和歌山城の全国的にも珍しいという、連立式天守閣の中を見学していく【和歌山市旅行記⑧】

和歌山市旅行記2021年1月-⑧

旅行期間:2021年1月某日(当日旅)

守りの堅かった回廊!

ここは和歌山市内の高台に造られている、和歌山城の天守閣。和歌山県内でも大阪寄りの紀の川沿いに造られた城からは、このように紀の川やその奥の紀伊水道などを見晴らす事が出来る場所となっていた。

 

 

 

引き続き、天守閣内の見学!

こちらは天守閣に展示されていた色んな物の中でも、赤い朱色で特に目立っていた「緋羅紗陣羽織」という女性用の可能性も考えられる逸品。木下家の”木下日足紋”と、豊臣秀吉の家紋としても有名な”五七桐紋”が刺繍されている。

 

江戸時代に”足守藩(あしもりはん)を治めていた足守藩主:木下家は、豊臣秀吉の正室だった北政所の兄:木下家定から続く家系で、大坂の陣で豊臣家が滅びた後も特別に”豊臣氏”を名乗る事が許されていたという。その為に足守藩:木下家では豊臣家の家紋”五七桐紋”も使用しており、木下家から紀州徳川家の家老だった三浦家に嫁入りの際に、持参した陣羽織だったと考えられているようだ。

 

 

ここで一応大天守内の見学は一旦終了となり、この先に出口があるという表示になっているが、ここから出口まではまだ連立式天守の回廊を通って行かないと出れないようになっている。

 

この連立式天守群には大と小の天守と共に櫓が2軒もあって、その建物間をこのような「多門」と呼ばれた長屋造りの建物が回廊として造られている。そしてこの壁には、和歌山のライオンズクラブが贈呈した”日本名城案内”と称する、全国の有名な城の写真などが飾られている。

 

前回もこの和歌山城の天守閣内を見学した際に、この回廊を歩いた時に名城の写真群を見た記憶があるけど、その反対側に置かれていた、このような展示品は全く見た記憶が残っていなかった。ちなみにこちらは「鳥類図鑑(下絵)」という、江戸時代に狩野派の絵師により、鳥の絵を写生した物の下絵だという。

 

こちらの番付表のような物は、江戸時代に国内に存在した城がその地域を治めていた大名の抱えていた石高数に合わせて、格付けされた表となっていた。横綱の欄はなく大関からとなっており、その大関には”加賀百万石”と言われた加賀藩の金沢城と、幕末のリーダー的存在だった薩摩藩の鹿児島城となっている。

 

まずその名城の写真が並んでいる先頭には、こちらの「首里城本殿」が綺麗に写っているけど、現在の首里城は2019年10月に焼失しており、2026年に本殿復興を目指して復元工事の真っ最中となっている。

 

 

この連立式天守は建物間の移動がしやすいように回廊を設置した訳ではなく、敵がこの本丸まで攻め込んできた時の事を想定して、簡単に天守閣内に侵入させないように最後の砦的な役目の為に造られていた建造物である。しかしこの和歌山城に攻め込んでくる敵は結局来なくて、代わりに日本を攻めてきたアメリカ軍は遥か上空から焼夷弾を落として、簡単に和歌山城を燃やす事に成功している。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

せっかく色んな仕掛けのしてある城だったのに・・・

 

こちらも2016年に発生した大地震の影響で、大きく倒壊してしまった熊本城だけど、これも大地震が起きて倒壊する前に撮影された写真のようだ。なお、2021年の11月末に再び熊本城を訪れた時には、大と小の天守閣は立派な建物に再建されていたけど、全体としては約20年間も掛けて復元工事が行われるという。

 

 

「和歌山市の偉人コーナー」にて

そしてこちらには「和歌山市の偉人・先人」というコーナーが設置されていて、和歌山市出身の偉人が紹介されていた。ちなみにここのコーナーで紹介されていた人物は故人ばかりだったが、和歌山市出身で知っている人というと、侍ジャパンの監督も務めた「小久保裕紀」や、元総務大臣で経済学者でもある「竹中平蔵」ぐらい。

 

