米沢市の宮坂考古館で前田慶次の鎧兜を見てから、上杉博物館へ向かう【東北旅行記94】

東北旅行記2020年冬-94:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(After seeing Maeda Keiji’s armor at the Miyasaka Archaeological Museum in Yonezawa City, head to the Uesugi Museum.  [Tohoku Travelogue 94])

上杉家の兜がカッコイイ!

さて東北旅の最終日に前田慶次が晩年を過ごしたという米沢の地を見学出来て充分に満足した後は、米沢市内にある博物館へと向かう事にした。ただこの米沢市内でも駅の東側に滞在中には、全然観光客らしい人の姿も見られず、また地元民の姿も見られなかった。

 

 

「宮坂考古館」の見学!

そしてJR奥羽本線の線路を西側に渡って進んで行き、米沢駅の南側にある「宮坂考古館」という資料館に向かう。米沢の歴史的な資料などは米沢城近くに造られている上杉博物館に全部収められているのかと思っていたけど、「宮坂考古館」は個人のコレクターが集めた品々が保管・展示されているようだ。

 

この「宮坂考古館」は故:宮坂善助氏が、80年近くの間に700点近い貴重な資料や文化財を収集した物が展示されているという。そしてその収集した文化財などは1962年に私設博物館として一般公開され、現在は公益財団法人が運営する博物館となっている。

 

【宮坂考古館】

住所:山形県米沢市東1-2-24
営業時間:10時~17時/冬は16時頃(※月曜定休日)
電話番号:023-823-8530

入館料:大人400円/大高生300円/小中学生100円
※館内は写真撮影禁止!

 

 

この地域はかつて「上花沢信濃町」という町名だったらしく、米沢に移封されてきた上杉家の下級家臣団を住まわせた場所で、上杉家のかつての居場所であった「信濃」の名前が付けられていたという。

 

この「宮坂考古館」は月曜日が休館日となっていたので、昨日米沢に来た時に見学出来なかったので、今日はリベンジである。しかもこの博物館にはあの前田慶次が所用していた、『朱漆塗紫絲素掛威五枚胴具足』という鎧兜も展示されているので、漫画『花の慶次』ファンにとっては必ず訪れたい場所でもある。

 

それ以外にも直江兼続の『愛』という前立てじゃ無いVerの鎧兜や、上杉景勝の鎧兜なども展示されているので、戦国時代好きな人間にとっても訪れたくなる場所でもある。ただし「宮坂考古館」は残念ながら”写真撮影が禁止”となっていたが、収集されているその鎧兜は公式ホームページに写真が貼られているので、それを見れるだけで幸せである。

 

 

そして写真撮影が出来ない代わりとばかりに、建物の前に前田慶次が所用していたという鎧兜のパネルと、その前田慶次のマスコットキャラクター「けーじろー」のパネルが置かれていた。どんどん鎧兜作りに芸術性が増していった江戸時代とは違って、実戦重視で黒い色の鎧兜が多かった戦国時代に、このような赤い漆塗りが施されているデザインに、”傾奇者”と謳われた前田慶次らしさを感じれた気がした。

直江クン
直江クン

戦国時代に目立つ鎧兜はNGだったんだけどね・・・

 

なお「宮坂考古館」には700点あまりの収集品があるというが、余程の専門家で無ければ目立つ鎧兜数点を見物するだけでお腹いっぱいになってしまった。また写真撮影も出来ないという事もあって、20分ほどの滞在時間を経て今度は上杉博物館へと向かう事にした。そしてそんな道中には、このように豪雪地帯ならではの除雪車が道端で普通に見られた。

 

そしてまた米沢城近くまで、再び歩いて向かう。お年を召した方にとってはこのような歩き回る旅よりも、バスに乗ったりタクシーを一部使ったりしないと疲れると思ってしまうだろうが、その旅先で疲れる程の行動が後になっていい思い出として記憶に残る事が多いのである。

オカン
オカン

アンタと一緒に行った旅は、疲れた事しか覚えてへんで・・・

 

地方を歩いていて思う事は、このように一般道を歩いているとあまり現地の人が歩いていないという事だった。特に田舎の場合はみんな車が無いと不便な為に、一家に数台自家用車を持っていたりするので、そういう状況ではあまりこのような道を歩こうという人がそこまで居ないみたい。

 

なお、宮坂考古館から上杉博物館までは徒歩で約30分の距離。

 

そして米沢の街を散策していると、このように「米沢ラーメン」の旗が見えてくる。昨日は結局米沢らしい食事を満喫する事が出来なかっただけに、今日は早い内から何を食べるかとアンテナを張っていた為に、このような食べ物の旗に反応したのである。

 

トコトコと歩いていると、昨日も訪れた米沢城跡に到着する。やっぱり日本の地方を訪れると、そこにかつてあった城を中心として栄えてきた歴史があるので、このような城跡に引き寄せられてしまうのかもしれない。

 

 

米沢市上杉博物館の見学!

そしてその城近くにある、こちらの大きな「伝国の杜(米沢市上杉博物館・置賜文化ホール)」へと向かう。昨日来た時にはここも休館日だったので、こちらも本日リベンジでやって来た場所だ。

 

【米沢市上杉博物館・置賜文化ホール】

住所:山形県米沢市丸の内1-2-1
営業時間:9時~17時頃(※定休日:5月~11月は毎月第4水曜日、12月~3月は毎週月曜日)
電話番号:0238-26-8001
入館料:大人410円/高大学生210円/小中学生110円

 

 

やっぱり地方を訪れると、このような博物館見学は欠かせない。人によってはその土地の美味しい料理や綺麗な景色を見るだけで満足する旅行者も多いけど、やっぱり今目の前に見えている景色や物には全て歴史が必ずあるので、その歴史を勉強する事によって今後の人生を豊かに構築する事が出来ると思っている。

オカン
オカン

頑張って勉強し~や~!

