和歌山市旅行記2021年1月-⑩
旅行期間:2021年1月某日(当日旅)
暇そうな忍者?!
松の木などの植物が綺麗に手入れされていて、気持ちいい雰囲気だった和歌山城の天守閣内。天守閣を何個かの建物で繋いで囲んだ状態になっている、”連立式天守”という珍しい形式になっている和歌山城でもあります。
城周辺を散策!
和歌山城天守閣の建物は戦後に再建されたもので、しかも鉄筋コンクリート造りとなっている。石垣自体はこのように戦国時代に多かった野面積みになっているけど、その周辺には配管や電気ケーブルが見えたりで、イマイチ昔ながらの雰囲気は感じられなかった。
連立式天守となっている天守閣内に足を踏み入れても、このようにまずは一段下がった場所から左に曲がって登らないと、天守閣に辿り着けない形になっている。このように江戸時代に本格的に改修された和歌山城は、攻められた事は無いけど、堅固な城だった事だろう。
天守閣内に入っていく時に通る、東側にある「楠門」の足元には、このようにハート形に見える敷石のような物が設置されているのが見える。ただ江戸時代にハートマークの概念が無かった可能性が高いので、ハート形を意識してその当時に造られた可能性は低そうだが。
戦後に再建された城だけに、この足場部分が昔のまま現存しているという考えも低い。ただ可能性としては、ここは多くの人が通る道ながら舗装されていない土の道だったので、雨降りの時にぬかるんで歩くと汚れる為に、このような小石が敷き詰められたのかもしれない。
この和歌山城天守閣再建は、1958年に約1億2000万円の費用を掛けて行われた。その設計に携わったのは、城郭研究に力を入れていた東京工業大学:名誉教授だった藤岡通夫。鉄筋コンクリート造りながら外観は昔の和歌山城を再現し、この楠門だけは昔ながらの木造建築物で復元された。
そして楠門を出ると、下の方にこのような黒ずくめの衣装を身に纏った忍者のような外見をしている人が居た。こちらは観光客を出迎えて記念写真などを一緒に撮ってくれる人なのであるが、あまりに観光客が少なすぎて暇そうだったが。。
しかもこの和歌山城を訪問したのが1月下旬で、まだまだ気温は寒い時期だったので、余計に薄着だった黒忍者さんは寒かったと思う。でもこの恰好で観光客を出迎えるという仕事だったので、嫌な顔をせずに立ち続けている姿が見られた。
今日は雲の無い、スッキリとした晴天の天気だったので、余計に城の外観の白さが青い空色に調和して、和歌山城が一段と綺麗に見える。まして人が少ない時期だった事もあって、城見学には打ってつけの時期でもあった。
こちらは大きい方の天守閣だけど、遠くから見たら綺麗に見えたが、凝視していると外壁に所々汚れが目立つので、そろそろクリーニング時が迫っていたのかもしれない。城の建物も一度造ればいい訳ではなく、建てた後も定期的なメンテナンスを行わないと外観がボロボロになっていくのである。
そして暇そうにしていた忍者さんを喜ばす為に、わざわざ記念写真を申し出て記念撮影をしてもらう。2020年に蔓延した新型コロナウイルスの影響により、以前までのような身近な接客が出来なくなった為に、人との接し方が難しくなってきた時代でもあった。
さて今回の和歌山城訪問はこの天守閣の見学を第一の目的にしていた訳ではなく、徳川幕府第8代将軍:徳川吉宗の銅像を見たかったから訪れたのであった。江戸時代の歴史に興味を持ってくると、将軍の中でも特に有名な徳川吉宗の存在が際立っており、その故郷である和歌山を訪問したいと思った。
そして日本の歴史に興味を持つと、このように城に付き物の石垣にも興味が行ってしまう。全国どこの城でも見られる石垣であるが、その城が造られた時代によって使われている技法が違い、その石垣を見るだけである程度の建築年代が分かったりするのである。
そして和歌山城の石垣には、このような象形文字にも思える刻印が入った石が多く発見されている。こちらの刻印についてはその内容が明確に記された書物などが無い為に、何のために入れられたかという答えは推測の域を出ない。ただ恐らくは、この石垣造りに関わった組の家紋などが入れられていた可能性があるようだ。
現代みたいにクレーン車やブルドーザーなどの重機が無かった時代に、1つずつ人力で運んで設置していた石垣。そういう人力で設置していた時代の景色を想像するだけで、このような石垣を見れるだけで嬉しく思えるのである。
日本全国の城は明治時代に入ってから廃城令が出されて、それによって多くの城で払い下げられた為に、城の敷地内は切り売りされて神社や官庁や学校などの施設に様変わりした所が多い。西洋化を目指した明治政府からすれば、全国に腐る程にある城を無駄に残すよりも、新たに活用する方向性にメリットがあると考えていた事だろう。
こちらは天守閣の西側にある「砂の丸広場」という、かつて”砂の丸”と呼ばれた一画。今ではすっかり陸地にしか思えない和歌山城周辺だけど、大昔には近くまで海だった為にこのような砂が大量に拡がっていた名残を残す一画でもあった。
その砂の丸の近くには、このように「鶴の門跡」という立札が置かれていた。何も表示が無ければ、単なる通路かと思ってしまうので、そう思うとこのような案内板というのはとても大切な役割を果たしているのである。
ここにあった「鶴の門」は、紀州徳川家がこの城にやって来る前に治めていた浅野家時代に造られた日本庭園があった場所のようだ。道理で単なる空き地という雰囲気ではなく、ちょっとした庭のような雰囲気を感じたのであった。
その庭園跡には、このように小さな池とそこに架かる橋があった。このようなかつての庭園を思わせる池と橋も、昔の物がそのまま残っているという可能性も少ないのかもしれない。というのは、この辺りは紀州徳川家時代には水堀となっていたらしく、長い間水の中に沈んだ場所となっていたようだが。
「わかやま歴史館」の見学!
