上杉謙信・景勝・鷹山の亡骸が眠る、米沢藩を治めた上杉家の霊廟「上杉家廟所」【東北旅行記83】

東北旅行記2020年冬-83:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(The mausoleum of the Uesugi family who ruled the Yonezawa domain, where the remains of Kenshin Uesugi, Kagekatsu Uesugi, and Youzan Uesugi lie.  [Tohoku Travelogue 83])

上杉家のお墓!

ここは米沢駅から徒歩で約45分ほどの場所に造られている「上杉家廟所」という、ここ米沢の地を江戸時代に治めていた米沢藩の藩主だった上杉家の歴代藩主の霊廟である。上杉家は戦国時代に活躍した上杉謙信を筆頭に、全国的にも有名な家柄である。

 

【上杉家廟所】

住所:山形県米沢市御廟1-5-30
営業時間:9時~17時頃
電話番号:0238-23-3115
拝観料:大人400円/中高生200円/小学生100円
近くに30台規模の無料駐車場あり

 

 

 

「上杉家廟所」の見学!

この米沢の地を治めていた米沢藩は初代藩主:上杉景勝から、明治時代を迎えた際に藩主だった13代藩主:上杉茂憲の時代まで一家でこの地を守り続けた。しかしその裏ではこの米沢の地に移封されてきた当初は30万石だったのが、途中で半分の約15万石に減らされたりと、苦しい時代も何とか堪えて幕末まで存続していった。

 

この「上杉家廟所」では、本来米沢藩主の墓として造られた霊廟なので、当初は上杉謙信の墓はなく、米沢藩初代藩主:上杉景勝の墓が中心に設置されて、その両脇にそれ以降の藩主の墓が造られていた。そして明治時代になってから米沢城内に安置されていた上杉謙信のお墓がここに移動された際に改築されて、今では上杉謙信のお墓が真ん中に構える形になっている。

 

上杉謙信というと、「毘沙門天(びしゃもんてん)という仏教では四天王の一尊となっている武神を強く信仰していた事もあって、その旗印に「毘」が使われていた。殆どの戦で勝利したという上杉謙信だけど、戦いの前には何日もかけて毘沙門天に祈りを捧げていたとか。

 

ちなみにこの「毘沙門天」という神様の存在は仏教のオリジナルではなく、その仏教の源流ともなっている古代インド地方のインド神話から派生したもので、ヒンズー教やバラモン教でも同様な神様が存在している。

また上杉謙信は内政で身内争いなどが多発しそれに嫌気が差し、大名だった時にいきなり「引退しま~~す!」と宣言して、更に「高野山に出家しま~~す!」と出て行ってしまったらしい。それを聞きつけた家臣団が慌てて謙信の後を追い、何とか考え直すように説得して、何とか元鞘に戻したという。

直江クン
直江クン

この時に謙信公が高野山に行ってれば、今の上杉家はなかったかも・・・

 

上杉家のお墓を進む! 動画

 

 

この上杉家廟所に立ち寄った際には、ボク以外に訪問客の姿は見えず、これだけの歴史ある霊廟が独占状態だった。そして誰も居ない霊廟に足を踏み入れて行くと、左右に上杉家藩主の霊廟の建物がズラ~~っと並んでいる光景が見えてくる。

 

そして正面奥に進んで行くと、こちらの上杉謙信の霊廟が見えてくる。ここは先程も説明した通り、明治時代になってから改築された場所で、本来は初代藩主である上杉景勝の墓が鎮座していた場所。

 

上杉謙信が亡き後にその上杉家を継いだ上杉景勝は、居城が会津・米沢と移された後も謙信のお墓を持って行き、米沢城内に設置して毎日のように謙信のお墓に向けて祈りを捧げていたという。”軍神”という言葉が似合う謙信だけど、本当に神様のように崇められていた存在だったようだ。

 

上杉謙信は49歳頃に脳卒中で亡くなったとされており、こちらにはその際に付けられた戒名『不識院殿真光謙信』も記されている。なお謙信は越後を守る”守護代”の長尾家に生まれ「長尾 景虎」と名乗っていた時代もあり、後に関東管領職の山内上杉家から家督を譲られて「上杉謙信」という名前に変わる。

直江クン
直江クン

昔は色んな呼び名があったから、覚えるのが大変だったよ!

