東北旅行記2020年冬-85:山形編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Kasuga-san Rinsen-ji Temple in Yonezawa City, where the graves of Naoe Kanetsugu and his wife are enshrined. [Tohoku Travelogue 85])
上杉家を支えた直江兼続!
ここは山形県米沢市にある「春日山 林泉寺(りんせんじ)」という、曹洞宗のお寺。元々は上杉謙信が居城にしていた越後の春日城(今の新潟県)近くにあった寺で、上杉謙信の遺骸も寺の境内に収められていた。そしてその後に上杉家が米沢の地に移封となった際に、林泉寺も一緒に移転してきたとされている。
住所:山形県米沢市林泉寺1-2-3
営業時間: 9時~17時頃(※休み:水曜と盆)
※本堂内拝観は冬場は閉館の為に不可
電話番号:0238-23-0601
拝観料:①境内100円/②本堂300円
「春日山 林泉寺」の見学!
さっき訪れた上杉家廟所では、歴代米沢藩主の墓ばかりだったけど、この「春日山 林泉寺」ではその藩主の正室のお墓や家臣の墓なども安置されている。そして上杉家の家臣の中で一番有名な「直江兼続」も、この春日山 林泉寺境内にお墓が置かれているのである。
今でも拙者の墓を綺麗に管理してくれているかな?!
その直江兼続は米沢藩初代藩主となる上杉景勝に幼い頃より仕えており、上杉景勝の重臣だった直江景綱の跡取りが殺された事を受けて、景勝の名によって直江景綱の娘「船」の再婚相手として直江家に婿入りして、越後与板城主となる。それ以降は狩野秀治という家臣との2人で上杉家の執政体制が組まれたが、後に狩野秀治が亡くなってからは直江兼続が内政・外交を一手に引き受けるようになった。
ここ林泉寺には上杉家に仕えていた家臣団の墓が安置されているけど、その中にはあの上杉謙信のライバルとして有名な武田信玄の息子の墓まで作られている。上杉家と武田家というと”犬猿の仲”のイメージがあるけど、それは上杉謙信と武田信玄の時代の事で、その両者の死後を継いだ上杉景勝と武田勝頼の時代には同盟が結ばれていたのである。
まさに「昨日の敵は今日の友」の言葉通りだね!
この林泉寺の境内も誰も人が居なくて、ひっそりと静まり返っていた。そしてここも上杉家廟所のように、背の高い杉の木が並んでいる光景が見える。ただ人が少ない方がじっくりと見学する事が出来るので、個人的にはひと気が無い方が好都合なのであるが。
境内に入った脇には、こちらの「春日大明神」を祀る祠が見られる。この春日大明神は奈良県にある「春日大社」で祀られている神様で、上杉謙信が家督を継いだ際に上杉家の氏神である春日大明神を迎え入れたのである。そういう訳で春日大明神を祀っているので、この寺の名前(山号)に「春日山」と入っているのである。
さて境内に進んで行こうかと思っていたけど、このように黄色い柵が設置されていて、境内拝観の入口が右側にあるという表示が見られる。そんな順路に従って進む程に、広い境内なのかと思ってしまった瞬間でもある。
拝観する価値のある寺です!
その柵の脇にはこちらの鳥の巣箱のような物が設置されていたが、よ~~く見てみると拝観料を入れる箱だった。境内のみ見学する人は拝観料100円が必要で、ここ林泉寺では係員にではなく、こちらのボックスに拝観料100円を入れるセルフなシステムになっていた。
ちゃんと拝観料100円、払ってくださいね!
まず拝観料を支払ってから順路の指示に従って右側に進むと、このような大きな本堂の建物が見えてくる。この本堂内の見学は別途300円が必要なのであるが、堂内には上杉家や家臣達の位牌などが置かれていたりで、300円の拝観料が必要な程の場所となっているようだ。ただし、12月からの冬の期間は見学出来ないので、あしからず。
こちらはこの林泉寺の境内案内図であるが、思っていた以上に広いようだ。というのもこの林泉寺は直江家の菩提寺でもあった「徳昌寺(とくしょうじ)」が併合されているので、その分広く感じたのかもしれない。ちなみにその徳昌寺は直江家と共にこの米沢の地に移転してきたが、後に『僧録(そうろく)』を林泉寺と争ったが最終的に負けてしまって追放され、今では新潟県長岡市で曹洞宗の寺として存続している。
直江家の菩提寺が認められなかったのは、残念だった・・・
ちなみにこの林泉寺境内には”米沢三名園の1つ”とも称される日本庭園があるのだが、この訪問時にはその庭園の存在を知らず、また頭の中には「直江兼続の墓はドコかな・・・」と考えていたので、見落として写真に残せなかったのである。。
とりあえず順路に従って墓地を進んで行くと、このように沢山の墓石が見えてくる。人によっては墓地に幽霊が出る怖いイメージがあって近寄りたくない人も居るかもしれないけど、個人的には幽霊の存在を信じていないので、怖い物知らずのようにゴリゴリと歩みを進めるのであった。
