東北旅行記2020年冬-95:山形編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Study the history of people who contributed to the Yonezawa Clan at the Uesugi Museum in Yonezawa City. [Tohoku Travelogue 95])
上杉家の歴史!
ここは米沢市の中心部だった米沢城跡近くに造られている、「上杉博物館」が入っている建物。ここ米沢の地に上杉家が入ってきたのは江戸時代最初で、それ以前は伊達家が治めてたり、他の家が治めていた場所だけど、現代人に向けて判り易いように「上杉」の名前が付けられた博物館となっていた。
住所:山形県米沢市丸の内1-2-1
営業時間:9時~17時頃(※定休日:5月~11月は毎月第4水曜日、12月~3月は毎週月曜日)
電話番号:0238-26-8001
入館料:大人410円/高大学生210円/小中学生110円
「上杉博物館」の見学!
この「上杉博物館」は大きな建物の1フロアだけのスペースだったけど、結構広めに使っていてゆったりした雰囲気を感じた。ただ昔からの米沢の歴史を展示しているというよりは、「上杉博物館」という名前からも分かるように上杉家が移封されてきた時以降の歴史に焦点が当てられているようだった。
関ケ原合戦の際に石田三成率いる西軍に加担した事もあって、徳川家康率いる東軍が勝利を収めた後に上杉家は降伏し、会津130万石だった領地は取り上げられ、代わりに米沢30万石に減封された。かつて上杉謙信の下で名立たる猛将軍団と自負していた武士達を抱える上杉家では、謙信公時代からの”人は斬り捨てない(リストラしない)”という考えを継承し、本来なら石高が大幅に減ると武士をリストラするのが普通だったが、上杉景勝は全員を米沢に連れて行ったという。
リストラしないというのは素晴らしい考えだけど、実際にはシンドかったよ・・・
豊臣秀吉時代には東北の雄である伊達政宗や最上義光を東北で牽制させる為に、会津の地に上杉景勝が配置されていた。しかしその秀吉が亡くなると、秀吉が懇意にしていた大名はことごとく家康に蹴散らされて、不遇の江戸時代を迎える事になってしまった。
そんな上杉家は石高120万石から30万石に減らされただけでも大変だったのに、米沢藩3代目藩主:上杉綱勝(つなかつ)の時代に跡取りが居ないまま亡くなった”お家騒動”が起きて、その騒動の処罰として更に半分の15万石に減らされてしまう。しかしそんな財政的な窮地に陥っても、上杉家は謙信公の意向を尊重して武士のリストラをしなかったという。
しかし現実にはそんな解雇されなかった武士もろくに給料が貰えなかった為に、下級武士は家の裏庭で農作物を栽培するように強制されていた。だから島津家の薩摩藩と同様に、多くの武士を抱えていながらも、その武士達は実際には刀の稽古ばかりをしていた訳ではなく、このように農作業に多くの時間を費やさらざるを得なかったようだ。
こちらの肖像画は、あの『愛』の前立てでも有名な直江兼続のもの。謙信亡き後の上杉家を率いた上杉景勝の筆頭家臣として、右腕というより両腕の存在だった直江兼続。一見猛将として名高く武勲に優れた武将かと思っていたけど、それだけではなく、内政にも優れた能力を発揮し、限られた30万石という少ない米沢の地でもより多くの米が獲れるように全力を尽くした。
その甲斐もあって米沢の地では石高30万石に対して、実際には50万石程の米が作られたという。戦国時代までの武将は、何よりも戦場での戦いの能力が大事だったが、戦乱が無くなって平穏な時代になった江戸時代には、内政能力がより必要となっていった事だろう。
直江兼続は米沢の地を開墾させると共に、最上川の氾濫を防ぐ為に川原石を積み重ねた”直江石堤”を築き、また次なる戦に向けて鉄砲作りやその鉄砲の射撃訓練などにも精力的に取り組んだ。直江兼続は内政だけではなく、いずれは徳川家康を討つ事を想定していたのかもしれない。
こう見えて、長い物には嚙みつく性格なんでね!