 

 

この上杉謙信の霊廟だけは、近づく事が出来ずで手前の拝殿から眺めるだけとなっている。上杉謙信が亡くなった後、その遺体は甲冑を着せられて大きな甕(カメ)の中に葬られたという。しかもその甕の中に漆を流し込んで固めたとされていて、そういう状態で今も保存されているのであれば、謙信の骨などが綺麗な状態で保存されている可能性がある。

 

しかし明治時代初期にこの地に封印された謙信公の遺体が収められた甕は、開けられて調査される事なく、そのままこの上杉家廟所に収められているのだろう。もし、現代にそのような墓の移転があれば、蓋を開けて中身の調査をされる可能性が高いが、上杉家で最も崇められている謙信公の遺体だけに、そのように甕を開封して調査を行う許可を出す事はたぶん無いように思われるが。

 

こちらはその謙信公が急死して跡継ぎを決めていなかった為に勃発した『御館の乱』で、見事勝利して家督を勝ち取った初代米沢藩主:「上杉 景勝(かげかつ)のお墓である。豊臣秀吉政権時代に”五大老”の1人として会津120万石を与えられて、全国的な有力者になっていった。

 

しかし豊臣秀吉が亡くなると、その後の天下取りに早く動いた徳川家康と対立する。関ヶ原の戦いには参加はしなかったものの、石田三成の西側に協力する立場を取り、会津で家康側の東軍に加担する軍勢(最上・伊達)と戦った。しかし、関ヶ原の戦いで西軍が破れてしまった為にやむなく家康に降伏し、その罰として出羽国米沢30万に領地を減らされて転封されてしまう。

直江クン
直江クン

御屋形様~~!

 

この霊廟では上杉謙信の霊廟が真ん中奥に設置されていて、左側に並んでいる霊廟は偶数代の墓が並べられている。なお、この偶数代は米沢藩主としてではなく、上杉謙信を祖として数えた上杉家の順番である。そしてこちらは米沢藩13代藩主で、最後の藩主となった「上杉 茂憲(もちのり)の記念碑である。

(※以下の文章では、米沢藩主〇代で記載)

 

なお、上杉家では明治時代以降に亡くなった12代藩主から、この米沢ではなく、米沢藩第2代藩主:上杉定勝の娘である長松院(徳姫)が開基となって建立された東京都港区白銀にある「興禅寺」にお墓が移されている。しかし、この上杉茂憲の記念碑は、後に沖縄県令として派遣され、その功績が認められて沖縄県民有志の尽力により、ここにこの記念碑が設置される事になったそうだ。

 

次は米沢藩3代藩主「上杉 綱勝(つなかつ)の墓で、幕府の斡旋で徳川家康の孫、第2代江戸幕府将軍:徳川秀忠の子にあたる会津松平家初代:保科正之(ほしな まさゆき)の長女「媛姫」と婚姻を結ぶ。しかしその媛姫は19歳で亡くなってしまい、その後に継室を迎えるが、子供が出来ないまま上杉綱勝は26歳で急死してしまった。子供もおらず世嗣(よつぎ)も決めていなかった為に、本来であれば”無嗣子断絶”となって上杉家が消滅する危機に陥った。

 

そこで媛姫の父であった保科正之が仲介して、急死した上杉綱勝の妹が嫁いでいた”吉良氏”の長男を跡継ぎに迎える事で決着し、何とかお家断絶を免れた。しかし、このお家騒動により、30万石だった石高が15万石に減らされて領地も一部没収されてしまう。なお、この上杉綱勝の妹が嫁いでいた人物が、あの『忠臣蔵』で赤穂浪士に切り殺される「吉良上野介」である。

直江クン
直江クン

上杉家が一番隠しておきたい事実です・・・

 

その横は米沢藩5代藩主「上杉 吉憲(よしのり)のお墓。先代藩主の上杉綱憲の子供として跡を継ぎ、弟に1万石を渡して支藩である米沢新田藩を立藩させたが、後に藩財政が年々悪化していき、後年の藩主を苦しめる時代に突入していったようだ。

 

 

こちらは米沢藩7代藩主「上杉 宗房(むねふさ)のお墓で、上の5代藩主:上杉吉憲の次男だった人物。6代目米沢藩主は兄が継いだものの、子供が生まれる事なく死去してしまった為に、代わりに藩主に就任する。しかし、上杉宗房の時代も財政難が続き、年貢未納が頻繁に発生したようだ。そしてこの上杉宗房も子供が出来ずに亡くなってしまい、弟が藩主を継ぐ事になる。

 

上杉鷹山のお墓-米沢市の上杉家廟所

そして、こちらが米沢藩9代藩主「上杉 鷹山(ようざん)で、江戸時代の名君を代表する人物として語り継がれている程の人格者だった。上の7代藩主:上杉宗房の跡を継いだ弟:上杉重定もなかなか子供が出来ず、二の舞ならぬ三の舞を防ぐ為に、日向国高鍋藩の秋月家から米沢藩4代藩主:上杉綱憲のひ孫にあたる上杉鷹山を養子に迎えた。

