かつて本丸御殿があった高台から眺める、和歌山城天守閣【和歌山市旅行記③】

和歌山市旅行記2021年1月-③

旅行期間:2021年1月某日(0泊1日当日旅)

数年ぶりの天守閣!

和歌山県の中心地にあった和歌山城。江戸時代の途中から徳川家の御三家の1つである”紀州徳川家”の居城として、関西地方に睨みを利かせていた場所でもあった。ただ全国の藩財政が苦しくなっていった江戸時代にあって、この紀州徳川家も例にもれず、藩財政にも苦しんでいたという。

 

 

 

和歌山城内にて

和歌山城の北西側の入口である「吹上口」から城内に入り、西の丸跡に造られていた日本庭園を見学してから、要人しか通れなかったという「御橋廊下」で内堀を渡って二ノ丸跡に入ってきた。目の前には天守閣の建物が見えてはいるが、ここから天守閣に辿り着くには道を迂回して行くしか方法が無く、守りに特化して造られた城だけに簡単に登城できない構造となっている。

 

こちらが先程渡った「御橋廊下」で、木が組み合わされた足場となっている。この廊下も江戸時代に造られた物だが、昭和時代に復元された物となっている。藩主やその付き人しか通れなかった廊下だけど、利用度としては実に限られた廊下でありながら、その廊下を使う人の権力度合いが伺える。

 

 

「御橋廊下」を眺める! 動画

 

 

こちらの古そうな木の上には、苔が生え揃っていて、そこに新たな雑草が生えだしている景色も見られる。このように、ある生命体も時間が経過すれば、他の生命体に影響を与える存在になっていく事が分かる。多くの命が繋がって、この大きな地球となっている訳でもある。

 

さて気持ちはすっかり天守閣へ行く気となっているので、案内板に従って天守閣の方へと足を進める。今は門跡しか見られないが、城にはこのような石垣の形になっている所に櫓付きの門が複数造られていて、不審者などが簡単に侵入できない仕組みになっていた。

 

江戸時代には国内で戦乱が起きる可能性は少なくなっていたが、万が一敵が攻め込んできた際に籠城する砦として造られた天守閣までは、このような坂が待ち受けている。ただ殆ど侵入者の無かった江戸時代には、毎回藩主や家臣達がこの坂を往復するのが意外と大変だったので、藩主も平地の二ノ丸の御殿に住んでいた事の方が多かったようだ。

 

ちなみにこの坂の上に本丸御殿があったが、その本丸御殿を使っていた藩主は紀州徳川家の祖であり、紀伊和歌山藩(紀州藩とも)初代藩主だった徳川頼宣と、最後の14代藩主:徳川茂承だけで、他の藩主は下の二ノ丸御殿を普段住まいとして使っていたそうだ。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

毎日、この坂を昇り降りするのは結構大変だぜ!

 

この坂道沿いに造られている石垣は、昔の野面積みではなく、「打込接」の石垣。江戸時代には更に進化した”切込接”という、石を綺麗に加工して隙間なく積み重ねる技法も出てきたが、その分手間とコストが多大に掛かった事もあって、一般的な城ではこの「打込接」の石垣が多く見受けられる。

 

お城に必ず必要な物として、さっき見た堅固な石垣や高台の立地などと共に挙げられるのが『水』である。いかに堅固な城を造って沢山の兵糧を抱えていても、水を絶たれてしまえば、人間など2週間で息絶えてしまう。そう思うと、人類だけではなく、地球上に生きる生命にとっては水という存在は、必要不可欠な物質なのである。

 

 

こちらは「銀明水」という名前が付いた井戸があった場所で、和歌山城内には合計40か所を超える井戸があったという。現在は上下水道が綺麗に整備されていて、水道代さえ支払えば簡単に水を入手できる時代だが、昔はこのような井戸を頼りに人々は生きていた訳である。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

便利な時代になったもんだ!

 

石垣にはこのように苔がビッシリ生えて、更には雑草が生えてきている箇所もあったりで、かなりの歳月を感じさせる風合いとなっていた。このような苔だらけの景色は、宮崎駿監督作品のアニメ『天空の城ラピュタ』を想像してしまうけど、緑色生命体の繫殖力の凄さを感じる景色でもある。

 

そしてこの登城口の坂道には、このように排水溝が脇に造られている。この溝が江戸時代から造られた物かまでは分からないけど、足元を確認しながら登らないと、この溝に足を踏み入れてしまって転倒しかねない程に深めの溝だった。

 

そんな坂道を登っていくと、段々と和歌山城の天守閣が近づいてくる。全国的にも有名な城跡にはこのような立派な天守閣が造られているので、現代人からすれば「城に天守閣って、必ずあるんだよね!?」と思いガチだけど、実際には天守閣が無い城も多くあった。

 

そしてその天守閣とは反対の方向に階段があって、その階段を登ると「本丸御殿跡」が存在していた場所で、そこが”天守閣の撮影ポイント”という案内が立っているのが目に入る。このような案内を見ると、旅行先で写真を撮るのが楽しみであるボクからすれば、見過ごす事が出来ない。

 

「本丸御殿跡」に登る!