まず最初に野村 吉三郎という海軍の軍人で、海軍大将まで上り詰めた後に外務大臣に就任し、太平洋戦争前までは駐アメリカ合衆国:特命全権大使として、日米の開戦を回避する為に奔走していた人物が紹介されていた。しかし真珠湾攻撃が実施されると、米国内に駐在していた野村吉三郎は”針の筵(むしろ)の状態になり、南米を経由して日本に逃避した。

 

敗戦後は同郷出身の松下幸之助に誘われて、松下電器産業の傘下となった日本ビクターの社長に就任し、経営再建に尽力する。そしてその後は参議院議員にも当選し、2期務めて参議院議員会長にも就任した人物でもあった。

 

そしてこちらは外務大臣だった野村吉三郎の大先輩にも当たる、同じく和歌山市出身で外務大臣だった「陸奥 宗光(むつ むねみつ)である。紀州藩の藩士の家に生まれた陸奥宗光だが、父親:伊達千広は紀州藩第10代藩主:徳川治宝(はるとみ)の小姓からその才能を見出されて出世し、重役に取り立てられる。

 

この第10代藩主:徳川治宝は80歳ぐらいまで生きて、藩主隠居後も裏で実権を握っていた為に、当時の藩主の家臣団と隠居した治宝の家臣団との勢力争いが日常的に起きていた。そして治宝が亡くなった後に治宝の家臣団の多くが粛清され、伊達千広は紀州藩から追放されたり、後に捕まって牢屋に監禁されたりした。

 

そしてそれなりに裕福な家庭から一気にドン底生活に突き落とされた陸奥宗光は脱藩し、神戸海軍操練所に入所して勝海舟の下で学んだり、坂本龍馬の海援隊に加わったりと、幕末を代表する偉人と身近な関係から多くの事を学んだ。その後に新政府軍側で働くが、西南戦争の時に政府転覆を狙った一員と疑われて投獄された事もあった。

 

その後、恩赦を受けて出所し、伊藤博文の勧めでヨーロッパ留学を行い、西洋の近代社会システムを本場で学んだ。その後帰国して外務省に登用され、当時問題になっていた”諸外国との不平等条約”を改訂する為に尽力した人物として有名である。

 

なお、この陸奥宗光の墓所跡がかつてボクが務めていた会社があった、大阪市天王寺区夕陽丘町に存在していたのである。しかもこの墓所跡の前にある坂道を何度も通った事があるのだが、陸奥宗光の墓所跡がある事に全く気付なかった。。

それだけアンテナが昔は反応してなかったという事でしょう・・・

 

ちなみにこの陸奥宗光の墓所跡は、かつて紀州藩から追放された父親の伊達千広が暮らしていた場所で、「夕陽丘(夕日岡)」という今の地名はこの父親:伊達千広が名付けたとされているのだ。

朋ちゃん
朋ちゃん

意外と近くに偉人に関連した土地があったりするよね!

 

こちらは和歌山城に来るまでの途中に胸像が設置されていた、和歌山市出身の生物学者でもあった南方 熊楠(みなかた くまぐす)。今のボクがとても訪れたい場所の1つでもある、イギリスの大英博物館に入り浸って書物を読み漁り、多彩な外国語を操って凄い知識を持っていたとされる。

 

なお、今見ている「偉人コーナー」が設置されているのは、連立式天守の中でも下に「楠門」という楠木で造られた門だった場所の上の櫓。なお、この「楠門」は天守閣に出入り口する際にくぐる門で、登城する際にオカンが登城記念のスタンプを押していた場所でもある。また現在の楠門は、天守閣再建時に合わせて木造の門として再建されている。

オカン
オカン

へ~~そうだったんや~~♪

 

そしてこちらの西本幸雄は、近鉄バファローズのファンだったボクからすれば、逆に知ってない人がいない程に思える人物でもある。和歌山市出身の西本幸雄は旧制:立教大学に進学し、野球部に監督が居なかった為に実質的な監督役をしながらプレーしており、それから学徒出陣の要請を受けて太平洋戦争に参加している。

 

戦争後は社会人野球を転々とし、1949年に毎日新聞社を親会社として設立された新球団「毎日オリオンズ」に加入する。そして翌年1950年に2リーグ制になったパ・リーグに参入した西本幸雄の所属する毎日オリオンズは、その年にパリーグ制覇と更に日本シリーズの制覇も成し遂げてしまったのである。

