歴代米沢藩主のお墓が並ぶ「上杉家廟所」も、長い歴史の間に補修されてきた【東北旅行記84】

東北旅行記2020年冬-84:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(The “Uesugi Family Mausoleum,” lined with the graves of successive Yonezawa feudal lords, has also been repaired over its long history. [Tohoku Travelogue 84])

昔の霊廟の残骸!

ここは山形県米沢市内の米沢城近くに造られている、歴代米沢藩主だった上杉家当主のお墓が並んでいる「上杉家廟所」。11人分の米沢藩主のお墓と、上杉家を象徴する存在でもある”軍神”上杉謙信のお墓も後になってから安置されている場所である。

 

【上杉家廟所】

住所:山形県米沢市御廟1-5-30
営業時間:9時~17時頃
電話番号:0238-23-3115
拝観料:大人400円/中高生200円/小学生100円
近くに30台規模の無料駐車場あり

 

 

 

「上杉家墓所資料館」の見学!

「上杉家廟所」に造られている歴代藩主のお墓は前回一通り見て回ったので、今回は敷地内に設置されていた、こちらの「上杉家墓所資料館」という資料館もついでに見学してみる。

直江クン
直江クン

たっぷり上杉家を勉強していってね!

 

スリッパに履き替えて資料館の中に入っていくと、まずこちらの米沢藩9代藩主「上杉 治憲(はるのり)の霊廟を調査した際の写真などが見えた。この上杉治憲という名前を聞いてピ~~ンと来る人はかなりの歴史マニアだけど、この人物が隠居した後に名乗った号「上杉鷹山」という名前を聞けば、ある程度の人が知っている程の有名人である。

 

江戸時代を代表する名君として今日でもその代表格として取り上げられる事が多い上杉鷹山だが、その鷹山が葬られた霊廟が平成5年(1993年)に、霊廟内の五輪塔が倒壊して壁を突き破る事故が発生した。その際に霊廟を解体して補修工事が行われたのだが、墓の奥に安置されていた棺から頭蓋骨などの骨が発見された。この上杉鷹山が亡くなった時代から、この霊廟では火葬から土葬で収められる事になった為に、上杉鷹山の物と思われる遺骨がちゃんと残っていたそうだ。

 

そして資料館内には、このような昔の霊廟に使われていたパーツなどの一部が保管されている。ここ「上杉家廟所」は米沢藩初代藩主の上杉景勝が亡くなった時に造られた霊廟なので、そこから約400年程の年月が経過している。そして少なくとも今から150年前以上に造られた建物ばかりなので、そろそろ老朽化や補修工事が必要となって、その際に回収されたパーツなどがここに保管されているようだ。

 

こちらの金属パーツは「和釘」「鎹(かすがい)で、米沢藩第2代藩主「上杉 定勝(さだかつ)の霊廟に使われていた建築資材である。上杉定勝が死去したのは1645年頃なので、今から約380年近く前に使われていた物で、今では一般的に見る事がないけど、明治時代までは普通に使われていたそうだ。

 

こちらは上杉鷹山公の霊廟の中にあった「墓誌(ぼし)と、その表石と蓋である。この墓誌とはそのお墓に埋められた人物の概要が刻まれている石の事であるが、倹約質素を先頭に立って行っていた藩主らしく、思ったよりも小さなサイズの墓誌となっていた。

 

こちらは3代藩主「上杉綱勝(つなかつ)と4代藩主「上杉綱憲(つなのり)の霊廟に使われていた、「礎盤(そばん)という土台に丸柱を固定する為のケヤキで造られたパーツ。昔の建物は木造建築物だらけだったのでこのような木材パーツばかりだが、長い年月が経つと腐ったり朽ちたりと、定期的に補修する必要性がある。

 

こちらも米沢藩第2代藩主「上杉 定勝(さだかつ)の霊廟に使われていた、「妻飾り(つまかざり)という家の正面側の屋根の下に取り付けられていた顔代わりの飾りである。この妻飾りは建物の外側に取り付けられていたパーツなので、このように長い年月を経ると風化して劣化が激しくなっているのが分かる。