この場所は虎伏山という小高い山の上に位置し、かつては藩主が住んでいた「本丸御殿」が造られていた場所のようだ。そしてここからは、目の前に同じ高さレベルで天守閣を眺めれる場所となっていて、主にパンフレットなどの写真撮影する際にこの場所から撮られた写真が多そうな景色だった。

 

こちらの説明板によると、秀吉の弟だった羽柴秀長がこの地に和歌山城を築いたのが、この虎伏山だったそうだ。そして江戸時代初期に、初代和歌山藩主となった浅野幸長の時代になってから、西側の峰を整地して今見られる天守閣を造ったという。

 

そして徳川頼宣が入ってきた時に、この一帯を本丸とし、この高台にあった御殿を普段住まいとして使ったが、日常生活で不便な場所だった為に、段々と使われなくなっていったようだ。常に日本各地で戦が勃発していた戦国時代には、このような攻めにくい場所に本拠地があるに越したことはないが、平穏な時期に不便な高台に暮らすと結構大変だった事だろう。

 

この和歌山城天守閣は江戸時代初期に建造されたが、1846年頃に落雷によって炎上し焼失している。そしてそれから約4年後に、再び以前と同様の形の天守閣が再建され、昭和時代には国宝にも指定されたが戦争の空襲によって再び焼失してしまった。

 

 

本丸御殿から眺める天守閣! 動画

 

 

今見られる天守閣は1958年に鉄筋コンクリート造りで再建された天守閣で、ご覧のように大天守と小天守からなる”連立式天守閣”となっている。この連立式天守閣というのは愛媛県の松山城でも同様の形だったけど、普通の天守閣は1つの建物だけど、この連立式天守閣は大小天守2つと更に2つの櫓がセットになっていて、四角くガードされている形式である。

 

和歌山城 連立式天守閣を上から見た

和歌山城の連立式天守閣は、上から見れば判り易い—-Googleマップより

このように天守閣だけではなく、複数の櫓などの建物が連なっているので、簡単に敵が侵入できない造りになっているのが上空から見ればよく分かる。このような連立式天守閣は松山城や姫路城などでしか見られない珍しい形であるが、それぞれの城が西側諸国が万が一攻め込んできた時に迎え撃つ場所として築かれたという事も推測できる。

 

テレビでもよく見かける、某:城郭考古学者の教授じゃないけど、城の造りなどに興味を持ってくると、それが訴えかけてくる事に耳を傾けると、江戸時代の情勢などが少し理解出来たりする。日本でも数少ない連立式天守が淡路島を中心とした付近に築かれていた事から、その場所が西側諸国との最前線として想定されていたのだろう。

 

九州には島津家や黒田家など戦国時代に名立たる武勲を残した大名がいるだけに、江戸幕府からすればお家取壊しにはしなかったものの、常に警戒していた事だろう。江戸時代は一見平穏な時代に思ってしまうけど、裏側では常に諜報戦が繰り広げられており、冷戦状態の米ソ対立ほどの緊張関係下にあったのかもしれない。

 

 

和歌山城:天守閣前に到着!

そして程なく、和歌山城の天守閣前に到着する。今では弓矢などは降って来ないけど、江戸時代にもし敵としてこの場所にやってきたら、天守閣の建物から弓矢や鉄砲などで狙われる格好の標的となっていただろう。

 

その天守閣前には、こちらの『まりと殿様』という童謡の歌碑が設置されていた。西條八十:作詞・中山晋平:作曲で昭和4年(1929年)に発表された童謡で、手鞠(てまり)で遊んでいたら、その鞠が殿様の大名行列に飛び込んで行き、殿様はその鞠を持って参府し、最終的には鞠が紀州の蜜柑になったという話のようだ。

 

ただその童謡の話を江戸時代に置き換えると、大名行列を迎えた国の人間は”大名行列を妨げてはいけないというルール”だった事もあって、鞠がもし大名行列に入って殿様の籠にブツかっていたら、その子供と両親は斬られていた可能性があるという。これはあくまで仮定のストーリーなので、映画のストーリーのように真剣に考えるべき問題ではないが、実際に薩摩藩の大名行列を馬に乗って見物した外国人が、薩摩藩士に切り殺された生麦事件が起きた事などもあった。

 


 

 

【鞠と殿様】 動画

大名行列が通る際に、その国の庶民は土下座に近い形で頭を下げて見守るのが当然だったらしく、手毬で遊ぶ子供が普通にいた可能性は少なかったのかもしれないな。。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

ワシの時は、そんなハプニングは無かったぞ!


 

 

この和歌山城は高台に造られている事もあって、この天守閣付近まで登ってくると、周辺の和歌山市内が一望できる。この和歌山市内にはそこまで高い建物が無いだけに、余計に見晴らし良く感じる景色でもあった。

 

この和歌山城は、愛媛県の松山城と同様にこの連立天守閣の前までは無料でやって来れる。だから、天守閣前の広場に設置されていたベンチには、地元民と見られるオジサン達がたむろしている光景なども見られた。

 

天守閣という建造物は何も知らない人からすれば殿様が贅沢な生活を送っていた場所に思えるけど、実際には有事の際に籠城する為の”最後の砦”だった建物で、普段は殿様は近くの御殿で暮らして藩政を行っていた。だから普段は使われなかった天守閣内には、武器や弾薬、また兵糧などの備蓄倉庫と化していたようだ。

 

そしてこれから先に進むには、入場料が発生します。通算3度目となる和歌山城の天守閣にこれから入場していくのだが、これまで以上に多くの事を勉強し、色んな事に気付けた城見学になるのであった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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