和歌山城天守閣内にある「わかやま歴史館」を見学しながら登っていく(part1)【和歌山市旅行記⑤】

和歌山市旅行記2021年1月-⑤

旅行期間:2021年1月某日(0泊1日当日旅)

史料がギッシリの天守閣!

ここは江戸時代に和歌山藩の居城だった和歌山城。今の天守閣は戦争時に空襲で焼失してしまった後、昭和後半に鉄筋コンクリート造りで再建された建物になっている。

 

 

 

天守閣内の「わかやま歴史館」を見学!

有料ゾーンの天守閣内に入っていくと、そこは「わかやま歴史館」という歴史的な資料などが展示されているスペースになっている。勿論このような展示品はそれらを見学するのが好きな人はじっくり見て行けばいいし、あまり興味が無い人はサッと見て天守閣の上に登っていくのもいい。

 

こちらは偉いさんが鎧を着用した、その上から羽織った陣羽織。これは「墨絵龍陣羽織」という、大きな龍が背中に描かれており、どちらかというとこの陣羽織を羽織った人物が目立つ為に、着用していた物と考えられているようだ。

 

こちらのパーツは「喉輪(のどわ)という、首付近を守る為の防具だった。大相撲で”のど輪押し”という、相手の喉元に手を掛けて押す技があるけど、その押しは相手の喉を押すというよりも、この喉輪に手を掛けて押すという意味合いだったのかもしれない。

 

こちらの兜は派手な前立ても無くて地味だけど、一般的に使われていた兜。右側の兜は「提灯兜」という、提灯のように折り畳みが可能だった兜。このような兜も毎日着用する物でもなくなっていたので、普段は収納しやすいように利便性が好まれていたのかもしれない。

 

こちらは和歌山藩(紀州藩とも)の『金丸旗印』で、戦場で敵味方を区別する為の旗だったもの。なお、こちらは江戸時代の旗印のようだが、この日本国旗の”日の丸”みたいなデザインは多くの大名で使われていて、特に珍しくもない一般的なデザインだったようだ。

 

こちらには小さな銃が展示されているが、これは「郵便保護銃」という明治時代初期の郵便局員が、郵便物の略奪を阻止する為に携帯していた銃だという。現代からは考えられないけど、郵便制度が開始された明治時代初期は荷物の略奪が多く発生し、また現金書留なども配達された為に、郵便局員が狙われる事が多かったようだ。

 

こちらは「ケッペアー拳銃」というドイツ製の銃で、江戸時代末期に国内に大量に輸入された”パーカッションロック式(雷管式)”の拳銃を小型拳銃に改造した物と見られる。この形式の銃は江戸時代末期~明治初期に大量に日本に輸入され、時代遅れの銃ではあったが安価な為に戊辰戦争で会津連合軍などが使っていたという。

 

こちらにも先端の刃が鋭い槍が、数本置かれている。このような槍は形から見ても想像できるように、振り回すというよりは、硬い鎧の隙間を思いっ切り貫くという使い方をメインにしていた物と推測される。

 

こちらは『紀州藩:佐々木流鉄砲&火術免許状』で、14家あったという紀州藩の砲術指南家の1つ:佐々木家から弟子に送られた免許状となっている。先日の米沢を訪れた時も博物館で見たけど、鉄砲などを扱うにはそれなりに技能が必要で、特に江戸時代には大筒などの武器が開発されていった為に、その技術習得を奨励していたのかもしれない。

 

 

こちらは「火縄銃」で、国友藤兵衛(9代目)という幕府御用達の鉄砲鍛冶職人だった人物が造った物のようだ。また国友藤兵衛は発明者として蘭学にとても興味を持っていて、反射式望遠鏡(グレゴリー式)なども製作しており、その望遠鏡で覗いて見た月の詳細なスケッチ図なども残している。

 

こちらは「金小札緋糸威 二枚胴具足」という江戸時代の鎧兜で、兜は鉄錆地という表面に漆を塗らずに鉄の地合いをそのまま見せていたデザイン。その代わりに鎧には金箔を押した小さな金属板があしらわれており、地味に豪華な装飾となっていたようだ。

 