 

この博物館が入っている建物は2001年に造られた建物だけあって、館内は比較的綺麗で、それなりにゆったりした展示スペースとなっていた。そして普通の博物館には見られない「上杉」という個人の名前付き博物館だけあって、伊達が治めていた米沢ではなく、完全に上杉家の米沢といった印象を受けた。

仙台の政
仙台の政

ボクはここ米沢で生まれたんだけどね・・・

 

上杉家というと上杉謙信を想像する人が多いけど、逆にその謙信の後の時代にどうなったかを知っている一般人は少ないと思う。というボクもちょっと前までは謙信時代以降の上杉家の経歴を知らなかったが、この米沢での活動旅行記を作成している内に、それなりに上杉家の歴史に詳しくなってしまった。

 

天下分け目の合戦「関ヶ原の戦い」で上杉家はどういう立場でどう動いたか? を詳しく説明できる人は恐らく歴史マニアであろう。史実では上杉家は徳川家康を敵対視しており、石田三成の西軍に加担していた。しかし関ヶ原の戦いには加わらず、この東北の地で東軍に加担した最上家や伊達家と戦った。だが関ヶ原の戦いで西軍が敗北したという知らせを受けて、最終的には徳川家康に降伏して、会津120万石から米沢30万石に減封されてしまった。

 

こちらは上杉謙信が所用していたという『色々糸威黒小札腹巻』で、上杉神社の稽照殿に保管されている逸品の前立てのレプリカ。この鎧兜は一説には織田信長から贈られた物と言われているが、前立てには信濃国の神様『飯綱権現(いづなごんげん)がモチーフとして入れられている。

 

上杉謙信というと隣の甲斐の国を治めていた、戦国時代随一の名将だった武田信玄との”川中島合戦”がとても有名だが、その時の有名な逸話で「敵に塩を送った」というのは一部には裏が取れていなくて、史実とは確認出来てないという。

 

この上杉博物館には、国宝に指定されている『紙本金地著色洛中洛外図』(狩野永徳筆)が保管されている。なお、博物館内で展示されている洛中洛外図は複製品となっており、また2000通にもわたる『上杉家文書』も国宝に指定されている。

 

こちらの丸い小判の前立ては、上杉景勝が所用していたという『紫糸威伊予札五枚胴具足』のレプリカ。こちらもさっきの謙信の鎧兜と同様に、上杉神社の稽照殿にて保管されている逸品。冬場は稽照殿が閉館しているので実物を拝める事が出来なかったけど、この上杉博物館でレプリカが見れただけでも幸せである。

 

 

ただこの前立てはレプリカなのでこのように綺麗に金色の発色をしていたけど、稽照殿で保存されている実物は約400年も前の物なので、ヒビが入っている箇所があったり、ここまで綺麗に反射する程の代物ではないようだが。。

 

そしてこちらも上杉神社の稽照殿にて保管されている逸品で、直江兼続が所用していたという『金小札浅葱糸威二枚胴具足』の有名な『愛』の文字が入った前立てのレプリカである。こちらも稽照殿で現物が見れなくて残念だったけど、ここに展示されているレプリカの方が、見た目には綺麗だし、写真撮影も出来るしで結果オーライ的な感じだったが。

直江クン
直江クン

そりゃ、やっぱり現物の方が味があって良いんだけどね・・・

 

戦国時代の武将が使っていた鎧兜の前立ては、結構面白い作品が沢山残されている。このような漢字以外にも、その地方の特産品などが象徴として使われており、瀬戸内海を守っていた武将では「蟹」の形をした前立てが残っていたりするのだ。

 

こちらの行列は、徳川家康が天下を獲った後に米沢に移封となった上杉家が、米沢入りをした時の様子を再現した模型。豊臣秀吉が存命中から敵対視していた家康に天下を獲られたが、お家存続の為にやむなく頭を下げて降伏し、島流しのようにここ米沢の地にやって来た上杉家。

 

しかも領地は120万石から30万石と大幅に減らされ、これから暗い未来が待っていると判っているだけに、この大名行列で行進している人達はやや下に目線を向けた状態で、足取りが重たそうに見える。ネガティブ思考では何も良い事が無い米沢入りのように思えるけど、逆にポジティブ思考で考えてみると、命があって上杉家存続が許されたという事だけで充分に素晴らしい事にも思えるが。。

直江クン
直江クン

実際にその立場になると、ネガティブな思考しか思い浮かばないよ・・・

 

こちらは上杉謙信の旗印でもお馴染みの「毘沙門天」の1文字を取った『毘』という文字。謙信は戦いの前には一週間程籠って祈りを捧げる程に信仰心が強かった人物とされており、また大名時代にはその立場に愛想を尽かして、いきなり「出家する!」と飛び出していった程だったようだ。。

直江クン
直江クン

謙信公のいきなりの家出騒動は、本当に衝撃的で困ったよ・・・

 

こちらも上杉謙信の旗印でもう一つの「龍」という文字。”越後の龍”とも称された上杉謙信を祖としていた米沢藩上杉家だけに、上杉謙信公の存在は神様と同一視していた程に崇められていたようだ。ただ上杉家自体は謙信時代より前から続いていた家柄だけど、ここ米沢ではこの謙信からスタートという扱いだった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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