神戸旅行記2020年-⑫
旅行期間:2020年10月15日~16日
神戸の歴史
ここは神戸市の街の中にある「神戸市立博物館」で、昭和初期に建てられたレトロな建築物の中とは思えない位に綺麗な内装となっている。この博物館では1階が「神戸の歴史展示室」でこちらは無料で入れるようになっていて、2階部分は「コレクション展示室」となっており、大人300円の有料ゾーンとなっている。
1階:神戸の歴史展示室にて
さてこの博物館では勿論有料ゾーンにも入るつもりだったけど、まずは順序通りに1階の「神戸の歴史展示室」から見学していく。やっぱり観光で都市を訪れた際には綺麗な景色や美味しい食べ物を堪能するだけではなくて、しっかりとその土地の歴史を勉強する必要がある。歴史を知れば、よりその土地の背景や生きてきた人達の背中を見れて豊かな旅となるから。
まずは見えてきた大きな煉瓦の塊だが、こちらの説明では「神戸外国人居留地下水道管」だったものだという。この煉瓦は基本的には西洋から来たもので、開国初期はフランス式の積み方の物が多かったが、時代が進むとイギリス製の煉瓦が入って来て、現存する赤レンガの建物の多くはこのイギリス式積み方で建てられているものが多い。
文明が進んで行く程に、下水道などの処理が大事になってくる。これは明治時代に造られたものと推測されているけど、前回の奈良旅では奈良時代に使われていたという、木を削って使っていた下水道管も見られた。
こちらの書状は「外国人入京免状」という、日本に滞在している外国人が京都に入る際に必要だったという許可証。幕末に諸外国に対して開港した日本だったけど、日本に上陸してきた外国人は居留地以外への出入りなどは制限されていた。外国人の勝手な行動により問題を起こされたくないのもあったし、当時はまだ外国人を見るのがとても珍しい地域もあった為に、そのような混乱を防ぐ目的があったのだろう。
こちらは明治初期に作られた「神戸外国人居留地計画図」(複製)で、細かく街灯や下水管の位置まで記されていたという。
この図面は日本人ではなくて、イギリス人技師のJ・W・ハート氏が作製した為に、通りの名前などは全て英語での表記となっている。このような最初からしっかりとした土地区画などの計画の上で、整った神戸の街並みが作られていった訳である。
そして次のゾーンは明治初期頃の神戸の街並みの模型と、その後ろにはその時代の写真が写されているのが見える。江戸時代にはもっとごちゃごちゃした街並みだったのだろうが、明治になると街路樹なども植えられて、都市へと発展していく様子に見える。
江戸幕府とは違って明治政府は西洋文明を高く評価していたので、今までの日本的な文化を捨てて、いち早く西洋文明を積極的に導入していった。そのような明治時代の改革によって、このように瞬く間に西洋建築物の建物が増えていった神戸の街。
こちらは人力車が明治時代の洋館が並ぶ神戸の街並みをバックに展示されていたのが見える。西洋文明が多く入ってきた事で江戸時代まであった仕事が無くなってしまうものもあっただろうけど、それ以上に西洋からの多くの技術が流入してきた事によって多くの仕事が生まれたのである。
次の模型は元々は外国人居留地だった場所が廃止されて、昭和時代の前半に貿易商や造船会社などが進出してきて、建物もそれまでの低い建物ではなくて鉄筋コンクリート造りが増えてきて、高いビルが増えてきているのが見て分かる。
このように神戸の街は明治時代となってから、急激に発展していく。しかも諸外国に開かれた港があった街なので、日本的な建造物ではなくて、このように西洋などの諸外国の建築物のいい面を取り入れて発展する。
このような西洋っぽい建築物の多くは、明治時代になって西洋に留学していった多くの建築家によって造られたものが多い。自国の伝統を大事にする事もいいけど、進んでいる文明を積極的に導入する事によって、日本は後の西洋諸国による植民地化を防いだとも考えられる。
こちらは大正時代に全盛を迎えて”日本一の年商を誇った”という「鈴木商店」の経営者であった鈴木よねの記念胸像が展示されている。この鈴木よねという人物は旦那を無くした後に鈴木商店を引き継ぎ、金子直吉と共に多角的経営に乗り出し、第一次世界大戦時には戦争国へ大量の軍需物資を輸出して儲けて、「日本で最も裕福な女性」と言われて、その後には「世界で最も裕福な女性」とも称された人物。
しかし最終的には第一次世界大戦が終結した後のデフレによって日本国内は大規模な不景気が訪れて、多角的経営に手を伸ばし過ぎた鈴木商店はその影響をモロに受けて経営破綻してしまう。だがこの鈴木商店が携わった事業は今の神戸製鋼所や双日や帝人などとして、また他にも関わった会社の多くが現在にまでその名残りを残している。