 

そして監督としては毎日オリオンズを経て、1962年に当時は弱小球団だった「阪急ブレーブス」の監督に就任し、5度のリーグ制覇に導く。その後は1974年にこれまた弱小球団だった「近鉄バファローズ」の監督に就任し、1979~1980年に2年連続のリーグ制覇に導いた。しかし、監督時代はパリーグ制覇は成し遂げたものの、1度も日本シリーズで勝てなかった為に”悲運の名将”とも称される事もある。

”江夏の21球”でもお馴染みの日本シリーズの時に近鉄の監督だった人です!

オカン
オカン

野球マニアじゃないと、その”江夏の21球”自体知らないよ・・・

 

こちらで紹介されている人物で、まず左側にあったのが山葉寅楠(やまは とらくす)という人物で、音楽マニアの人であれば知っているかもしれない和歌山市出身の偉人。この山葉寅楠は紀州藩の下級藩士の家に生まれて、小さい頃から機械いじりが好きだったという。

 

大人になってからは医療器具の修理工となり、ある時に浜松にあったアメリカのオルガンを修理した事がキッカケとなり、日本で最初に本格的なオルガンを製造した人物となる。そして興した会社が「山葉楽器製造所」で、その会社が後に”世界一のピアノ生産台数”を誇る「ヤマハ株式会社」となっているのだ。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

ヤマハの社名は「山葉」から来ているんだよ!

オカン
オカン

へぇ~~~♪

 

そして右側にあった古武 彌四郎(こたけ やしろう)という人物は、今の岡山県瀬戸内市に生まれて岡山県出身のようだが、後に和歌山県で和歌山県立医科大学の初代校長などを務めた事もあって、”和歌山市名誉市民”ともなっているので、ここに加えられていたのかもしれない。

 

そして大阪大学医学部を経て、ドイツにあったケーニヒスベルク大学や、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学に留学し、日本に帰国してからは大阪医科大学や大阪帝国大学などの発足にも尽力し、”生化学の先駆者”として日本医学会で尊敬されている人物でもある。

 

そしてこちらの松下 幸之助は、言わずと知れた実業家で日本人には説明不要な程の有名な偉人でもある。ただ「松下電器産業」という会社名を知らない若い世代からすれば、知らない人がいても不思議ではないかもしれないが。

 

ちなみに創業当時は、大阪市福島区大開に本社工場があった事は今回初めて知った。この福島区大開という場所は得意先があった関係で、何度も近くを行き来した場所なのであるが、松下電器産業の創業地という事には全く気付かなかったのである。。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

「灯台下暗し」ってヤツだね!

 

和歌山市出身の偉人の経歴を調べていると、その偉人に関連している土地の近くを意外と行き来していたという事にも気付けて、有意義な3回目の和歌山城訪問となっている。過去2回来た時の自分が、本当に子供のような存在に思えてしまう程に、色んな事にアンテナを張れている人間になってきた事を実感した瞬間でもあった。

オカン
オカン

アンテナばかり張らずに、金稼いでください!(怒)

 

こちらは通路の脇に2階に登る階段が見えたので、せっかくなので2階部分に登ってみる事にした。下に小さく「二の門櫓」とだけ小さく表示があったけど、普通に出口に向かって進んでいると見逃してしまいそうな場所でもあった。

 

ただその「二の門櫓」の2階部分に登ってみると、このように開かない窓があるだけで、広くない部屋の中には何も置かれていなくて、何も無い空間だけしか待ち受けていなかった。だから下に小さい表示しかなかったのは、「上に登っても特に何もありませんよ・・・」というメッセージが暗示されていたのかもしれない。。

 

そして天守閣周りを囲む多門の回廊は、このようにまだまだ続く。入場料大人:410円の和歌山城天守閣だけに、これだけ広い場所を見学できると思うだけで、その値打ちを感じてしまう。

 

 