こちらの鎧兜は喉輪パーツ付近が金箔で装飾されていて、戦に着ていったら「ここを狙ってくれ!」と言わんばかりのデザインだったようだ。ただ江戸時代に制作されたとされる鎧兜の為に、戦場に着て行って実戦を行う為の物というよりは、贈答用に造られていた物だったのかもしれない。

 

こちらの兜は「鉄錆地:日根野頭形兜」で、室町時代後半から造られて主流の形になっていった兜。量産化する技術が出てきたと共に、人間の頭と同様の丸い形にする事で打撃などの衝撃を和らげる効果もあって、全国に拡がっていったようだ。

 

こちらには紀州藩の鉄砲鍛冶が製作した「侍中筒」という軍用銃が置かれている。戦国時代に伝来した鉄砲は、江戸時代に色んな藩で導入され、また色んな改良が施されて大量に生産されていった。しかし幕末時の動乱の時にはこれら日本で造られた銃は時代遅れの代物となっており、活躍した銃は西洋から導入された最新型の銃だったのだが。。

 

こちらはこの紀州藩が鉄砲生産で盛んな土地になるキッカケを作った「津田 算長(つだ かずなが)の絵。1543年に種子島に鉄砲が伝来した翌年に津田算長が自ら種子島に渡り、1丁の火縄銃を買い取って紀州に持ち帰り、堺の鍛冶職人だった芝辻清右衛門に鉄砲を模造させた。また”津田流砲術”の創始者としても有名な人物である。

 

こちらは「葵紋陣太鼓」で、戦の時に合図を出す太鼓として造られた物。なお、鼓面にはご覧のように、紀州徳川家の家紋である『丸に三つ葉葵』が大きく入れられているのが見える。この三つ葉葵は双葉葵(フタバアオイ)の植物からデザインされた家紋であるが、三つ葉の双葉葵は殆ど見られずに、架空の存在のようだが。

 

こちらは紀州藩の家老だった安藤家に伝わる「陣笠」で、元々は戦国時代に身分の低い足軽などが戦場で使っていた被り物だが、江戸時代になると武士が公用で外出する際に使われるようになっていったという。なお、こちらの陣笠には、安藤家の家紋である”下り藤に安の字”マークが入れられているのが見える。

 

 

そしてこちらには天守閣などの建物の上でよく見られるや、鬼瓦などが置かれているのが見える。日本の昔ながらの日本家屋には、必需品だったこれらの装飾品だけど、現代新しく建てられる家にはこれらの日本的な文化があまり見られなくなってきているが。。

 

こちらは江戸時代に造られた葵紋が入った鬼瓦で、右の鬼瓦は木で作られていて、表面に銅板を打ち付けて製作した物とされている。このような葵の御紋を目にするだけで、日本人は少し緊張してしまうように感じるのは『水戸黄門』の影響か、それとも徳川幕府の影響なのか?

 

江戸時代の天守閣は焼失してしまっているので、今この和歌山城天守閣などに設置されている鯱は、昭和時代に造り直された物。鯱のモデルは古代中国から伝来した想像上の生き物から来ており、海に住む事から火を防ぐ効用があるとされているが、残念ながら鯱の付けられた建物は木造であれば関係なしに簡単に燃えてしまうのであるが。。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

鯱は縁起物だね!

 

こちらの籠は寺の住職が乗っていたという、江戸時代の「塗駕籠(ぬりかご)。藩の庇護下にあった仏教寺はそれなりの権威があって、住職はわざわざこのような籠で移動していたようだ。また和歌山市太田町は「太田城」があったとされており、秀吉が”水攻め”で攻城した城の1つとしても有名なんだとか。

 

こちらの長持は葵の御紋がデカデカと入った品になっていて、紀州徳川家より家臣に与えられた品だという。ただこのような”葵の御紋”が入った長持を贈られる立場からすれば、乱雑に扱う事が出来ず、子々孫々までの宝物として扱わなければならなかった事だろう。

 

1600年頃から1870年頃まで、日本国内を統治し続けた徳川家による江戸幕府。この時代はヨーロッパ諸国が大航海時代を経て、外洋に船で開拓していく時代となって大きく領土を広げて、更には文明も発展させていったが、この日本は反対に鎖国という立場を取って、内向きの政策を行い続けた時代でもあった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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