そしてまず見えてきたのが「吉江 宗信(よしえ むねのぶ)」という、上杉謙信と景勝の配下として活躍した武将とその子孫の墓である。越後国にあった吉江城の城主となって上杉家で活躍した吉江宗信は、謙信が急死した際に起こった跡目争い『御館の乱』で、景勝側に付いた人物でもある。
そして吉江宗信は上杉家領地に攻め込んできた、織田信長の軍と何度も激戦を行った。しかし『御館の乱』でまともな援軍が上杉家本体から得られず、直に戦力はジリ貧となっていき、最終的に吉江宗信は魚津城で長期に渡る籠城を行った末に身内を含めて自害した。ちなみに吉江宗信が自害したのは、あの織田信長が本能寺の変で亡くなった翌日だという。
織田信長が死んだ知らせを聞いていれば、自害せずに済んでいたかも・・・
山形県指定文化財「武田信清」の墓
そしてこちらには”山形県指定文化財”にも指定されている、武田信玄の息子である「武田 信清(のぶきよ)」のお墓が見える。上杉謙信にとって武田家は”目の上のタンコブ”的に邪魔な存在で、もし上杉謙信がこの上杉領内に武田家の墓があるという事を知ったらビックリするかもしれない。
ここにお墓がある「武田 信清」は武田信玄の6男として生まれ、信玄の指示によって寺に出家した。しかし信玄亡き後に武田氏を継いだ武田勝頼に呼ばれ、僧を辞める「還俗(げんぞく)」をして武田家に戻って、海野城主などを務める。ただ信玄亡き後の武田家は、織田信長・徳川家康連合軍と戦った”長篠の戦い”で敗北して、大きな損害を被った。その為に隣接する上杉氏と北条氏との同盟強化に動く。
そして上杉家で謙信の急死に伴って勃発した”御館の乱”を制圧した上杉景勝と同盟を結ぶ為に、武田勝頼は自分の妹「菊姫」を差し出し、上杉景勝の正室とさせ同盟関係を結んだのである。しかし武田勝頼は織田軍勢に追い詰められて最終的に自害して武田家は滅亡したが、この武田信清は菊姫の繋がりもあって、上杉家に召し抱えられる事になる。
そうしてこの地にやってきた米沢武田氏として、途中で養子が入って信玄直系の血は途絶えたそうだが、今でも武田家の系譜が残されているようだ。ちなみに上杉景勝に嫁いだ菊姫に子供が出来なかった為に跡取りは出来なかったものの、才色兼備で更に質素倹約だった人柄が上杉領内でも評判だった為に、武田信清を始めとする米沢武田氏も丁重に扱われたんだとか。
このブログの大半は、Wikipediaから参照した内容らしいよ!(笑)
歴史を簡単に調べるには、Wikipediaが重宝するんで!
その手前にはこちらの「侍大将:長尾権四郎家之墓」が設置されていた。この長尾権四郎は「長尾 景広(ながお かげひろ)」とも呼ばれた、最初は北条家に仕えていた武将である。しかし、北条家が豊臣秀吉による”小田原征伐”で滅びてしまい、その後に同族である上田長尾家出身の上杉景勝に仕えたという。
「直江兼続夫妻」の墓
そして楽しみにしていた直江兼続夫妻の墓が見えてきた。この林泉寺境内には他にも墓があったけど、この直江兼続夫妻の墓だけは特別扱いのような感じを受ける広めの敷地となっていた。
なお、この「直江兼続」という名前を聞くと、2009年に放送されたNHK大河ドラマ『天地人(てんちじん)』を思い出す人も多いかと思う。前年に放送された『篤姫』が高視聴率を稼いだが、この『天地人』でも高い視聴率を記録したという。また、この大河ドラマで主人公の直江兼続役を演じたのは、当時29歳頃だった「妻夫木 聡」である。
天地人が放送されてから、一気にやって来る人が増えたよ!
そして直江兼続というと、こちらの『愛』という文字を前立てにしていた武将としても有名である。ちなみにこの『愛』は現代でよく使われる「LOVE(ラブ)」という意味合いよりも、上杉謙信が崇めていた”愛宕(あたご)権現”の一文字から採ったとされている。
ちなみにこの鎧兜は今では米沢城跡地に造られている「上杉神社:稽照殿」という宝物庫にて保管されているが、この宝物庫の稽照殿も冬場には閉鎖されてしまうので、見学するなら暖かい時期に行かないと見れないのである。。
今回の旅では、残念ながらこの『愛』の前立てが見れませんでした・・・
この直江兼続は「船」という正室しか持たず、また男子が生まれたものの、幼くして亡くなってしまう。代わりに娘を前田家に仕えていた本多政重と婚姻させて直江家の養子に迎え入れたが、最終的に本多政重の養子縁組を解消してしまい、それによって直江家は断絶してしまったようだ。
なお、この”直江家断絶”については直江兼続が厳しい藩財政を考慮して、敢えて実行したものと考えられている。直江兼続はこの米沢の地に移ってからも精力的に新田開発などの行い、30万石に減らされた領地ながら、実質は50万石近くまであがったそうだ。しかし上杉家で筆頭の家老だった直江家を継ぐと、それだけ藩の負担が増大する事を考慮し、質素倹約に基づいてきた精神で直江家断絶の道を選択したとされている。
直江家を残すより、君主の上杉家を残す事の方が大事なんです!