こちらは「原方衆(はらかたしゅう)」と呼ばれた、米沢藩の下級藩士の暮らしを紹介しているコーナー。上杉家は会津から米沢の地に減封されてきた時に、6000人近い家臣団をそのまま連れて米沢入りをした。しかし、そんな大量な家臣団を住ませる住居も無かった為に、下級武士達はバラック小屋を作ってそこで生活せざるを得なかった。
そしてそんな大量の下級武士達は、米沢の色んな土地に配置され、半士半農の生活を送った。下級武士は解雇はされなかったものの、実質的に武士としての役割は少なくなり、農民として働く時間の方が増えていった。現代に例えると、リストラはしないけど、社内の違う部署に配置換えされていったような感じだろう。
そらリストラしなかったら、何としてでも働いてもらうしかなかったもんね・・・
こちらには原方衆と呼ばれた下級武士が暮らしていたとされる家と、その裏の畑などがミニチュア模型で再現されていた。上杉謙信時代のプライドを抱えた武士にとっては、屈辱的な農作業を強制させられる事には大きな抵抗があっただろうが、そうしないと上杉家が財政的にやっていけない事を重々に承知していただけに、せざるを得なかった事だろう。
国宝のある「上杉文華館」
こちらの部屋は「上杉文華館」という、国宝となっている『紙本金地著色洛中洛外図』や『上杉家文書』などが展示されている部屋。ただしこの部屋内の展示品は全て”写真撮影禁止”となっており、残念ながらその歴史的な作品は写真に収める事が出来なかった。
ここで展示されている『上杉家文書』には、あの上杉鷹山が書いた書や、その鷹山の師匠でもある「細井平洲」の書なども飾られている。ただ昔の時代の人は達筆すぎる書体で書かれている書状が多いので、現代人からすれば殆ど読めない書物にもなっているが。。
読めないのか、読む能力を失ってしまったのか?
こちらは上杉家の家紋である『竹に雀(上杉笹とも)』。ただこのような家紋も1家に対して1家紋と決まっていた訳ではなく、複数の家紋を使いまわしていたようだ。また、その家特有の家紋ではなく、同じ家紋を使う家が他にも存在していたりで、この上杉家の『竹に雀』も元々は伊達家から贈られた家紋らしく、それを少しアレンジして使っていたようだ。
江戸時代には関ヶ原で西軍に加担した外様大名はどこも藩財政が厳しかったようだが、米沢藩でも色んな辛い出来事が多かったようだ。しかし江戸時代の約270年間に渡って、家を守り続けた大名ほどに、そのような難行苦行の道をバネにして進み続けてきた事だろう。
こちらは「処刑場:北山原に向かう甘粕右衛門一家」というタイトルになっている。甘粕右衛門は米沢藩の上級武士でカトリック信者だった人物だが、上杉景勝の時代は江戸幕府からのキリシタン弾圧要請に対して、景勝が防壁として立ちはだかり、「領内にはキリシタンなどいない!」として見過ごされていたという。
しかしその上杉景勝の死後、2代目藩主となった上杉定勝(さだかつ)の時代に、江戸幕府の取締りが一段ときつくなり、それに抵抗できずに領内のキリシタンを処刑せざるを得なくなってしまった。なお、上杉家はこの米沢の前に治めていた会津の地で、その前に治めていた蒲生氏郷が自身もキリシタン大名となって公に認めていただけに、その影響で米沢藩にも多くのキリシタンが存在していたようだ。
こちらは「綱勝(つなかつ)の急死、米沢藩30万石から15万石へ」という内容になっている。このように跡継ぎを残さずに急死してしまうのは、現代みたいに医学が発達していなかった江戸時代には日常茶飯事で起きていた騒動でもあった。そのお家騒動で改易となってしまった家も多かったようだが、上杉家は保科正之という家康の孫にあたる存在の人物と縁を結んでいた影響で何とか窮地を乗り切ったが、その処罰としてただでさえ少なかった石高が更に半分に減らされてしまうのであった。
こちらは「宝暦の飢饉と打ちこわし」で、1755年に発生した”宝暦(ほうれき)の飢饉”で怒りに満ちた民衆が米を大量に蓄えた商人の蔵を襲った事件である。昔は米中心の生活だったので、天候が悪くなって稲作の出来高が大幅に減ると、餓死者が多く発生していたようだ。またこの頃になると商売で儲けて裕福になった商人などが幅を利かせて、米の値段も足元を見て高く販売しようとしていた事に対して、庶民がブチ切れたようだ。
