米沢の街をブラ歩きながら、米沢藩を治めた上杉家の霊廟を目指す【東北旅行記82】

東北旅行記2020年冬-82:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(While wandering around the city of Yonezawa, aim at the mausoleum of the Uesugi family who ruled the Yonezawa domain.  [Tohoku Travelogue 82])

米沢名物は??

2020年12月に訪れた東北旅で、最後の目的地である「米沢市」にやっと辿り着く。ここ米沢の地には、戦国時代から有名な上杉家が江戸時代に米沢藩として治めていた土地である為に、米沢市内は上杉家一色の街ともなっている。

 

ここ米沢市は、山形県の置賜(おきたま)地方に位置する、県内で第4番目の人口を持つ都市。

 

 

 

米沢の街歩き開始!

米沢駅は西口改札しか出口が無くて、基本的に駅から西側に延びる米沢城跡に向かって、城下町が形成されていた様子が伺える街並みとなっている。ちなみにこの翌日もここ米沢を訪れて、その際にこの反対側の東側を歩いたが、メインの西側に比べると全然街並みが発展してなかった。

 

この米沢駅から西側に延びる方向には、かつて米沢城を取り巻くように城下町が形成されていた場所なので、どんな景観が見られるか楽しみにしていた所、早速道沿いにこのような雰囲気ある建物が見えてきた。

 

この建物は”国の登録有形文化財”にも指定されている、明治30年(1897年)頃に創業された「ホテル音羽屋(おとは)という旅館の本館である。この真ん中の建物自体は明治時代に造られた建物ではなく、昭和12年(1937年)に当時の新館として建てられた3階建ての木造建築物。昭和前期には駅前にこういった旅館が沢山存在していたらしいが、戦後はそれらの旅館からビジネスホテルに移行していった為に、このような昭和前期の駅前旅館が残っているのも全国的に珍しいとか。

 

ただ米沢城の城下町として賑わったのは、もう少し先の方に流れる最上川より西側の場所なので、この辺りはそこまで見所のある建物などは見られない。今では米沢駅へ向かうメインロードという感じの道で、また道を歩いている人もあまり見かけない。

 

米沢駅から5分くらい歩いていると、そこそこな大きさの橋が見えてくる。この先に山形県を縦断するパイプラインとしても活躍した最上川が南北に走っている。江戸時代の商売の様子などを調べてみると、何といってもこの最上川があったからこそ、これだけ山形で商いが発展していった理由が分かるのである。

 

江戸時代にこの山形県で採れた米や名産品は、この最上川の海運を使って日本海側の庄内海岸・酒田の街に運ばれた。その庄内・酒田から日本海側沿岸を廻る北前船に物資が載せられ、京や大坂に荷物が届けられた。また、その帰り便を利用して逆に京などから織物や人形などが運ばれて、弘前の博物館に色んな江戸時代の人形が飾られていたけど、それらの人形はこの北前船の帰り便で東北地方にもたらされた物だったようだ。

 

 

今日の天気は曇りであまりいい天気ではなかったけど、米沢ではこのように上杉家が出迎えてくれるかのように、雲の隙間から太陽の日差しが顔を覗かせていた。やっぱり観光する時には、このように太陽さまが顔を出してくれると、周りの景色もより綺麗に思えるので、なるべく太陽さまが降臨する事を願うばかりである。

 

こちらの橋は「住之江橋」という橋で、最初に架けられたのは1938年で、今のこの橋は2代目で1995年に総費用15億円をかけて架け直された橋となっている。なお、歩道部分に何箇所かバルコニーのように丸く外側に出っ張った部分があるけど、これは昔馬車が走っていた頃に歩行者が退避する場所として造られていたようだ。

 

その時代の名残を残す事もあって、2代目の新しい橋にもそのバルコニー部分が引き継がれているという。

直江クン
直江クン

橋にバルコニーがあったのは、馬車を避ける為か!