 

上杉鷹山のお墓の札-米沢市の上杉家廟所

この上杉鷹山という名前は藩主を引退した後に付けられた号で、その前までは「上杉治憲(はるのり)と名乗っていた。だから本来は歴史の資料などでは上杉治憲と記載すべきなのであろうが、世間的には「上杉鷹山」という名前の方が有名になり過ぎて、このようにわざわざ「鷹山公」という木彫りの札が設置されているのだろう。

 

上杉鷹山のお墓の景色-米沢市の上杉家廟所

上杉鷹山が養子に着た頃の米沢藩上杉家は、元々の30万石から跡継ぎ騒動の罰として半分の約15万石に減らされて、財政は火の車だった時代。また士族(武士)は上杉謙信時代の誇り高いプライドをそのまま持ち続けており、戦も無い時代にも関わらず藩主も謙信公の意向を継いでか、本来であれば大量に解雇すべき武士をそのまま雇い続けた為に余計に財政が圧迫されていた。

 

その為に上杉鷹山が藩主に就任した頃には、米沢藩の財政赤字が膨大な量になっており、いつ潰れても仕方ない程の状態だったようだ。しかも外様から来た若い藩主に、古来の家臣団が不満を積もらし、鷹山の命令を聞かずに反発した。しかし普通の人間であれば投げ出して帰りたくなってしまう環境でも、養子として来た鷹山は腹を据えて我慢し続けた。

 

なせば成る なさねば成らぬ

何事も

成らぬは人の なさぬなりけり

by  上杉鷹山

そして身に余る不正行為を行った家臣団を処罰し、新しい才能の溢れる家臣を抜擢して財政改革に乗り出していった。

直江クン
直江クン

鷹山公の名言は、心に響くね!

 

そして上杉鷹山のお墓の横には、この霊廟で謙信以外の米沢藩主では無い人物のお墓が見える。こちらは「上杉 顕孝(あきたか)という、上杉鷹山の長男を収めた墓である。上杉鷹山の後はこの長男ではなく、上杉鷹山の先代:上杉重定の次男「上杉治広」(10代藩主)が米沢藩主の座を継いだ。

しかし上杉治広の子に男子が生まれなかった為に、鷹山の長男:上杉顕孝を養子として迎え入れて世嗣(よつぎ)に迎えた。それから英才教育を受けて藩主に就任する時期の前に、天然痘に罹って19歳で亡くなってしまった。

直江クン
直江クン

鷹山公の存在が強かったから、この長男のお墓があるのです!

 

こちらは米沢藩11代藩主「上杉 斉定(なりさだ)で、藩主になる予定だった鷹山の長男:上杉顕孝の死去に伴い、先代藩主:上杉治広の甥として養子になって跡を継いだ人物。幼い頃から米沢城に引き取られて隠居していた鷹山と共に生活をし、英才教育が施された。鷹山の行った財政改革により米沢藩は膨大な借金を返済し、この上杉斉定の時代には安定した藩経営が行われ、また天保の飢饉では優れた判断によって死者を1人も出さなかったとされている。

 

この上杉家霊廟内にはこのように灯篭がそれぞれのお墓前に並べられていたけど、この灯篭もこのように2本の木が縛り付けられていた。これも東北に住まない人にとっては「何で木を縛っているの??」と思ってしまうけど、何mもの豪雪が降る地域ではその雪の重みで建造物が倒壊する事もあるので、灯篭といえどもこのような雪対策が必要なのだろう。

 

そして次は右側に並んでいるお墓を見学していく。こちらは米沢藩:第2代藩主「上杉 定勝(さだかつ)の墓で、初代米沢藩主:上杉景勝の長男である。この上杉定勝を産んだ母親がその年に死去してしまった為に、上杉定勝は代わりに直江兼続夫婦に育てられる事になった。なお、上杉定勝の時代はまだキリシタン弾圧が大きく行われていた時代で、領内で厳しい管理が行われていたようだ。

直江クン
直江クン

この上杉定勝は子供同然だったよ!

