西の丸にある「わかやま歴史館」で、雑賀衆や紀州徳川家の歴史を学ぶ【和歌山市旅行記⑪】

和歌山市旅行記2021年1月-⑪

旅行期間:2021年1月某日(当日旅)

和歌山の歴史!

ここは和歌山城の西の丸跡があった場所近くに造られている「わかやま歴史館」で、2015年に開館した建物。そんな建物の2階に設置されている歴史館内で、まだまだ和歌山の歴史を学んでいきたいと思います。

 

 

 

「わかやま歴史館」の見学!

室町時代の和歌山では雑賀衆(さいかしゅう)と呼ばれた傭兵集団が存在していた。和歌山では高野山を本拠とする真言宗の根来衆が一大勢力を築いていたが、それに次ぐ大きな勢力として紀の川沿いで幅を利かせていた。そして種子島に鉄砲が伝来した翌年に、津田監物がその火縄銃一丁を和歌山に持ち込み、鉄砲先進国となった和歌山の地。

 

大阪の地で「石山本願寺」を築いて治めていた本願寺に織田信長が攻め込み、本願寺側に傭兵として加わっていた雑賀衆と激戦を行う。しかし最終的には織田信長の軍勢が優勢になり、敗北を見越した雑賀衆は織田信長と和睦し、本願寺顕如は雑賀衆を頼って和歌山の地に逃げ延びる。

 

そして織田信長亡き後に天下人となる羽柴秀吉によって、その和歌山が攻め落とされる。そして江戸時代には当初浅野家が紀州藩を治めていたが、中国地方に移封となった為に徳川家康の10男だった徳川頼宣が入城する事になる。それ以降は主に紀州徳川家の歴史が続いていく事になる。

 

そんな”紀州徳川家”の藩主の中でも特に有名なのが、紀州藩第5代藩主から江戸幕府:第8代征夷大将軍となった「徳川 吉宗(よしむね)である。世間での徳川吉宗の知名度は、時代劇ドラマの『暴れん坊将軍』の影響が大きいけど、実際には大きな改革を行った優れたリーダーでもあったようだ。

 

徳川吉宗は”徳川家康のひ孫”にあたる存在だが、幼くして亡くなった兄を除いて2人の兄が居る環境に生まれた事もあって、当初は紀州徳川家の跡取りとは考えられていなかった。紀州藩の家督は長男の徳川綱教(つなのり)が継いだが、約7年で死去し、その後を継いだ次男が同年に急死し、徳川吉宗に白羽の矢が立ったのである。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

人生、何が起こるか、分からんね!

 

徳川吉宗は江戸幕府将軍となった為に、彼の子孫は江戸幕府側の家系となり、紀州徳川家は伊予西条藩:第2代藩主で吉宗の従弟にあたる「徳川 宗直(むねなお)が家督を継ぐ事となった。そして1846年には天守閣周辺の建物が、落雷により全て焼失してしまう。

 

その落雷による焼失後の1850年に再建された和歌山城天守閣は、第二次世界大戦での空襲で再び焼失してしまう。そして戦後の1958年に3代目の和歌山城天守閣が、鉄筋コンクリート造りにて再建されて今日に至る。

 

「雑賀衆」は、戦国時代にいち早く鉄砲を導入した最新鋭の武器を持った武装軍団でもあった。津田監物(津田算長とも)は根来寺僧兵を率いていた人物で、種子島に伝来した鉄砲という新兵器に素早く飛びついた。それにより和歌山の地は鉄砲生産で大きく発展する事となり、また最新鋭の鉄砲を大量に所持していた事もあり、国内では恐れられる存在となった。

 

 

高野山の僧兵集団でもあった根来衆とは違って、雑賀衆は主に傭兵集団で関西周辺の大名に加勢していた勢力だった。なので三好家や本願寺などに雇われ、関西では武勲を誇った事もあって、有名な傭兵集団だったとされる。

 

そして鉄砲の量産が行われると、次はその鉄砲の打ち方を覚える必要がある。この時代の鉄砲は火薬を詰めてから火縄式で発砲する鉄砲だったので、砲身の掃除や火薬を詰める塩梅などで個人差が出て、同じ鉄砲でも均等に銃弾が飛ばない代物でもあった。