 

そしてこの橋の欄干には、このような彫刻作品が設置されているのが見える。この彫刻作品は米沢市出身で、戦後の日本彫刻界を代表する彫刻家だった「故:桜井祐一氏」が製作した物である。

 

 

 

人類の歴史を振り返ると、大きな文明が発展していった所には、大概このような大きな川が流れていた場所が多い。人類が生きていく上で水という物質が必要不可欠な物であるが、それが豊富に流れる場所に人類が住み着いたのは当然の事。そして知恵を働かせるのが得意な人類は、この川の流れを使って荷物を運び、他の川沿いにある都市との貿易を進めていった。

 

 

住之江橋から眺める最上川! 動画

 

 

そして米沢の街の中心地である米沢城跡へ向かう道の脇には、そんな道を歩く観光客を誘惑するかのような店が待ち構えているのである。こちらのお店は「米沢牛 黄木(おおき):総本店」という創業100年の歴史を誇る米沢牛・黒毛和牛専門店で、この辺りでも人気のお店のようだ。

 

 

お店の前には、狛犬じゃなくて、”狛米沢牛”なる像も見られる。なお現代の日本人からすれば、江戸時代の殿様も美味しい牛肉を食べていたのかと思ってしまうけど、実際には牛肉を日本人が食べだしたのは明治時代からとされていて、それまでは日本人は牛を食用の対象として見ていなかった。農耕民族の日本人からすれば、牛は畑を耕す手伝いをしてくれる大切な存在で、場所によっては牛や馬を食べる事が禁止されていた程である。

朋ちゃん
朋ちゃん

米沢牛、美味しそう~~!

 

米沢の街を進んで行くと、こちらの「米沢信用金庫」の大きな看板も見えてくる。地方都市を訪れると、その地方毎にこのような地方銀行や信用金庫などが見られるのが、このような大都市ではマイナーに思える存在の地銀などもその地方にとっては大切な存在なのである。

 

 

そんな風に街散策をしていると、このような派手なデザインのバスが脇を通り過ぎて行った。こちらのバスは山形県内の内陸部分で運行しているバス会社「山交バス」の、『かねたんバス』という都市循環型バスだった。米沢駅まで電車で来た観光客は、このバスを使えば米沢城近くまで向かう事が出来るが、徒歩大好きのボクはこんなバスには乗らずに、ひたすら歩くのであった。

 

直江クン
直江クン

このバスに描かれている『かねたん』のモデルは拙者でござる!

 

今日は米沢城跡ではなく、その近くに造られている上杉家の霊廟(お墓)を目指して歩いていたが、その途中に見かけたお土産物屋さんか、それとも和食料理屋のように見えたこの建物は「米沢信用金庫:西部支店」だった。城下町の一角にあるので、このように建物の景観も、この周辺の雰囲気を崩さないように配慮されていたのかもしれない。

 

ただこのように周辺の景色は、全然江戸時代の城下町という雰囲気すら感じさせない、昭和な街並みが広がっていたが。。

直江クン
直江クン

すっかり米沢の街も変わってしまった・・・

 

米沢駅から米沢城跡までは徒歩で約30分、これから向かう「上杉家廟所」は米沢城よりもまだ先にあって、徒歩で約45分ほどの距離がある。だけどこういった機会にしか、この米沢の街を歩く機会がないだけに、この道中の歩いている時間も楽しい気持ちで歩くだけである。

 

米沢牛の後は、こちらの「米沢そば」の看板の文字が目に付く。ご当地牛のように日本全国で蕎麦が食べられるけど、ご当地蕎麦として全国的に売り出す為に、このような固有名詞を付けてアピールしているのかもしれない。

オカン
オカン

「米沢そば」は、聞いた事ないな~!

 

そしてこの米沢市内の道路脇を歩いている時にず~~っと気になっていたのが、こちらの大きな排水溝のような溝。転落防止柵のような物が上に取り付けられているけど、これだけ格子の枠が大きいと、思わず足が落ちてしまいそうな程に感じた。

 

実は山形県内でもここ米沢市は特に雪が多く降る”特別豪雪地帯”なので、雪搔きした雪を流せる「流雪溝(りゅうせつこう)というのがこのように街中に整備されていたのである。だからこのように格子の枠が大きく、横に掴まる為のパイプ枠が設置されていたのである。

直江クン
直江クン

米沢で最初に迎えた冬は、拷問にも感じたよ・・・

 

上杉家廟所へ向かう途中には、上杉家に関連する寺などが設置されている。こちらの道端に見えたのは「千勝院(せんしょういん)という真言宗醍醐派の寺で、上杉謙信が信仰していた”刀八毘沙門天(とうはちびしゃもんてん)が本尊となっている。元々は越後(今の新潟県)にあったが、上杉家が会津・米沢と移動した際に一緒に移転されてきたようだ。

 

米沢駅からず~~っと西側の方に歩いて来ても、古い町並みなどがあまりなかったので「本当にこの辺りに、上杉家のお墓があるのかな??」と心配になりだした頃に、このような「上杉家廟所⇒」という案内を発見して、少しホッとした気持ちになった。