 

上は米沢藩3代藩主「上杉綱勝(つなかつ)の霊廟に使われていた妻飾りで、下は米沢藩4代藩主「上杉綱憲(つなのり)の霊廟に使われていた「柿葺(こけらぶき)である。この柿葺とは薄い木板で、主に昔から日本家屋に用いられている伝統的な建築資材である。

 

よく「こけら落とし公演」などで耳にした事のある柿葺(こけらぶき)だが、建物が完成して最後に木くずの柿葺を落とす行為が、完成前の慣例として語源になっているようだ。ちなみにであるが、この「杮(こけら)「柿(かき)の文字は同じように見えるけど、実は違う漢字だという。

オカン
オカン

へ~~同じ漢字にしか、見えんけどな!

 

 

こちらには上杉謙信を祖とした、上杉家歴代当主の家系図が置かれていた。上杉家というと武田信玄と何度も激戦を繰り広げた上杉謙信がとても有名だけど、その謙信は実子を残さなかったので、実はその謙信の血自体は早々に途切れてしまっている。米沢藩初代藩主の上杉景勝は謙信の甥にあたる存在で、その後も吉良家や秋月家から遠縁の関係でやって来た養子も居るので、直系の血を長年継続して継ぐという事の大変さがよく分かる。

(※上杉景勝は上杉謙信の姉の子供)

 

こちらの資料館の建物自体は、元々この「上杉家廟所」の入口付近に設置されていた拝殿跡だったものが、明治9年に上杉謙信の遺骸がこの霊廟に移された際に、今あるこの南側に移設されたという。そしてこの資料館には1994~2007年にこの霊廟の保存工事が行われた際に、撤去した廃材や鷹山公霊廟からの出土品など、約100点が飾られているという。

 

こちらの地図は1817年に「上杉家廟所」を描かれたとされるものだが、この当時は謙信公のお墓がここになかった為に、この地図にも謙信の墓が描かれていないのが分かる。だから最初は上杉景勝を筆頭とした米沢藩主の墓だった事がよく分かるのである。

 

そしてこの時代には旗が2本立っていた場所に拝殿が造られていて、その拝殿が移動されて今この資料館となっているという。それと共に各霊廟の前にも拝殿がそれぞれに造られており、今みたいに簡単にお墓に近づける場所ではなかった様子も伺える。

 

こちらの説明によると初代米沢藩主だった上杉景勝の骨は、ここではなく高野山に埋葬されており、残った灰や衣服などをこの墓所に埋葬したのが始まりのようだ。また上の地図には敷地内に家臣たちが奉納した数えきれない程の石灯篭が描かれていたが、明治9年に謙信の墓が移設された際に大改修され、最終的に撤去されてしまっているようだ。

 

こちらは初代米沢藩主の上杉景勝のお墓に使われていた「鬼瓦下木(おにがわらしたき)で、一般的には「足付鬼(あしつきおに)とも呼ばれる、屋根の角部分に取り付けられている鬼瓦パーツを作る際の元となった木型のようだ。

 

そしてこちらには、このように引き出し内にも霊廟で使われていた廃材などが保管されていた。この資料館は狭い割に多くの展示品があるので、その展示策としてこの引き出しが用意されていたのだろう。

 

それなりに博物館などを巡って来たけど、このように引き出しに展示品が保管されているのは今まで見た記憶があまりない。よく行く自治体が運営している博物館だと、建物が大きくて展示スペースが広いので、このように引き出しを使う程にスペースに困っていないからかもしれない。

 

この資料館で保存されていた廃材も、上杉景勝や上杉鷹山の霊廟に使われていた物が多いようだ。他の藩主の霊廟の建物も同じように木材が痛んでいたと思うけど、このように保存するのであれば、世間的に名前が知られている景勝や鷹山の物をどうせなら展示した方がいいという考えなのかもしれない。

 

今ではこのような木材を使った木造建築物が少なくなってしまったけど、やっぱり日本人のDNAの中には今まで木造建築物内に住んできた歴史が詰まっていて、木造建築物の中に入った瞬間に匂う”木材らしい匂い”に反応してしまうのである。

直江クン
直江クン

拙者は現代に生まれても、木造の家がいいな!

