弘前の「旧第五十九銀行本館」は、明治維新後の紙幣の歴史が学べる記念館【東北旅行記㉔】

東北旅行記2020年冬-㉔:青森編

 旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(The “Former 59th Bank Main Building” in Hirosaki is a memorial museum where visitors can learn about the history of paper money after the Meiji Restoration. [Tohoku Travelogue 24])

紙幣はその国の歴史!

前回に引き続き、こちらの建物「旧第五十九銀行本店本館」という、明治37年(1904年)に造られてそのまま現存している歴史ある建物で、現在は青森銀行の記念館となっている場所を見学していきます。

 

【旧第五十九銀行本店本館】

住所:青森県弘前市大字元長町26番地
営業時間:9時30分~16時30分頃(※定休日:火曜日)
電話番号:0172-36-6350
入館料:高校生以上200円/小中学生100円

 

 

 

「旧第五十九銀行本店本館」の見学!

前回のブログでは「兌換紙幣」という金本位制度に基づく一定の金貨と交換できる紙幣と、「不換紙幣」という金貨に交換できずにその発行元(国など)の信用に基づく紙幣を勉強した。世界の紙幣は兌換紙幣の金本位制度から、管理通貨制度の不換紙幣へと移行していったが、その不換紙幣のデメリットはこちらにもあるように”インフレ”である。

兌換紙幣では金貨と交換できる保証があったが、不換紙幣には発行元の信用しかない為にその国が戦争で負けたりして世界的に信用が無くなると、その国が発行していた紙幣は世界的に価値が無くなり紙屑と化してしまうのだ。

 

第一次世界大戦で敗北したドイツではハイパーインフレが起こり、今まで買えていた食糧などが10,000倍もする程になってしまった。このような事は金貨と交換できる兌換紙幣では起こり得ない事であるが、金本位制度だと国が保有する金の量以上に紙幣を発行できない。だから国がそれ以上に紙幣を発行する為に不換紙幣に切り替えた訳だが、それで割りを食うのはいつも末端の市民である。

ハゲる前君
ハゲる前君

いざとなったら国の保証なんて、アテにはならないゾ!

 

こちらの紙幣は日中戦争時に占領地の中国で駐留する日本軍の、物資調達や支払いのために政府によって発行された擬似紙幣だった「日華事変:軍用手票」という紙幣。この紙幣は発行元の大日本帝国軍が敗北してしまうと紙くずになってしまう紙幣で、日露戦争時にも発行された「日露戦争軍票」などもあったそうだ。

 

 

それ以外にも大日本帝国軍は東南アジア諸国まで支配下に治めていた為に、このようにビルマ(現在のミャンマー)やフィリピンでも同様に軍用手票を発行して使っていたようだ。昔は戦争で占領した現地から物資などを強奪していたが、近代化してきた世界ではそんな野蛮な事を続けていると評判が落ちるので、その対策として軍用手票が用いられたそうだ。

 

なお大日本帝国軍は第二次世界大戦で敗北してしまった為に海外で発行されてきた、これらの軍用手票は全て紙くずとなってしまった。また日本を占領した連合国がこの軍用手票の支払いを免除した為に、東南アジアの現地民や戦地から引き揚げてきた兵士などは無一文となる者が多く苦しんだという。

 

こちらは聖徳太子の肖像画が入っている、1944年に発行された「不換紙幣100円札」である。なお、現在の日本に流通する日本銀行券のお札も不換紙幣なので、万が一日本政府が破綻したり、世界的な信用が無くなった時には紙くずになってしまう可能性がある。

 

日本人は特に貯金を好む民族性があるらしいけど、日本円で銀行に預けていても世界的に日本円の価値が下がってくると、預けたお金の金額は減っていなくても実質的な貨幣価値としては損している事になる。

 

ドル円チャート(2022.3.18時点)

ドル円チャート(2022.3.18時点)

なおこちらのグラフはドル/円のチャートであるが、このように1年間を通じて円安が続いてきており、1年前までは110円/ドルほどだったのが、2022年3月18日現在では119円/ドルにまで変動している。これを見れば分かるように日本円でお金を保管していても円安が続くと、それだけ実質的な価値を失っているのと同じなのである。

ハゲる前君
ハゲる前君

世界的な視野で資産価値を判断しないと、日本と一緒に沈没するゾ!

 

戦争中の日本も元々豊富な資源が採れる産出国ではなかっただけに、戦争が長引けばそれだけ金銭的に不利な状態に陥っていく。小さなアジアの小国が開国して急速な近代化を推進して、近代化の遅れていた周辺国を占領する事が出来たが、連戦連勝を続けた事によってレールを進む事しか選択できなくなってしまった。その為にキリのいい所で辞めておけば利益もあった事だろうが、最後の最後まで行ってしまった為に全ての利益を吐き出して壊滅してしまうのである。。

まるで株などの欲張った資産運用の世界と似てますね!