 

その案内板に従って道を右折すると、奥の方に背の高い杉の木が立ち並んでいるエリアが目に入る。恐らくあの林になっている場所に、上杉家の墓が設置されているのだろうと予感がした。

 

そして上杉家廟所に向かって進んでいると、道端の電柱にこのように「林泉寺 直江兼続の墓所↓」と書かれた案内も発見する。直江兼続というと、ボクにとっては漫画『花の慶次』で主人公の前田慶次の尊敬する友人であり、勇猛果敢で優れた頭脳で軍師としても活躍した武将としてのイメージがあるが、実際に直江兼続は豊臣秀吉から自分の部下になるように誘われた程に、周りからも認められていた人物だったようだ。

直江クン
直江クン

あんまり褒められるとテレます・・・(笑)

 

その直江兼続の墓所:林泉寺は上杉家廟所を見学した後に行く事にして、とりあえず足を進めているとまた別の寺が見えてくる。こちらは「法音寺(ほうおんじ)という真言宗豊山派の寺で、米沢藩主だった上杉家の菩提寺となってきた寺でもある。

 

 

元々は737年頃に聖武天皇の勅命を受けて建立された寺で、源頼朝の祈願寺となった時期もあり、後に上杉謙信の祈願寺になって上杉家の居城:春日城に移転した。しかし、後に上杉家が会津・米沢に移った事に伴い、一緒に移転してここ米沢では米沢城内に安置されていたが、明治時代になって神仏分離令によって、城内から今のこの場所に移されたようだ。

 

この法音寺には、「善光寺如来尊」というインドから552年に日本に仏教伝来した際に持ち込まれたとされる”日本最古の仏像”が保存されているという。この善光寺如来尊は長野県の有名な善光寺にあった物を、川中島合戦の際に信州中野の城主が上杉謙信に託したという。それからは上杉家で大事に保存されているそうだ。

 

 

「上杉家廟所」に到着!

そして米沢駅から歩いて約45分程で、目的地の「上杉家廟所」に辿り着く。近くに来てみるとこれだけ背の高い杉などが生えている場所なのでもっと遠くから見えそうな感じだけど、意外と遠くからは見えない秘密の場所のような雰囲気を感じる場所でもあった。

 

【上杉家廟所】

住所:山形県米沢市御廟1-5-30
営業時間:9時~17時頃
電話番号:0238-23-3115
拝観料:大人400円/中高生200円/小学生100円
近くに30台規模の無料駐車場あり

 

 

この「上杉家」という名前は、日本人であれば誰でも知っていると言っても過言ではない程に知名度もあり、かっこ良くも思える名前である。その源になっているのはやはりあの上杉謙信で、特に甲斐の武田信玄との戦いが有名である。

 

ただこの「上杉家廟所」自体は、米沢藩主のお墓として造られた場所なので、実は昔はここに上杉謙信のお墓は設置されていなかったのである。上杉謙信のお墓自体は上杉景勝が会津・米沢と移動していった際に一緒に動かされていき、江戸時代にはここではなく米沢城内の一角に墓地が設置されていた。その後明治時代になって米沢藩が事実上消滅し、明治9年に米沢城内からこの墓地へ移動されたのである。

直江クン
直江クン

謙信公は拙者の憧れの人物です!

 

江戸時代には城内などの重要な場所ではこのような「下馬」という、馬から降りるようにと書かれた看板や石碑があったけど、その看板の上に自動車や自転車NGのマークが描かれているのが、何とも現代風らしくてちょっと面白い看板であった。

 

この「上杉家廟所」は拝観料が必要な場所で、大人は400円とボチボチな料金設定になっている。というのもこの墓地自体は現代も継がれている上杉家が管理している場所で、自治体の補助金で管理費用の全部が賄われている博物館とは違うので、このようにそれなりの管理料代わりに拝観料を徴収しているようだ。

ちなみに受付のオジサン曰く、「拝観料が必要と知らずに来る人が多くて、また思ったより拝観料が高いから、入らずに帰っていく人もいるよ!」との事だった。

直江クン
直江クン

拝観料が高いから帰るなんて人間は許さん!(怒)

 

ただボクはこの上杉家霊廟を目的に米沢城から約45分かけて歩いてやって来たので、拝観料400円を支払って敷地内に足を踏み入れて行きます。この墓地周辺は住宅街として開拓されている場所だけど、この霊廟だけは背の高い木々に囲まれて、不思議な空間の雰囲気を感じる場所のように思えた。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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