こちらの建物は西の丸に造られている「わかやま歴史館」が入っている建物。観光案内所やお土産を販売している場所でもあるが、2階では「和歌山城の歴史文化」などが紹介されているので、歴史好きな人間にとっては訪れるべき場所でもあった。
こちらは建物前に設置されていた、観光地に付き物の顔出しパネル。ここ和歌山では特に有名な「徳川吉宗」のキャラクターや、名産品として有名な蜜柑や梅も描かれているイラストだった。ただイマイチ面白みを感じないパネルだったので、ここで記念撮影はせずにスルーしたが。。
寒い寒い冬場や、暑い暑い夏場などには、城敷地内を散策していると体力的にシンドクなるので、このような綺麗な建物に入る事で休憩を兼ねる事が出来る。ただボクはそこまで暑さや寒さは気にしないけど、同伴しているオカンからすると、地獄のように思えるそうだが。。
もう既に凍えそうな寒さにやられてます・・・
まだ比較的新しい建物に思えた内観で、とりあえず2階に登る。こういった自治体によって歴史が展示されている資料館などは、入館料が安くて綺麗な施設が多いので、地方観光時には立ち寄りたい場所である。
そして入館料を支払って中に進んで行くと、まず見えてきたのが「獅子紐印(ししちゅういん)」という、紀州徳川家が所用していたという特別で高級な雰囲気のハンコである。
こちらがその「獅子紐印」という紀州徳川家に伝わるハンコで、古代中国から伝来したような雰囲気を醸し出している。書体も昔の漢字で全然読めないけど、側面には「楽只」とあり、天面部分は「魚袋 金 賜紫」という文字が彫られているようだ。
そんな実際に使われたのか疑いたくなるようなハンコ以上に注目してしまうのが、そのハンコを収納する外箱というべき器。このように獅子の狛犬が上に模られており、しかも小さい獅子の器に納めた後に、それを大きい方の獅子の中に納めるという、中国古代皇帝に献上されたハンコのような威厳を醸し出していた。
こちらにはそのハンコに彫られた文字が説明されているが、内容だけ見ていると実際に使用するハンコとして注文して造らせた物ではなく、中国大陸から友好の証として贈答されたハンコのように思える。
しかもこのように金色に発色しており、まさに”紀州徳川家のお宝”のようにしか見えない獅子紐印。『開運!なんでも鑑定団』で鑑定してもらいたくなるような逸品だけど、この品は紀州徳川家から和歌山市に贈呈された物らしい。
古代中国では、このような品を友好の証として贈る文化があり、中国4000年で培ってきた精密工芸品はもはや芸術である。台湾を訪れた時に台北の故宮博物館で、古代中国時代からの工芸品を見学したけど、その凄さには同じ人間が作ったとは思えないレベルの代物ばかりだった。
特にこのような狛犬も古代中国文明から伝来してきた物で、主に魔除けの効果があると今でも考えられている。現代の日本全国の神社などを訪れると必ず目にする狛犬だが、それらの存在は海を隔てながらも中国大陸と昔から日本が繋がっていた証でもある。
この和歌山に関する歴史を勉強できる施設としては、ここ「わかやま歴史館」以外に、天守閣内にあった同じ名前の「わかやま歴史館」と、城の南側に造られている「和歌山県立博物館」がある。
大阪人からすれば近いようで意外とその歴史を知らない和歌山だけに、今回の旅ではその和歌山の歴史をじっくり勉強して帰りたいと思った瞬間でもあった。。
和歌山の歴史って、意外と知らない人が多いのだよ・・・
こんな旅はまた次回に続きます!
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