こちらは江戸時代の和歌山城を上空からの視点で描いた地図みたいだが、紀の川から派生した「和歌川」が城の東側を南に走り、南側にある和歌の浦に合流していた。和歌川の川幅は今よりも太く見えるし、和歌山城の内堀から繋がる水路も、今では埋め立てられてしまって道路などになっている箇所も見受けられる。

 

こちらは和歌山城の北西側にあった「吹上御門」の付近を描いた、昔の絵のコピーが飾られている。藩主が住んでいた二ノ丸御殿に出入りする商人たちは、この「吹上御門」を利用していたという。

 

こちらは市堀川と本町通りが交差する所に架かっている「京橋」のほとりにあった「京橋御門」を描いた絵。三の丸の正面入り口となっていた京橋御門には、かつて立派な石垣と櫓付きの門が構えられていたようだ。また対岸には奥までズラ~~と蔵が並んでいる光景が見られて、和歌山の商業の中心地であった事が伺える。

 

そして京橋御門を通過して真っ直ぐ道を南下して行くと、そこにあったのがこちらの絵にある「大手御門」。この大手御門は二ノ丸の入口にあった橋で、今は大手御門とそこにあった一の橋ともに再建されている。

 

 

こちらは和歌山城の南東側にある、当初は旧大手門として扱われていた「岡口御門」周辺を描いた絵。なお、今回の和歌山城見学では見なかった門だけど、1621年頃に建造されて、太平洋戦争時の和歌山市空襲の際に焼失を免れた、江戸時代の建造物となっている。

勉強不足で、見逃してしまいました・・・

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

ワシの時代から、現存する歴史的な門だぞ!

 

 

こちらは和歌山城の西側にあった「追廻(おいまわし)門」で、その内側にあった砂の丸には乗馬の鍛錬所があって、この名前が付けられているという。そしてこの追廻門も1629年頃に造られた門で、「岡口御門」と同じく和歌山市空襲で焼失を免れた江戸時代の建築物として現存している。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

ちなみにこの門の内側が『砂の丸』と呼ばれていたのは、かつてこの地に砂丘があったからじゃ!

 

 

こちらは和歌山城の南側にある「三年坂通り」と呼ばれる坂道の場所だが、かつてはここに砂丘があったとされている。その三年坂通り沿いには、高さ14mにもなる高い石垣が造られており、守りが弱かった南側の弱点を解消する為に設置されているという。

オカン
オカン

NHKの『ブラタモリ』で放送してたな!

 

 

この連立式天守の回廊を歩いていると、その窓からはこれから天守閣の見学に向かう人の姿が見える。ちょっとお歳を召した夫婦のような人達が歩いていたけど、この人達も周りに観光客が全然居ないので、貸し切り気分のように見学を楽しんでいる様子が見られた。

 

こちらには和歌山の名産品を売る商売人の姿が描かれているが、和歌山では捕鯨漁も昔から有名で、和歌山県の南側にある太地町は”日本の古式捕鯨発祥の地”とも言われている。

 

落合博満野球記念館|太地町観光協会(和歌山県)

ちなみにそんな和歌山県東牟婁郡太地町には、あの三冠王に3度も輝いた元プロ野球選手:落合博満「落合博満野球記念館」が造られている。落合博満というと”なまはげ”でも有名な秋田県男鹿市出身であるが、シーズンオフのトレーニング場所として、風光明媚な立地が気に入って土地を購入し、個人的なトレーニング施設と私設記念館などを作ったという。

 

ただこの記念館は私設記念館という事もあって、入場料は大人2,000円程もする”それなりの値段”になっている。しかしトレーニング施設は別荘としても本人が使っている事もあって、落合博満が滞在している時は記念館で気軽に対応してくれたりしていたそうだ。

ただ2020年より改装の為に閉館となっていて、今年2022年にはリニューアルオープンをする予定だというが。

 

そんなこんなで、まだこの回廊には色んな資料が展示されていて、既に甘く見ていた和歌山市の歴史に圧倒されているボクだったけど、オカンは涼しい顔して見学を続ける姿が見える。。

オカン
オカン

あまり深く考えない方が楽だよ~♪

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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2021年1月に訪れた和歌山市内旅の旅行記。JR和歌山駅に降り立ち、城下町だった堀などを見ながら和歌山城を目指します。
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