 

こちらには上杉鷹山の霊廟が補修された際の状況が、写真で展示されている。木造建築物だとまた何十年後かに補修する必要性が出てくるが、木造建築物が古来より引き継がれてきた歴史を表してもいるので、木造にこだわっているのだろう。

 

 

この「上杉家廟所」の改修工事は平成6年の上杉鷹山の霊廟から始まり、約14年の歳月と約5億円の総工費をかけて綺麗に補修されている。なお、この霊廟は”国の史跡”に指定されているので、国と山形県と米沢市からの補助金を受けて行われたようだ。

直江クン
直江クン

上杉家霊廟を綺麗にしてくれて、ありがとう!

 

なお、こちらは見学者向けに配布されていた「毘」の文字が入った、兜の形をした折り紙。ただこちらは無料だけど、地元の人がボランティアで折ってくれている物で、意外と折るのに手間がかかるので”1人2個まで”となっていた。

直江クン
直江クン

持ち帰る際には、折ってくれた人に感謝を捧げましょう!

 


 

「毘」と「愛」の兜形折り紙を被る、ルパン三世と次元のコンビ

「毘」と「愛」の兜形折り紙を被る、ルパン三世と次元のコンビ

ちなみにここで「毘」の文字が入った折り紙を貰って、別の場所で今度は「愛」の文字が入った兜形折り紙も貰って、家に帰ってからアニメ界を代表するコンビのフィギュアに被せてみた。米沢藩初代藩主の上杉景勝と、その右腕として活躍した直江兼続は固い絆と信頼関係で結ばれていたそうだが、このルパン三世と次元のコンビがその姿を彷彿とさせてくれる気がした。

直江クン
直江クン

拙者が生まれ変わったら、たぶん次元になるね!(笑)


 

 

という事で「上杉家廟所」の見学も終わり。観光客が少ないシーズンだった事もあって結局ボク以外に参拝していた人を見かけなくて、受付のオジサンも暇だったからか、帰り際に話しかけると色々と教えてくれた。そしてこの受付のオジサンも個人的なブログを開設しており、そのブログでは雪がどれだけ降ったとか、今月の山形県内のコロナ感染者についてなど地域情報などを発信しているとの事。

 

この上杉家廟所は米沢城の近くに造られているけど、米沢城の近くには上杉家にまつわる寺などもあって、山形市内よりも江戸時代の歴史好きな人にとっては見所が多く感じた。ちなみにこの日は月曜日だったけど、月曜日が休館日になっている施設もあるので、効率よく見学したい人は事前に開館情報を確認しておいた方がいい。

休館だった施設を見学したかったので、結局翌日も米沢市内を巡りました!

 

さて次の目的地は直江兼続のお墓が安置されている、こちらの「林泉寺(りんせんじ)と決めていた。ただ林泉寺は米沢城の南側にあり、ここから歩くと25分前後かかる。車での移動だったら簡単だけど、徒歩とバスを使っている人だったら、林泉寺まではバスの本数が少ないので歩きで行った方が早いかもしれない。

勿論ボクは歩き、一択です!

 

 

林泉寺までは「県道152号線」沿いを歩いて南下して行けば、その道沿いに発見できます。

直江クン
直江クン

林泉寺には拙者の墓もあるから、是非来てね!

 

入場料は大人400円必要だけど、充分見学する価値があった「上杉家廟所」。江戸時代などの歴史に興味ない人にとっては感動もないだろうけど、上杉景勝や鷹山など歴史的にも偉人の遺骸や遺骨が収められているので、帰ってから上杉鷹山について書かれた本などを読んで勉強すれば、より”いい経験”に繋げられると思う。

 

ちなみに帰ってからこの『小説 上杉鷹山』(著:童門 冬二)を読んで、崩壊の危機にあった藩財政を立て直した改革者の偉大な功績について知ったのである。

オカン
オカン

あまりに名君子過ぎて、疑うレベルに思えたけどね!(笑)

直江クン
直江クン

鷹山公の成し遂げた事は、この本だけでは表せない程の偉業ですよ!

