弘前ねぷたで使われる山車が無料で見学できる「山車展示館」を見学!【東北旅行記㉗】

東北旅行記2020年冬-㉗:青森編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Visit the “Float Exhibition Hall” where you can see the floats used in the Hirosaki Neputa for free! [Tohoku Travelogue 27])

弘前のねぷた!

青森県弘前市の弘前城の近くに「追手門広場」という、かつて追手門が存在していた場所があり、そこには先程見学した旧東奥義塾外人教師館や旧弘前市立図書館など明治時代に建造された歴史ある建物が建っているエリアとなっている。

 

 

弘前市立:山車展示館を見学!

そんな場所にはこちらの「弘前市立:山車展示館」があったので、ついでに寄り道してみる事にした。青森県では「ねぶた(ねぷた)」という夏場に行われる祭が有名だけど、青森に来てみるとそのねぶた祭も地域によって特色が違っており、ここ弘前市では『弘前ねぷた』が有名だそうだ。

 

 

入口には、このように大きく「無料」と書かれた文字が見えている。もしこの施設が有料だったら恐らくスルーしていただろうけど、無料の展示館には自然と足が吸い込まれるかのように入ってしまうのである。

青森ンゴ
青森ンゴ

無料ほど、高くついたりして?!

 

ここ弘前で行われている『弘前ねぷた』では、このような人型の山車が多く、またそれ以外にも扇形の山車もあるがメインはこの人型の山車のようだ。なお最近の弘前ねぷたでは80前後の団体がそれぞれに山車を曳いており、青森県内のねぷた祭としては出動する山車の数が最も多いようだ。

またこちらは和徳町の「米山」という山車で、”桜井の駅の別れ”として有名な楠木正成・正行父子が訣別するシーンを再現した物。このシーンは昔の教科書に載っていた物らしく、戦前教育を受けた人ならほぼ知っている程に有名な場面のようだ。

 

その横には『津軽剛情張大太鼓』という、直径4m近い大きな太鼓が置かれている。こちらの太鼓には「剛情張(ごうじょっぱり)という名前が付けられていて、そのエピソードは江戸時代に遡るという。

 

その太鼓は弘前藩3代藩主:津軽信義の時代の、大の負けず嫌いだった藩主のエピソードだったようだ。こちらの説明を見ると、ある年に江戸城に参府した所、百万石を誇る大外様大名の加賀藩が大きな太鼓を自慢していた。それに触発された津軽信義は「こんな太鼓は津軽では子供が使う物で、津軽にはもっと大きな太鼓がある!」という風に言い切ったそうだ。

 

剛情張りな親分を持つといつも苦労するのはその配下の者で、雪解けが近づくと津軽信義は直ぐに馬を走らせて津軽に使者を送って、加賀藩に負けない程の大きな太鼓を早急に作るように指示した。そしてその無理難題を家臣が何とか対応し、その後に検地にやって来た加賀藩の人間が驚く程の大きな太鼓を製作したという。

 

次に見えてきた大根のような山車は茂森町の「大根山」で、ねぷたに使われる山車には過去の歴史の名場面などが用いられるのが多い中で、大根という野菜が用いられているので一段と目を惹く山車となっていた。

 

この茂森町は津軽藩の御用八百屋の荒谷家があって、そこが津軽藩の野菜を一手に引き受けていた為に、当時の藩主から「お前の所は、大根にセヨ!」との号令がかかって大根の山車になったとか。。

 

この青森県に来てから五所川原市の立佞武多を先に見ていただけに、その大きかった立佞武多と比べると、この弘前ねぷたで使われている山車が小さく思えてしまう。しかし、それは弘前ねぷたの山車が小さい訳ではなくて、立佞武多の方が大きいだけなのであるが。。

 

 

山車展示館の景色! 動画

 

 

 

こちらは東長町の「布袋山」という山車で、今から1100年程前に中国で実在したと考えられている布袋和尚をモデルにした物。日本では「布袋様」で七福神の神様の1人として有名な人物であるが、中国大陸から鎌倉時代にこの布袋様の話が伝わったと考えられている。

 

こちらで相撲を取っているのは、日本で七福神に数えられている「大黒天」「寿老人」。国内で”財福の神様”とされている大黒天と、”長寿の神様”とされている寿老人の相撲には「最終的には両者ともに倒れる・・・」という皮肉が籠められているとか。

 

基本的に日本各地で行われている祭は五穀豊穣を神様に祈る行為として行われてきたので、最もその様子を表している山車がこの米俵が積み重なった物だろう。ただここ弘前では明治~昭和前半時代には、”喧嘩ねぷた”と呼ばれて違う町会の山車と出会ったら喧嘩を仕掛けて、時によっては死人まで出る程の危険な祭となっていたようだ。

ネプちゃん
ネプちゃん

血の気が多いヤツが集まるから、祭りは危ないだべ!

 

こちらは土手町の山車「猩々山(しょうじょうやま)で、昔の中国での逸話を基にした造りとなっている。昔の中国:揚子の里に「高風」という人物が居て、ある日に見た夢の中で街に出てお酒を売れば高貴な人間になるだろうというお告げがあった。それを信じた高風は町に出てお酒を売って夢の通りに高貴な人間になっていったが、ある日海中から現れた猩々が顔色を変えずにお酒を次々と飲み干し、最後に飲めども味の変わらない酒壺を置いて海に戻って行ったという。

 

こちらは鍛冶町の「道成寺山」という山車で、和歌山県にある道成寺に伝わる逸話『安珍清姫伝説』がモデルとなっている。この逸話は平安時代に東北地方から和歌山県の熊野に修行にやって来た修行僧:安珍が、紀州真砂庄(現:和歌山県田辺市)に住む清姫という娘に気に入られた事から始まる。

 

修行僧:安珍は熊野に向かう途中の宿で出会った清姫に、「また戻ってくるから、続きはその時で!」と言って去った。しかし約束した日に清姫の元に安珍は現れず、清姫は安珍を探しに行ったものの、裏切られたと思い激高する。そんな清姫から逃げるように道成寺に潜り込んだ安珍は鐘の中に身を潜めたが、何故か怒りで大蛇に身を変えたという清姫によって最終的に焼き殺されてしまったという。。

青森ンゴ
青森ンゴ

話は大きい方が面白いネ!