こちらの機械は「軸列機」という、マッチ棒となる軸木を網戸のような細かいマス目がある箱の中で揃えて立てる為の機械。機械の上に乗っている箱の中には約3000本前後のマッチ棒が入れられる構造となっており、明治15年頃にドイツから輸入されたもので、主に「ドイツ」という呼称で人々は呼んでいた機械だという。
次に見えた機械は昔の活版印刷機で、紙の上に版を置いてその上からプレス機で文字を転写していた仕組みの機械。印刷という技術は古代の中国が最初に行ったという説があるけど、近代世界史ではドイツのグーテンベルクによる『活版印刷術』が有名である。
今の時代では考えられないけど、当時の版は木を彫って文字が刻まれていた。現代は金属製の版が一般的に使われるけど、それに比べるとこの木版は耐久性が弱くて、消耗が早い為に多くの部数を刷れなかった。なのでこの木版は大量印刷には向いていなかった。
このように明治時代になって日本に導入されて、その当時はとても画期的な機械だったのだろうけど、それから約100年以上が経過した現代人が見ると今では見られないすっかり珍しい物となってしまっている。なので今ボク達が毎日手にしているスマホなんかも、100年後にはこういった博物館でしか見れない骨董品になっている可能性が高いのだろう。。
そして神戸が開港されて多くの西洋技術が日本に導入されたけど、それに伴って多くの外国人がやって来た事もあって、日本の衣食住も大きな影響を受けたようだ。
こちらの如何にも古そうなボロボロの椅子は天池徳兵衛という人物が作ったとされる、日本で最も古いと推測される”日本人が作製した洋風の椅子”だという。背中には明治18年(1885年)7月17日の日付が入っているそうだ。
その隣にある、この「ひじつき椅子」は日本的な鶴・松・獅子などの装飾が施されており、それと共に西洋的な渦のねじれのデザインも入っており、和洋折衷デザインとなっている当時では珍しい椅子。
こちらは昭和初期の物と見られる「布引タンサン水」の看板。炭酸飲料は元々は日本になかったもので海外から輸入されていたが、明治時代の中頃になって日本でも製造されるようになった。この神戸では近くにある布引の六甲山系の天然水を活用して、この「布引タンサン水」が製造されていた。
昔は炭酸水自体が珍しかった時代もあるアル!
こちらには大昔から近代までの神戸の歴史についての年表がある。ただしボクの脳みその記憶容量は既にメモリー満タンになって、あまり新しい事を記憶出来ないのでこういった年表などは写真に撮るだけ撮って、後からもし興味があれば見返す位にしておく。。
昔の神戸の街並みのミニチュアやそれの説明パネルなどを見ているオカンだけど、こういった物に興味があるとはあまり思えない。「とりあえず目の前にあるから、見ておこう」という感じにしか見えないが。。
そして奥には映像コーナーもあって、こちらのモニターでは昔の神戸の街並みの写真が3Dのように動くものとなっている。これを見ていると技術進歩の凄さを体験出来て、当時は白黒だった写真に色を付けて、更には人間が歩いているように見える動きまでしていた写真。。
明治時代になって外国人が多く入ってきたり、また外国へ留学した先で出会っての国際結婚が増えていったが、実際にはその多くは日本国内では大きな反発があり、また家族内の抵抗も強くて大変だったそうだ。ニッカウヰスキーを創業した竹鶴政孝もスコットランド留学時に出会ったリタと結婚する事になるが、双方の家族に強烈に反対されるが最後は駆け落ち同然に籍を入れた。そのような苦い思いがあってか、竹鶴政孝は晩年孫に「国際結婚だけは(苦労するから)やめとけ!」と言ったという。
そして1階部分の神戸の歴史展示室を見学し終わって、入口近くでこのような銅像を発見した。神戸と言うと西洋文化が根付いた街なので、このお坊さんのような人物がわざわざここに置かれている事は、それなりの人物なんだろう。
銅像の台座にはこのように「平 清盛」とプレートが入っていた。実はこの平 清盛は神戸の発展にも大きく関わっていた人物。というのも後の兵庫港となる大輪田泊を港として整備して、中国(宋)との貿易を積極的に導入していった。
そして1180年頃には、兵庫県の福原に半年程遷都した歴史もある。だからもし平清盛が行った福原の都市整備が進み、政権も順調に行っていたら『福原幕府』という言葉が教科書に載っていたかもしれないのだ。
こんな旅はまた次回に続きます!
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