東北旅行記2020年冬-86:山形編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Graves of Yonezawa feudal lord’s wife and weeping cherry trees planted by Youzan, lined up in the precincts of Rinsenji Temple in Yonezawa City. [Tohoku Travelogue 86])
希望のある限り、若い!
ここは米沢市内にある、米沢藩主上杉家の菩提寺ともなっていた「春日山 林泉寺」という曹洞宗の寺。この寺の境内には上杉家に仕えた家臣達や、米沢藩主の夫人達のお墓も設置されていて、上杉家好きにとっては聖地ともなっている場所でもある。
住所:山形県米沢市林泉寺1-2-3
営業時間: 9時~17時頃(※休み:水曜と盆)
※本堂内拝観は冬場は閉館の為に不可
電話番号:0238-23-0601
拝観料:①境内100円/②本堂300円
「春日山 林泉寺」見学の続き!
そんな「春日山 林泉寺」に設置されているお墓の中でも一番注目されているのが、大河ドラマの主人公にも選ばれて全国区の人気を得た直江兼続とその夫人:お船のお墓である。この奥の松の木の横に置かれているのがその直江兼続のお墓で、前回はそのお墓をじっくりと眺めた。
そしてこの林泉寺の境内が思っていた以上に広かったので、こちらの石のベンチに腰掛けようかと思ったら、
つかれたら ここらで ちょっと ひと休み
by 林泉寺
と彫られた文字が目に入る。このようにベンチが語りかけてくる姿が、何とも面白く感じた瞬間でもあった。
やがて ムックリ
立ち上がり あせらず
ゆっくり 歩こうよby 林泉寺
こちらのベンチも同様に、このようなリラックスできるメッセージが刻まれていた。ただ、このような石のベンチは座っているとお尻が痛くなりそうな雰囲気を感じるベンチだったので、意外と長居せずに少しだけ休憩させる効果があるのかもしれない。
林泉寺内の「上杉家廟所」
そして林泉寺境内には、こちらの「上杉家廟所」も設置されていた。先程ここから歩いて約25分の場所にある、歴代米沢藩主のお墓が残されている「上杉家廟所」という場所を訪れてきたが、ここにはその米沢藩主の夫人のお墓が設置されている上杉家廟所だった。
ただ藩主夫人と言っても、昔は正室と共に側室を何人か抱えていた為に、その全ての夫人ではなく、主に正室だった夫人のお墓が置かれているようだ。
拙者は生涯、正室のお船だけだったよ!
人間を含む地球上で生きている生物にとっては、一夫に対して一妻だけを固定するのでは種の保存が困難な為に、ボスが集団を率いて一夫多妻制を行っている種が多い。現代の人類でも一夫多妻制が認められている宗教や国があるけど、それは生物的にはごく自然な事。
しかし、人類は主の保存本能によって繁殖相手を無差別に奪い合う行為を抑圧しようという考えが発展していき、それが宗教の一部に組み込まれて、一夫一妻制が基本の国が多くなってきたという訳である。元々生物は繫殖時期に入ると一時的な相手を探して繫殖行為に勤しむ訳であり、逆にその相手を無理やり束縛し続けるシステムの方が問題があると思う。
近代は考えられない位に離婚が多いね・・・
まず見えてきたのは「仙洞院(せんとういん)」という、上杉謙信の腹違いの姉だった人物のお墓。その仙洞院は上田長尾氏の当主だった長尾 政景(ながお まさかげ)の正室となり、長男は幼くして亡くなったが次男が謙信公に実子が居なかった為に、謙信の養子となった。そしてその次男が謙信亡き後に上杉家の内乱争いに勝利した、米沢藩初代藩主の上杉景勝である。
御館様の母上ですね!
そしてこちらはその米沢藩初代藩主の上杉景勝の正室として、あの武田家から同盟関係を結ぶ為に送り込まれた「菊姫」の墓。この菊姫はあの武田信玄の実の娘であるが、信玄亡き後に武田家を継いだ武田勝頼は、長篠の戦いで大敗した後に周辺諸国と同盟を結ぶ為に妹を上杉家に送って同盟を結んだという経緯がある。
武田家から来た菊姫は「甲州夫人」とも呼ばれてたよ!