 

こちらには過去に紙幣の肖像画に採用された人物の写真が見られる。なお、この写真の人物の中で、その人物が印刷された紙幣を多く見た事のある人ほどに、それなりに高齢だという証にもなるのだろう。

オカン
オカン

やかましいわ!!(怒)

 

 

現在の流通する日本銀行券の紙幣に印刷されている肖像画の人物は、主に明治時代以降の偉人ばかりであるが、昔は聖徳太子や和気清麻呂などの遠い昔の歴史的な人物のデザインが使われている時代もあった。

 

今までに色んな紙幣が発行されてきたが、その中でも日本の紙幣で一番採用された人物がこちらの「聖徳太子」だった。奈良時代の聖人君子だった聖徳太子は、過去に7回もその肖像画が使われた人物で、それだけ潔癖で真面目な性格が信用力の欲しい紙幣のデザインとマッチしたのだろう。

 

こちらは戦後の1950年代前半に発行された、今ではあまりに見る機会がない「高橋是清50円札」(上)と、「板垣退助100円札」(下)。ボクの世代を含めてこの「高橋是清50円札」と「板垣退助100円札」を見る機会って殆ど無いと思うが、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの遺品の中でよく出て来る事があるそうだけど、紙幣の発行量が多いのでそこまで価値が付かないそうだが。。

 

 

こちらの上に置かれているのは1951年に発行が開始された「岩倉具視:旧500円札で、下にあるのは1969年に発行が開始された「岩倉具視:新500円札。今の500円は硬貨だけだと思っているけど、逆に昔は硬貨ではなく、このような500円札が発行されていた。そして意外にも「岩倉具視:新500円札」は1994年まで発行されていたという。

 

日本も戦後に発行された紙幣や貨幣は、偽造防止の技術などの発展もあって定期的に刷新されている。なお次は2024年に1万円のデザインが渋沢栄一となり、5千円札は津田塾大学を創設した女性の津田梅子で、1千円札は細菌学の権威でペスト菌などを発見した北里柴三郎の予定となっている。

 

 

こちらには1963年に発行が開始された「伊藤博文1000円札」と、ボクらの世代だと少し懐かしさを感じる1984年に発行が開始された「夏目漱石1000円札」が見える。確かにこのような昔の紙幣のデザインを知っているという事は、それだけの年月を経て日本に生きてきたという事を表している。

オカン
オカン

だから、やかましいわ~~!(怒)

 

こちらは1957年に発行が開始された「聖徳太子5000円札」と、1984年に発行が開始された「新渡戸稲造5000円札」。この新渡戸稲造5000円札はボクらの世代の人間からすればお馴染みのお札であったが、新渡戸稲造という人物が何を成し遂げた偉人だったのかは意外と知られていないのであった・・・。

 

こちらは1958年に発行が開始された「聖徳太子10000円札」と、1984年に発行が開始された「福沢諭吉10000円札」。この「福沢諭吉10000円札」は未だに発行され続けて普通に目にする1万円札だが、ここに展示されている福沢諭吉1万円札は一世代前のデザインで、今国内で発行されているデザインは2004年から発行されている物である。

 

なお、ここで見てきた戦後に発行された紙幣は現在も使えるお札となっているが、一般的にはあまり市場に流通していないので、まずお釣りなどをもらう時に目にする事が出来ない。ただ今から20年以上昔の大学生時代に釣具屋さんでバイトをしていた時に、この聖徳太子の1万円札を出したお客さんが居たけど、その時に見た事の無い紙幣を渡されて戸惑った記憶が薄っすらと残っている。

 

こちらは現状ほぼ沖縄県限定紙幣と化した存在となっている、2000年に発行が開始された紙幣「2000円札」である。この2000円札が発行された当時はよく手にしたお札だけど、今まで流通が無かった2000円札という中途半端な金額のお札は日本人の多くに受け入れられなかった。しかし、未だに沖縄県では普通に流通しているらしいが、この旅の約一か月前に訪れた沖縄県旅ではこの2000円札を見かける機会が無かったが。。

 

 

こちらのシンボルマークのようなオブジェは、青森銀行の前身である「旧第五十九銀行」の青森支店の建物内に同銀行のシンボルマークとして装着されていた物だそうだ。なお、旧第五十九銀行の青森支店の建物を設計した人物:堀江幸治氏は、この「旧第五十九銀行本店本館」などを設計した名匠:堀江佐吉の七男だそうだ。

 