ハゲる前君
ハゲる前君

能や歌舞伎で人気な話は、かなり脚色されてるゾ!

 

こちらは「三條小鍛冶宗近」という、平安時代の名刀工で京鍛冶と呼ばれる刀鍛冶界の伝説的人物で、その逸話が謡曲『小鍛冶』としてよく能などで演じられてきたようだ。東京国立博物館所蔵の『三日月宗近』という名刀は、徳川家伝来の国宝となってこの三條宗近が製作した刀だとされているようだ。

 

こちらは2012年に行われた「青森ねぶた祭」の際に合わせて作られた、『羅漢』という五百羅漢をイメージした物のようだ。五百羅漢とは仏陀の弟子だった人達の事だけど、仏教徒の優しい顔をいうと、なかなかに鋭い顔つきをしているように見える。

 

 

こちらも一緒に作られた羅漢だけど、こっちの方がもっとイカつい顔に見える。五所川原市で見た立佞武多の顔もそうだったけど、祭りの際には周囲を圧倒する程の雰囲気を持った顔つきの方が喜ばれるから、このようなイカつい顔だったのかもしれない。

 

こちらは本町の『諫鼓鶏(かんこどり)という、太鼓の上に鶏が乗っている山車が見られる。この太鼓は「諫鼓」と呼ばれる、昔の中国で君主に諫言(カンゲン/忠告する事)する際に叩くという使われ方をしていたという。またこの鶏はその鳴き声で君主に善政を促すと考えられていた。その諫鼓の上に鶏が乗っているという事で、君主が善政を行い、それで太鼓が叩かれないので鶏は逃げないという意味合いが籠められている逸話をモデルにした物。

 

こちらは本町の「黄石公張良山」という山車で、こちらも古代中国で後に軍師として活躍する事になる「張良」が修行中にとある夢を見た事から話が始まる。その張良が夢の中で馬に乗った老人と出会い、その老人が落とした靴を拾って履かせると、その老人から「お主、五日後にまたここに来なさい!」と告げられたという。

 

そして張良は五日後にその場所を訪れたが、約束の時間を遅れてしまっていた為に待っていた老人は怒ってしまった。しかしその老人はもう一度チャンスを与えて、再び五日後に再訪するように伝えた。それから次の五日後に遅れずに向かった張良に対して老人は自分の靴を川に投げ込んで、その靴を取って来るように指示した。

 

張良は一瞬躊躇したものの、川に飛び込んで靴を取りに向かう。するとその靴の手前に急に大蛇が現れた。しかし張良は冷静に刀を抜き立ち向かう。すると大蛇はその刀から発せられた光に驚いて逃げてしまい、無事靴を取り戻して老人に履かせた。その褒美として老人は張良に兵法の奥義を伝授し、さっき邪魔した大蛇は実は神様の化身で今後は張良の守護神になると告げた・・・という話らしい。。

 

弘前のねぷたは弘前八幡宮でのお祭りとして江戸時代から行われてきたもので、こちらには昔の弘前ねぷたの様子が描かれた長~~~い絵が飾られている。この絵をパッと見るだけで、ねぷた行列がどれだけ長かったかというのが分かる。

 

先程見学した山車などは現在の物というよりは、この江戸時代の頃より使われていた山車を再現しているようで、この巻物の絵にも見てきた「諫鼓鶏」の山車が曳かれているのが見える。それだけ古代中国からの逸話が、日本国内に浸透していたという事が理解できる山車でもあった。

 

津軽弘前藩が関わる祭だったので山車が城内まで入る事もあったが、大き過ぎる山車は城門を通過できなかったので、大きい山車は城内で組み立てられたりしていたという。また不作の年には無駄な経費を浪費しないようにと祭が中止されていたらしいが、本来は五穀豊穣を祈る為に行っていた祭なので不作の時ほどにする必要性があったのかもしれない。

 

ここに展示されている山車の内容は現代人にはあまり馴染みが無いストーリーの物ばかりなので、伝統を伝える弘前のお祭りという意味でいいと思うが、今どきの観光客にとても人気が出るというねぷたにも思えない。観光客を集めるのであれば現代人が周知する人気のストーリのねぷたなども製作していく必要がありそうに思う。

 

こちらは「猩々山」の山車に関連して使われていた「猩々面』で、文政8年(1825年)に造られた物のようだ。今から約200年前に造られた仮面だが、人間の笑う顔は昔からあまり変わっていないのが分かるような気がする。

 

「猩々山」で使われていた衣装とお面で、そのお面の裏側に「享保」(江戸時代の1716~1736年)との銘文が入っている品。これらを見ていると、昔から伝統を守り繋いできた弘前の我慢強さというのを感じる様な気がした。

 

ここ青森に来るまでは全く気にした事がなかったねぷただけど、江戸時代からの青森らしい伝統をそれぞれの町が守り続けている誇りの集大成のように感じた。今回は12月に訪れたのでその祭の様子は見れなかったけど、是非暖かい時期に青森を再訪してねぷたが実際に街中を練り歩く姿を見たいと強く思った瞬間でもあった。。

ネプちゃん
ネプちゃん

一生に一度はねぷた祭を、見た方がいいべさ!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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