そんな風に上杉家に全面的に尽力した「直江兼続」と、その正室であった「お船」の墓だけは、その貢献度に見合った待遇がなされていたようだ。ただ直江兼続の死後は徳川幕府が兼続の事を「上杉家をそそのかして徳川家に刃向き、窮地に陥らせた悪い家臣」として触れ回った為に、直江兼続の功績はあまり評価されなかった。しかし、後に米沢藩にやって来た上杉鷹山が、直江兼続時代の治政や倹約質素を参考に藩を立て直した為に、再び陽の目を当たる事に繋がったという。
江戸幕府のヤロ~、絶対許せね~~!(怒)
”山城守”と称し、また豊臣秀吉からは直々に「豊臣」の氏を授けられて、「豊臣兼続」という名前でもあった直江兼続。ちなみに上杉景勝は本能寺の変で織田信長が死去した後に天下取りに動いた豊臣秀吉にいち早く恭順しており、それが認められて秀吉時代には会津130万石を治める大大名となった。
実は「豊臣兼続」とは一度も名乗った事がなく、秀吉公も嫌いだったんだよ・・・
こちらはその直江兼続のお墓の横に設置されていた、兼続の正室だった「お船」の墓。このお船は兼続が亡くなった後は剃髪して尼となり、景勝から”化粧料”3000石が与えられ、江戸の直江家屋敷で暮らして兼続の死後約18年後に亡くなったそうだ。
お船~~~!
なお、米沢藩上杉家:江戸藩邸の向かい側にあったとされる、直江家の屋敷「江戸鱗屋敷」で直江兼続とお船が亡くなった場所だが、今のその江戸鱗屋敷跡地は何と今の警視庁の建物が建っている場所だという。ちなみに米沢藩上杉家:江戸藩邸跡には、法務省の旧館である赤レンガの建物が立っている。
米沢藩の江戸藩邸は目の前に桜田門があって、そこからすぐに江戸城に行ける素晴らしい立地だったようだ。
便利な場所だったけど、常に江戸城から監視されている気分だったけどね・・・
このお墓は「万年堂」と称される家型塔婆で、中には五輪塔が収められているようだ。それと正面に3つの穴が見られるが、”三つ盛り亀甲に花菱”という直江家の家紋を模った物として考えられている説と、兼続が関ヶ原の戦い以降に領内に作られる墓にこのような穴を空けた格子型にし、敵が襲ってきた際に木の棒を入れて防御柵にも使えるようにしたとも考えられている。だから米沢市内にある墓地では、穴が格子状に空いた墓を見かける事が出来るとか。
さっき見た武田家の墓も、確かに格子状に穴が空いていたね!
上杉景勝の側室から唯一生まれた男子の跡継ぎだった「上杉 定勝(さだかつ)」の母親がその年に亡くなり、またその年の初めには景勝の正室だった菊姫も亡くなって育てる人間が居なくなってしまった為に、代わりに直江兼続夫妻によって育てられる事になった。なのでお船は兼続と景勝の死後も、2代目藩主となった上杉定勝にも丁重に扱われていたようだ。
定勝公も立派な藩主になってくれた事だろう!
なおこの直江兼続夫妻のお墓は、元々は米沢市内に移ってきた直江氏の菩提寺だった徳昌寺の境内に安置されていた。しかし、後にここ林泉寺と徳昌寺が争い、最終的に徳昌寺が負けて追放された為に、直江兼続夫妻のお墓は一旦近くの東源寺に移された後に、ここ林泉寺に改葬されて今に至る。
何はともあれ、船と並んでいる墓が見れて幸せだよ!
こちらはボクの大好きな漫画『花の慶次』に登場する、直江兼続である。義に厚い智将として扱われているが、一度怒らすと槍を一瞬で振り降ろす剛腕でもあった。なお、漫画内では主人公の前田慶次は前田家を出奔した後に、直江兼続の人柄に惚れこんで上杉家に仕えたとされている。
「甘糟景継」の墓
そして奥に進むと、こちらの「甘糟 景継(あまかす かげつぐ)」という上杉家に仕えた武将の墓が見えてきた。意識して墓の形を眺めると、直江兼続がこの米沢の墓を格子型に造らせたと言われる形状になっているのがよく分かる墓となっていた。
その横にはこのような碑が立っていたけど、立てられてからそれなりに年月を経ている為か、このように刻まれている文字が見にくくなっていた。辛うじて下側に「甘糟景継夫妻の墓」と刻まれている文字が見られる。
上杉景勝に仕えた甘糟景継は、庄内酒田城主や白石城主などを任される程の重臣だった。しかし一説には白石城主時代に、急死した妻の亡骸に寄り添う為に白石城を離れた際に、留守にした白石城が敵に奪われてしまった。それを知った上杉景勝が激怒して、この甘糟景継を死罪にしかけたという話もあるとか。。
甘糟景継も剛勇で素晴らしい武将だったよ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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