上杉景勝の正室:菊姫はその人柄と倹約質素を進んで行う姿勢が、周りの人達に好感を持たれて、かつて敵国だった上杉家でも敬愛される存在だったようだ。ただ菊姫自体は上杉景勝との間に子供が出来なかった為に、上杉景勝の跡継ぎは側室の子供(上杉定勝)となった。
ちなみにその跡継ぎ:定勝殿を育てたのが、拙者夫婦だったのですよ!
こちらは「上杉 勝周(かつちか)」という、米沢藩4代藩主:上杉綱憲の四男だった人物の墓。米沢藩5代藩主に就任した兄:上杉吉憲から1万石を分与され、米沢藩の支藩である米沢新田藩を任された人物でもある。ただ支藩と言ってもあくまで名目上の存在で、独立性はなくて米沢藩の中に組み込まれるだけで、主に上杉家の血筋を残す為に形式的に分家をしたような感じだったようだ。
このように上杉家の藩主夫人の墓だけではなく、藩主のお墓があった上杉家廟所に収められなかったお墓などが設置されている場所のようだ。江戸時代に米沢藩を約270年間守り続けてきた上杉家だけに、米沢藩にゆかりのある人物の墓を設置しようとすれば、かなりの敷地が必要になりそうにも思えた。
こちらは名君として名高い上杉鷹山の側室だった「お豊の方」のお墓。鷹山は米沢藩8代藩主:上杉重定の次女「幸姫(よしひめ)」を正室に迎えて養子入りしたが、この幸姫は発育障害だったとされており、まともな夫婦の営みが出来なかった為に、家臣から側室として「お豊の方」を召し取るように勧められて受け入れた。
ただ鷹山は「お豊の方」以外に側室を受け入れず、江戸屋敷では正室の幸姫の相手を続けて、幸姫が30歳頃で亡くなるまで見守り続けた。そして側室だった「お豊の方」の間には2人の男子が生まれたが、1人は早死にし、もう1人は鷹山の2代後に藩主を継ぐ予定だったが、残念ながら18歳で死去してしまい、鷹山の直系の血は途絶えてしまうのだった。
鷹山公の血は途絶えても、その教えは今でも米沢の人々に受け継がれてます!
こちらは米沢藩3代藩主「上杉綱勝(つなかつ)」の正室に迎えられた「媛姫(はるひめ)」の墓で、徳川家康の孫にあたる「保科正之」の長女だった人物。この媛姫との婚姻は江戸幕府の斡旋で執り行われたが、媛姫が19歳で死去して綱勝は側室を設けながらも子供が出来ずに亡くなった為に、上杉家は”お家断絶の危機”に陥ってしまった。
本来なら跡取りを残さずに、また後継者を決めずに藩主が亡くなった場合には”お家断絶”として改易されてしまうのである。しかし、この婚姻で得た徳川家康の孫である保科正之のコネクションを活かして、老中職だった保科正之に幕府と交渉して貰って、上杉綱勝の妹が嫁いでいた吉良家から長男を後継者に迎え入れる事で、何とか上杉家の存続が許される事になる。
この林泉寺境内にあった年季の入った見事なシダレ桜は、何と上杉鷹山が手植えした木だという案内札が立っているのが見える。上杉鷹山というと、1755~1822年頃に生きていたとされるので、樹齢で考えると200年近く経過している物のようだ。
約200年も生存しているシダレ桜だけあって、かなり太い幹だったけど、このように既に自力で枝を支える力が無くなってきているので、要介護認定状態になっていた。植えた人間は死に絶えても、生存力の強い木はこのように現代にも生き続けている。
そして表側には「春日山林泉寺」の案内が書かれていた看板の裏側には、このように
たった一度の この人生
たった一つの この命
大切にいたしましょう!by 春日山林泉寺
という素晴らしいメッセージが見えた。このように歴史的に重要な人物の墓を訪れる事によって、その人達が尽力してきた結果の末に、今我々が住んでいるこの世界が成り立っているという事を強く感じる。そう思うと、墓を訪れた後にこのメッセージを見ると、心が熱くなって、より気合いが湧いてくるメッセージにも感じた。
その命一つ一つが、世界をより良い場所に変えるのです!
「旧米沢高等工業学校:本館」の見学!
