タヒチの家族を描いたもので、男と子供はパンツすら履いていないように見える。漁師でもありながらココナッツしか入手できずに、服を着た妻にそっぽ向かれているようにも見える。ゴーギャンはタヒチで自分の勝手な欲望のままに生きたので、全く興味の無い男性は生きる価値がないように思っていたのかもしれない。まるで男性は奴隷のようにも見えてしまう。。
近代美術のコーナーになると俄然取引される金額が高騰しているので、その取引金額を聞くだけで興奮してくる。元はというと単なるキャンバスに人間が描いた絵だけで、それが数十億になったりするのだから。ただそれら価格の高騰は画家が亡くなってからだいぶ後の話なので、彼らもあの世ではあまり浮かばれた気持ちにはなっていないのかもしれないけど・・・。
人は失ってから初めてその価値を理解する事が多い。二度と手に入らないと思うと余計に欲してしまう。芸術家も生きている時は次々と作品を生み出せるが、死んでしまうともう作品は増えない。そう思うから余計に死んだ芸術家の遺した作品は価値が上がっていくのだろう。
ただ後世の人達に求められる作品を残す芸術家達は、あくまでお金の為に芸術品を残している訳では無く、自分の信念に基づいてそれを貫いているだけだと思う。そう思うと芸術家本人にとって、お金での評価自体は特に重要なものではないのだろう。
「ボナールの間」にて
by ピエール・ボナール(Pierre Bonnard)
こちらもフランス人画家の作品で、大きな1枚の絵の前に柱が設置されているように見えるけど、実際には3枚の絵に分割されている。
by ピエール・ボナール(Pierre Bonnard)
1911年頃の作品。まだこの頃のパリには車は溢れていなくて、馬車が多かった時代のようだ。
ちょっと変わった髪型をしている女性の裸体像。特別な体型というよりかは、理想的なスリムな体型の像のように見える。
by フェリックス・ヴァロットン(Félix Vallotton)
1913年頃の作品。エルミタージュ美術館で多かった作品のタイトルは、「HOLY(聖なる)」や「ICON(イコン)」であり、最も多かったのは「Portrait(肖像)」であった。特に1812年祖国戦争の間に300枚を超える将軍達の肖像画があったり、実在した人物の姿を後世に残す為だったのであろう。
まだまだ絵が続く。さすがにそろそろシンドクなってきた。日本では有名なヨーロッパの画家の絵は飾られていても数枚しかないけど、ここだと数十枚もの数が展示されているので、それらを見過ぎて集中力が無くなってきた頃合い。。
戦いの歴史が人類の歴史と言っても過言ではない。生き残りの為に相手を殲滅させるのに、色んな兵器を開発していった人類。それに伴い多くの戦争死者が出たが、その反面日常生活を大いに助ける新技術が生まれていったのも事実である。
by エドモンド・ランペラー(Edmond Lempereur)
by トニー・ミナルツ(Tony Minartz)
こちらの小さめの作品は3枚を並べて展示していたけど、作者は違う人みたい。こうやって展示していると同じ作者のように見えてしまう。。
by チャールズ・ホフバウアー(Charles Hoffbauer)
1907年頃の作品。フランス生まれのチャールズ・ホフバウアーの作品。
高級レストランで帰り支度をするカップルを描いた作品。銀ギラに輝くドレスを着た女性とウエイターがインド系の衣装をしているので、ロンドンのレストランの一幕を描いたものだそうだ。
by シャルル・ゲラン(Charles Guérin)
1910年頃の作品。女性の裸体画だけど、ご立派な帽子は被っているというモデル。
by ルイ・ヴァルタ(Louis Valtat)
by ルイ・ヴァルタ(Louis Valtat)
左は1906年頃、右は1909年頃の作品。
途中の吹き抜け廊下を通ります。ちょうど建物内へと進む階段が目下に見えています。
by アーノルド(&カルロ:息子)・ベックリン(Arnold & Carlo Böcklin)
1901年頃の作品。こちらはスイス生まれの画家アルノルト・ベックリンが描いた、何とも不気味な作品であるが20世紀前半頃にはヨーロッパではとても有名な絵だったようだ。ベックリンはこの同じ構図の絵を5枚も6年間の間に描き、こちらの絵はその後息子のカルロと共に描いたもの。
by フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck)
1905年頃の作品。人間の本質というよりかは、地球上に生まれた生物としての本能が表れている作品。ただ立っている女性は優雅にも「さあ、私の為に闘いなさい! 私は強い男が好きなの!」という顔をしているような。。
大きな黒いミミズに纏わり付かれた少女のような作品。
こんな旅はまた次回に続きます!
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