 

こちらは米沢藩:第4代藩主「上杉 綱憲(つなのり)で、先程も紹介した『忠臣蔵』で斬られてしまう吉良上野介の長男として上杉家に養子に来た人物である。この上杉綱憲の時代に藩校「興譲館(こうじょうかん)が設立され、上杉鷹山の時代には鷹山の師でもある「細井 平洲(ほそい へいしゅう)(儒学者)が鷹山に嘆願されて教えていた事もある。

 

こちらは米沢藩:第6代藩主「上杉 宗憲(むねのり)の墓で、第4代藩主:上杉綱憲の孫にあたり、『忠臣蔵』で斬られてしまう吉良上野介の曾孫という存在の人物でもある。ただこの時代は着々と米沢藩の財政が悪化していっていた時期なので、後年の歴史家から見れば、あまり注目すべき結果は残せていないようだが。。

 

こちらは米沢藩:第8代藩主「上杉 重定(しげさだ)の墓で、なかなか男子が生まれなかった為に秋月家から鷹山が養子として招かれる事になる。しかし、鷹山を養子に招く事が決定した後に上杉重定に男子が相次いで生まれた。こういう場合はよく跡取り争いが起きる事が多いが、既に一度跡取りを決めていた事もあって、上杉重定は実子ではなく鷹山に藩主の座を譲った。

 

ちなみにその鷹山の藩主の後も、鷹山の実子ではなく、「本来の家柄を優先させる為」との鷹山の考えで、上杉重定の次男(上杉治広)が米沢藩を継ぐ事になる。このように江戸時代を守り続けた藩の藩主も、”親から子供に”という系譜があるのかと思い込んでいたけど、それなりに複雑な家督相続を行っている実態が分かってくる。

直江クン
直江クン

それだけ一家を守るという事が大変だった訳ですよ!

 

こちらは米沢藩:第10代藩主「上杉 治広(はるひろ)の墓で、先代の高名な鷹山公の跡を継いだ上杉重定の次男。ただ鷹山公は表向きは隠居した形になっていたが、裏で実権を握っていた為に、あまり目立たない存在の藩主だったようだ。恐らく本人も財政改革の立役者で苦労人の鷹山公の跡を継ぐという事に、プレッシャーを感じていただろうし。

直江クン
直江クン

改革者の後を継ぐ人間は大変ですよ・・・

 

という感じでこの「上杉家廟所」には、米沢藩主13人中11人の墓が設置されていて、それ以外に上杉謙信公と、鷹山公の子供で藩主になる予定だった上杉顕孝の墓と、合計13人分の霊廟となっている。ちなみに米沢藩主:初代の上杉景勝から8代藩主:上杉重定は火葬で葬られているが、その後の上杉鷹山から11代藩主:上杉斉定までは土葬となっているので、墓に造られている御堂の形も違っているようだ。

(※米沢藩主12~13代は東京都港区の墓に収められている)

 

この霊廟の周りにはこのように背の高い杉の木が植えられて神秘的な雰囲気を感じるが、この林も手入れが必要な為に定期的な伐採をしないといけないようだ。特に近年にはこの霊廟の周辺に住宅が増えてきた為に、嵐などで木々が倒れてしまった場合には地域住民から苦情が来るそうだ。

直江クン
直江クン

上杉家の霊廟の木に文句を言う人がいるのが、現代なんだね!

 

そして上杉鷹山の名はアメリカの大統領だった「ジョン・F. ケネディ」が、”最も尊敬する日本の政治家”として鷹山の名前を口にした事から世界的に知られる存在となった。2014年にはジョン・F. ケネディの娘であるキャロライン・ケネディ駐日米大使がここ米沢の地に来た際に、お忍びでここに来て上杉鷹山のお墓詣りをしたそうだ。

直江クン
直江クン

米沢の鷹山公ではなく、世界の鷹山公となったんだね!

 

このように江戸時代の歴代藩主のお墓が綺麗に管理されている場所は、意外と珍しい。鹿児島:薩摩藩の島津家ではこのような霊廟ではなく普通の墓石のみになっていたし、伊達家や真田家のように1~3代までは豪華な霊廟を建てたものの、藩財政が苦しくなってからは墓石のみになった藩も多い。

 

米沢市の「上杉家廟所」の上空からの景色:Googleマップより

米沢市の「上杉家廟所」の上空からの景色:Googleマップより

こちらは「上杉家廟所」の上空からの景色をGoogleマップで眺めた写真であるが、これを見た人は「やっぱり上杉謙信を中心に造った霊廟なんだな!」と思ってしまうかもしれないが、説明した通り、上杉謙信のお墓は明治時代になってからここに移転されたものである。

直江クン
直江クン

ここで全員一緒に眠っている方がいいよね!

 

全国的にも有名な上杉家だけど、意外と謙信と景勝と鷹山ぐらいしか、一般的な知名度はない。というボクもその3人しか知らなかったけど、この「上杉家廟所」を訪れた事により、それ以外の米沢藩主などの知識を得れてご満悦だったのである。

直江クン
直江クン

是非みんな入場料必要だけど、来てね!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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