そして林泉寺から少し東側に道なりに進むと、すぐにこのような大きな洋風建築物が見えてきた。ここは「旧米沢高等工業学校:本館」という、明治43年(1910年)に建てられた、当時として”全国で7番目の高等工業学校”だった建物である。
明治の終わりに造られた洋風建築物だった学校で、後に山形大学の工学部として編入されて1973年に”国の重要文化財”に指定された事を受けて、今では学校としてではなく、資料館として保存されている。ちなみにこの建物を設計したのは外人ではなく、日本人が設計しているそうだ。
そしてこの学校敷地内の植木もその大半に、このような雪除けの板が被されているのが見える。秋田市内や山形市内ではここまでガードされた景色は見なかったけど、ここ米沢は東北地方でもかなりの豪雪地帯なので、このような降雪対策をしておかないと木々が潰れてしまうのだろう。
米沢に移封されてきた最初の冬は、降雪が拷問のように感じたよ・・・
今から100年も前に造られた、木造二階建ての洋風建築物。なお、JR米沢駅の現在の駅舎外観は、この米沢高等工業学校をイメージしたデザインになっているそうだ。上杉家にゆかりのある江戸時代の建物よりも、米沢駅舎のデザインに用いられる程に、米沢市内でも特に目を惹くデザインになっている事が伺えるのである。
その敷地内には、こちらの『青春』というタイトルの詩碑が設置されていた。こちらの記念碑に刻まれていた詩は元々「サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman)」という実業家で詩人でもあったドイツ人が、20世紀初め頃に発表した詩集に収められていた一部の、『Youth』という章を訳した物である。
そのサミュエル・ウルマンの詩は、連合国司令官として日本に乗り込んできた「ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)」が、日本に乗り込む前頃にある人から贈られて気に入り、マッカーサー元帥が駐在したマニラや東京での公演時に度々引用したりして、現地の人々に知られるようになっていったという。
そしてこの『Youth(青春)』を日本語訳に訳したのが、この旧米沢高等工業学校で教鞭を取っていた事もある「岡田 義夫」という人物であった。この詩が日本国内に広まったのも、岡田義夫と、旧米沢高等工業学校で校長を務めていた「森 平三郎」の尽力したおかげという意味合いで、その記念としてここに詩碑が設置されていたようだ。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望のある限り若く 失望と共に老い朽ちる
by 『Youth(青春)』
この詩の中で特に目を惹いたのが、この一文だった。歳を重ねても、信念と自信と希望を持ち続けている人は活気があって元気だけど、疑惑や恐怖や失望などに追い回されている人間は、生きた屍のような存在という意味。
生きている限りは、前向きに生きましょう!
人間の生き方次第で、若くも老いるも変わってくるのだね!
何とも深すぎる一文を読んで感心してしまった後は、この明治時代の終わりに造られた歴史的な洋風の校舎を見ても、その建物よりもさっきの詩の内容が頭を占領し続けていた。本質を捉えた素晴らしい詩は、それを読んで感銘を受けた人々に拡散されて、より多くの地域に拡がっていくのだろう。
さすがにこの古くなった校舎は今では現役の学校としては使われていないので、このように地域のシンボル的な存在として、夜になると時期に応じたカラーの照明が当てられているようだ。こういう目立つ外観をしている歴史ある建物は、夜にライトアップされた姿も素晴らしいのである。
明治時代の終わりに造られた大きな木造建築物だけど、この東北の中でも特に豪雪地帯とされている米沢で、100年以上毎年の雪の重みに潰される事なく、現在まで生き残っている建物。建物の屋根が斜めになっているのも、屋根の上に積もった雪が自然に滑り落ちる仕組みを考慮して、設計されている事だろう。
米沢というと江戸時代の上杉家が治めていただけに、その時代の雰囲気を感じた街だったけど、このように明治時代に造られた洋風建築物も見られて楽しい街歩きが出来ている。古い寺はよく見られるけど、このように年季の入った洋館も上手く街に調和しているようだ。
そして今では山形大学の工学部は、横に新しいキャンパスが造られており、学生たちはこのモダンな新しい校舎で勉強をしているようだ。ただし、その手前にあったこの門は、見るからに歴史のありそうな汚れがあり、昔の歴史を今に伝える建造物として生き残っていたのである。
こんな旅はまた次回に続きます!
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