「森平右衛門」とは米沢藩8代藩主:上杉重定(しげさだ)の時代に米沢藩士だった人物で、後に藩政を一手に任されると財政改革などを進めて、今までの米沢藩支配構造を一変させた。しかし、森平右衛門は徐々に自分の手が掛かった人物や商人を待遇していき、その独占的なやり方に大きな不満が起こり、最終的には江戸家老だった竹俣当綱に刺殺され、森平右衛門家は苗字断絶&家財没収となってしまう。
上手く行くと人間は欲が出てくるから、難儀なんだよね・・・
「上杉鷹山コーナー」にて
そしてここからは、あのケネディ大統領も尊敬していたという「上杉鷹山」コーナーが始まる。現在の米沢が成り立っている内情を調べると、この上杉鷹山が行った政策による物が多く見受けられて、今の米沢に大きな影響を及ぼしていたのが判る。また江戸時代中期~後期の人物は、その資料などが戦国時代の人物に比べて比較的多く現存している事もあって、より詳しく調べられていて、充実したコーナーになっている事だろう。
米沢藩9代藩主に就任した上杉鷹山だが、勿論その成し遂げた改革は1人で行ったものではなく、こちらに描かれているように多くの人物と一緒に成し遂げた偉業である。いくら優れた殿様でも自分で田畑を開墾する訳でもなく、指示して動いてもらう人間が必要であった。
こちらには特に上杉鷹山に影響を与えたり、その下で大きく働いた人物が描かれているが、まず注目すべき人物は一番右に描かれている「細井 平洲(ほそい へいしゅう)」だろう。この細井平洲は江戸時代の儒学者で、藩主となる上杉鷹山の師として招かれた人物である。なので上杉鷹山の打ち出した政策の基本的な考えは、この細井平洲から教えられた内容が多く、優れた人物には優れた師が居たという事である。
こちらは左側に、カラムシという多年生植物から採れる「青苧(あおそ)」と呼ばれる、衣料用の繊維として米沢藩初期の収入源となっていた代物が置かれている。昔はまだ木綿が普及していなかった時代で、直江兼続がこの青苧の増産を促進して、織物が盛んな京で売り捌いて貴重な収入源となっていた。
江戸時代には全国の大名に浪費させる施策の『大名行列』や、『御手伝普請』とも呼ばれる大名に費用を負担させて行う土木工事などの積み重ねで、江戸時代中期に差し掛かる事には多くの大名で財政難に陥っていた。それと共に藩内では世襲制で家老職などが安泰となっていた為に、上級家臣の家系に生まれた子は庶民や農民をバカにした存在に思っていた。そんな農民たちをバカに思っている家臣団が携わっていた藩政は、当然の如く上手く行かないようになっていく。
現代の政治家連中を見ていてもよく分かるように、初代で苦労した人物の名声を引きずって当選した2世や3世議員達は、自分が先頭に立って改革を行うというよりは、政界で強い影響力を持つ人物の顔色だけを伺う人間になり易い。そのように腐った政治は、実は江戸時代には当たり前に行われていたようだ。というのも天下を支配していたのが徳川家で、その反対勢力も出てこなかった為に一党独裁態勢が確立していたからだ。
独裁が長引くと、腐敗が蔓延る!
上杉鷹山が藩主となって最初に苦労したのが、まずそういった身内の考え方を変える事だったようだ。特に上杉家の武士達は謙信が生きていた時代は知らない武士達が、いっちょ前に謙信時代の武士達並みのプライドを持ち続けていた為に、藩主に就任したといっても若造だった鷹山の指示には従わなかったという。
まず改革は自分から行うのが一般的だが、長い歴史を持つ上杉家では、逆にその歴史が仇となってしまって財政を悪化させる一因ともなっていた。それに対して外の家からやって来た鷹山は家臣団からも舐めて見られていた事もあって、我慢の連続だったようだ。しかしそんな我慢ばかりしていた鷹山も終いに目に余る行いを続けていた家老達を処罰し、前に進む決意を固めた。
時には思い切った決断も必要だよ!
こちらは「笹野一刀彫(ささのいっとうぼり)」という、上杉鷹山の時代に奨励された名産品の1つである。この米沢の地は冬には豪雪が降る地域なので、南国と違って農作業が行えずに、家の中で時間を過ごすだけとなる。そこで鷹山は家の中でも行える「笹野一刀彫」に注目し、米沢市笹野地区の農民に冬場に”コシアブラ(漉油)”の丸い木を刃物で削って彩色して冬場にも外貨を稼げるようにしたという。
ほんと、米沢の冬は大変だよ・・・
こんな旅はまた次回に続きます!
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