 

雑賀衆は「雑賀5組」と呼ばれた、雑賀荘・十ヶ郷・中郷・南郷・宮郷の地域から成り立つ集団勢力だった。なのでその雑賀5組の代表者が定期的に打ち合わせを行って、何をするかを決めていたという。

 

こちらは西の丸跡に架けられていて、さっき渡った屋根付きの「御橋廊下」の図面が展示されている。遠くから描写した風景画を参考に復元した廊下ではなく、このようにしっかりと描かれていた図面が存在していたようだ。

 

 

今見られる「御橋廊下」は2006年頃に復元されているが、その復元の際に参考にしたのがこの図面だったようだ。江戸時代に造られた橋でも、これだけ精密な設計図が描かれていたとはあまり知られていない。もっと適当に建造物を造っていたイメージがあるけど、その当時の建物を見れば分かるように現代以上に精工に設計されていた。

 

御橋廊下の幅は約3mとなっていて、藩主とその御供という限られた人数しか通行できなかった橋という事もあって、それだけの狭さでも充分だったようだ。個人的には屋根付き廊下ではなく、普通の橋でも良かったように思うけど、この当時の隠居人がそれだけ権力があった事を伺わせる建築物でもある。

 

ここ和歌山城は戦国時代に「太田城」を居城にした太田左近が支配する場所だったが、羽柴秀吉の侵攻を受け、紀の川を関止めて流れを変えた水攻めにより、攻城されて滅亡してしまう。その後に羽柴秀長がやって来て突貫工事で和歌山城を築き、江戸時代に紀州藩主となった浅野家がその和歌山城を大きく改修した。

 

こちらの書状は徳川家康の支配する江戸幕府が成立した後、ここ紀州藩の藩主に就任した浅野幸長が日高郡の百姓あてに年貢の納め方などを指示した文章となっている。このような歴史館で見られる史料などは、大概が大名クラスの物ばかりだが、庶民や農民は当時は最下級の扱いだったので、時の政権に振り回されるしか選択肢はなかった事だろう。。

 

 

徳川家は徳川家康を祖として、

①江戸幕府の将軍職を継いだ「徳川宗家」
②徳川家康の九男:徳川義直を祖とする「尾張徳川家」※御三家
③徳川家康の十男:徳川頼宣を祖とする「紀州徳川家」※御三家
④徳川家康の末男:徳川頼房を祖とする「水戸徳川家」※御三家
⑤徳川吉宗の四男:徳川宗尹を祖とする「一橋徳川家」※御三卿
⑥徳川吉宗の次男:徳川宗武を祖とする「田安徳川家」※御三卿
⑦徳川家重の次男:徳川重好を祖とする「清水徳川家」※御三卿
⑧徳川慶喜の九男:徳川誠を祖とする「徳川誠家」

に大きく分類されている。ここからまた分家となっている家柄もあり、これ以外にも派生した家柄もあったが絶家している。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

ワシの血筋が、ちゃんと生き残っておるな!

 

こちらは「御天守御絵図」という、大天守の外装デザインを検討する為に3パターン描かれた図である。このように昔から天守閣の建物を検討する際には、そのイメージが湧くように絵が描かれて、それを参考に判断していたようだ。なお浅野家時代に造られた天守閣は元々は黒板が張られた黒い城だったが、1789年に改修されて今見られる白い壁の城に生まれ変わったという。

 

徳川家康の十男だった徳川頼宣がこの和歌山の地に送られ、「紀州徳川家」が誕生する。浅野家時代に立派な城が造られていたにも関わらず、江戸幕府からの資金援助を受けて、更に城を拡張し大きくさせた。その背景には、関西地方で西側諸国が万が一反旗を翻した際の最前線地となる事を見越していたようだ。

 

しかし徳川頼宣が行った大規模な和歌山城改修は、資金援助した江戸幕府が謀反の可能性を感じ取って本気で警戒する程だったとも言われている。昔は実子でも平気で父親を投獄したり、暗殺したりしていた時代だったので、徳川家康も可愛い実子の徳川頼宣と言えども警戒の対象にしていた事だろう。