 

林泉寺まで歩いて移動!

そして霊廟から林泉寺へと、街散策も兼ねて歩き出す。旅先ではなるべく歩く事を心掛けているけど、歩いていると車や電車では見逃してしまう風景などをじっくり見れて、またその土地の音や匂いも味わえるので、歩きが一番の旅の思い出となる。

オカン
オカン

若い人は歩けていいわね・・・

 

こちらは米沢市のデザインマンホールで、中心に「米」の文字と、その周囲には米沢市の花となっている「アズマシャクナゲ(東石楠花)というツツジの仲間が入っていた。このアズマシャクナゲは6月上旬から7月中旬頃に花を咲かすので、そのシーズンに米沢市を訪れるのもいいかもしれない。

 

ただでさえ観光客が少ないシーズンに訪れた事もあり、またそんなに一般観光客が立ち寄る場所では無い所に向かっていたので、勿論県道沿いにはボクのように歩いている観光客の姿は全く見かけない。ただ個人的にはこのように観光客が居ない場所を訪れた方が、よりその地元らしさが感じれる気がするのである。

 

その県道を歩いている途中に、こちらの「マルホン カウボーイ」という東北地方に25本舗ほどを展開するローカル・スーパーマーケットチェーン店が見えてきた。こちらのお店は「本間物産」という、庄内・酒田地区で”日本最大の地主”と称された豪商:本間家の流れを継ぐ会社が母体となって経営している。

 

この本間家は江戸時代に現代の株式相場でも使われている『ローソク足』などを発明したという本間宗久や、3代目当主の本間光丘の時代には私財を投げうって庄内海岸に防砂林などを作った、山形では知らない人が居ない程の名家だった。広大な土地を所有しながらも財閥化されずに戦争を迎えたが、敗戦してGHQが乗り込んできた際に行われた「農地改革」によって、本間家の所有していた田畑の殆どがタダ同然で引き渡されてしまう事になる。

 

その後に本間家の商事部門として「本間物産」が設立され、最初は本間家当主が社長を務めていたが、後に”とある人物”(詐欺師まがい?!)が社長に上手く取り入って出世し、最終的には本間家側の人間を追い出して社長に就任したそうだ。そしてその人物が物販本部を新設して、ディスカウントショップ「酒田マルホン」を出店し、一時は全国で50店舗を超えるまでの規模になったそうだ。

 

しかし、無茶な店舗出店をした結果、1990年に本間物産は”東北地方では、当時の史上最高である約400億円もの負債を抱えて倒産してしまう。

直江クン
直江クン

あの庄内で繁栄した本間家が、簡単に潰れるなんて・・・

 

そして倒産した後は1993年に、本社が札幌にあるディスカウントストア「株式会社カウボーイ」の傘下に入り、債務を完済する程に再建される。しかし、今度は2006年にカウボーイ自体が経営難に陥って、カウボーイの経営再建に乗り出していたゴールドマンサックスに本間物産の株式を売却し、その後の2008年に秋田に本社を持つ「伏見屋」がゴールドマンから株式を買い取り、子会社化して今日に至るようだ。

直江クン
直江クン

どれだけの歴史があろうと、潰れる時は一瞬ですね・・・

 

そしてこちらの建物は外観からは一見想像できないけど、「末日聖徒 イエス・キリスト教会:米沢支部」というキリスト教系の新興宗教である『モルモン教』の教会だった。キリスト教に興味の無い人間からすれば、そんなモルモン教なる宗派なんて違いが判らないけど、聖書の解釈の違いでキリスト教でも独自の流れをいく宗教のようだ。

 

 

そんな街歩きをフラフラとしながら県道を歩いて行くと、やっと目的の「春日山林泉寺」の看板が見えてきた。この林泉寺には手前に無料駐車場も完備されていたが、冬場は本堂の見学は出来ないけど、境内の見学は自由に行えるようだ。

直江クン
直江クン

冬場でも拙者の墓が見れるので、是非来てね!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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