なお昭和6年(1931年)に青森市内に第五十九銀行:青森支店として堀江幸治氏の設計で建てられた建造物は、戦争時の空襲の際に焼失を免れて残り、現在は「青森県立郷土館」となって資料館として今なお人々から愛される建物となっているようだ。

 

 

東洋の貨幣の始まりは中国大陸から派生したと考えられており、昔は貝殻が貨幣代わりに使われていたという。だからそれもあって「買」「購」「財」などお金に関連する漢字には、「貝」が含まれている事が多いのである。

 

そしてその貝が通貨代わりに使用されていた時代から、銅や鉄などの製法がシルクロードを伝わって中国に入っていくと、それを活用した古銭が使われていく事になる。そして昔の日本では自国内で古銭を作る技術が無かったのもあって、中国から渡ってきた古銭がそのまま日本国内でも流通している時代があった。

 

こちらはそんな中国から伝わってきた貨幣を参考に、日本で初めて造られた貨幣「和同開珎」である。このような貨幣という物が誕生した事により、それまでは物々交換が行われて不憫な商売だったのが、便利に取引できるようになったのである。

 

それ以降も日本国内ではこのように色んな種類の貨幣が造られていったが、いつの時代も同じような考えの人間がいるようで、どの時代にも貨幣などを偽造する人間が存在していたようだ。

 

そして江戸時代の貨幣を代表する、大判・小判も展示されている(※展示品はレプリカ)。この大判小判もその時代によって色んな移り変わりがあり、材質からデザインまで異なる物となっている。

 

こちらは江戸時代初期の慶長6年(1601年)に発行された事から、「慶長大判/小判」という名前が付いている。右側の大判の表面には「拾両後藤」と墨で書かれた文字(花押/今で言う署名)が見えるが、この文字は”後藤四郎兵衛家”という室町時代から代々御用達の彫金を家業としてきた家系でも認定された特別な人間にしか書く事が許されていなかったそうだ。

この大判はあまり市場に一般的に出回る物ではなかったが、もしこの墨で書かれた文字が消えてしまった場合は、後藤四郎兵衛家に持ち込んで再び墨で書いてもらう必要があったとか。

 

こちらは天保9年(1838年)に発行された「天保大判」で、その天保大判が発行されるまで流通していた享保大判金と似たデザインだが、22年間に渡って発行された枚数は1800枚前後と少なく希少性があり、現在の価値にして1枚500万円~1000万円ほどで取引されているという。

 

 

そんな夢のある黄金の大判小判を見た後だと、こちらに展示されている硬貨がみすぼらしい硬貨にしか見えない。。

「鳳凰:旧100円銀貨」は銀が多く含まれる銀貨となっているので買い取ってもらうと100円以上の価値にはなるけど、これらの貨幣は未だに使える貨幣の為にそこまでプレミアムは付かないのが現状である。また銀行で両替が出来るのであるが、最近は銀行で両替するだけでも手数料を取る時代になっているので、持っていてもあまりいい事が無い古銭なのである。。

オカン
オカン

バアさんが集めてた古銭なども、全然買い取ってくれへんかったな・・・

 

昔は金貨や銀貨が造られていたりしたけど、その当時から金や銀の値段が上がっている為に、今ではそれら金貨や銀貨が元値よりも高く買い取りされる時代となっている。また金や銀だけではなくニッケルなどの素材の値段も最近の世界的なインフレの影響で大きく上昇しているので、その内これらのニッケル硬貨も高く買い取ってくれるかもしれない。

 

こちらに置かれていた「黒石銀行」の看板は、明治30年~大正8年まで営業していた黒石銀行の店舗正面に掲げられていた実物の看板。今日本国内に存在している銀行の数も沢山あるように思うけど、それでも色んな銀行が合併したり買収されたりしてその数なので、その昔にはもっと無数に銀行が存在していたのである。

 

こちらの看板は明治31年~昭和18年まで営業していた「津軽銀行」で使われていた看板である。その津軽銀行は昭和18年(1943年)に他の青森内の銀行と合併して、今の青森銀行となっている。

 

そして旧第五十九銀行本館を見学中に急にトイレに行きたくなったけど、明治時代に造られた建物なので建物内にトイレが無かったので、受付の係の人に聞いたら、「外に出た公園にトイレが設置されているので、そこを使ってください!」との事だった。

 

そのトイレは公衆トイレだったけど意外と新しく造られたようで、大きな個室が設けられていて想像よりも快適なトイレだった。ただ明治時代には下水道などが完備されていなかった事もあって建物内にトイレなどが設置されていなかったという事を、身に染みて覚えた弘前のトイレだったのである。。

ネプちゃん
ネプちゃん

明治時代は今ほど便利な時代ではなかったべ!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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