 

こちらの瓦は「違鷹羽紋:滴水瓦」という、和歌山城を大きく改修した浅野家の家紋『違い鷹の羽紋』が入った物。また「滴水瓦」とは”瓦当面(がとうめん)※軒に面する部分 が逆三角形となっていて、雨水が滴り落ちる様子から名付けられている。この「滴水瓦」は朝鮮半島で使われていた瓦で、秀吉の朝鮮半島侵略時に現地の職人を連れ帰った事により、日本でも普及したという。

 

 

こちらは昔の絵図で、和歌山城の城下町が形成されている様子が描かれている。城下町も江戸時代初期の浅野家時代から、その後の紀州徳川家が治める時代で、大きく発展していった。

 

今のこの地に和歌山城天守閣が造られたのは、単なる高台だったからではなく、近くを流れる紀の川流域の海運や港を監視する為であった。関西地方では淀川と共に物流の要だった紀の川は、常に江戸幕府の監視下に置かれるようになった。それもあってか、幕末に倒幕を主導した藩に西側諸国が多かったのは、幕府の監視が行き届かない場所だったからなのかもしれない。

 

秀吉が制圧した後に築城された和歌山城では、当初は東側に延びる熊野街道との交流をメインに城下町が形成された。その後に移封されてきた浅野家時代に城が北側に拡張され、その北側にも城下町が発展していった。そして紀州徳川家の時代になって、城の南側も開発され、武家屋敷や寺町などが整備されて、段々と城下町が拡がっていったという。

 

こちらは「和歌山御城内惣御絵図」という、紀州藩で建築を任されていた作事奉行(さくじぶぎょう)が作成した物。この絵は1790~1800年頃に製作されたもので、改築などがあれば、新しい箇所を上から貼っていくという訂正の仕方が行われていたという。

 

城という建造物も一気に造られる物ではなく、また時代が100年も過ぎると老朽化したり、その時代によって生活様式などに変化があって取り壊されたりもしていた。それと共に江戸時代に多かったのは火災による焼失で、当時は木造建築物だらけだったので、特に燃えやすかった事だろう。

 

城の構造も普段はこのように上空からその形をあまり目にする機会がないだけに、このような絵でその構造を縦に見てみると、攻めにくい構造を徹底して採用していた事が少し分かる。ただ攻めにくいという事は、普段からその城を利用している人間も使いずらいという事でもあり、その為に普段の藩政は天守閣ではなく、下の平地に造られた御殿で行われていたようだが。

 

こちらの戸は「杉戸」という、廊下の通路部分を仕切る為の物。そしてその杉戸には狩野派の絵師が描いたという『諫鼓鶏(かんこどり)が見られる。「かんこどり」という名前を聞くと、商売している店に全然お客が来ない時に言われる「閑古鳥」をイメージしてしまうけど、この「諫鼓鶏」はそれとは別の鳥の事である。

 

この「諫鼓鶏」は青森県弘前市で見た山車がその題材をモチーフにして制作されていたけど、「諫鼓鶏」という鶏の種類ではなく、「諫鼓(太鼓)」の上に乗っている鶏という意味なのである。この話は中国の故事を由来にしており、その地域を治める人物の政治内容に不満があれば、街中に設置した太鼓を鳴らすというシステムがあった。

そして「諫鼓(太鼓)」の上に鶏が乗っているという事は、その太鼓が全然鳴らされないから、鶏は驚いて逃げる事もなく、その場に居続けているという捉え方となっている。だからこの「諫鼓鶏」は庶民から不満が出ずに、上手く政治を行えているという意味合いで使われてきたという。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

もしくは恐怖政治をしているか? の可能性もあるが・・・

 

このように日本には古来中国の故事が全国に伝わっていて、中国文明の影響を大きく受けていた事が理解できる。また朝鮮半島から焼き物の職人などを連れ帰った事により、朝鮮半島の文明にも大きく影響を受けている。周囲を海で隔たれた日本列島だけど、このように外国の優れた文化を吸収して存続してきた日本という事も理解できるのであった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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