明治時代初期に建造された「済生館本館跡」で、当時の医学資料などを見学!【東北旅行記68】

東北旅行記2020年冬-68:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Visit the “Saiseikan Main Building Site” built in the early Meiji Era to see the medical materials of the time! [Tohoku Travelogue 68])

医学の進歩!

この建物は「済生館(さいせいかん)という現在は山形市立病院となっている、明治11年に建造された病院跡の建物。元々は私立病院として創設した病院であるが、1904年に山形市に建物が譲渡されてから、それ以降に市立病院となっている。そして今ではこの建物は歴史的な建造物として保管されており、内部は「郷土館」として山形の歴史的な資料などが収められている場所になっている。

 

【山形市立郷土館(旧済生館本館)】

住所:山形市霞城町1番1号
営業時間:9時~16時30分頃(※年末年始休み)
電話番号:023-644-0253
入館料:無料

 

 

 

「山形市立郷土館(旧済生館本館)」の見学!

このフロアはその済生館本館の2階部分で、外側から眺めた際に三層構造になっていた部分の2階部分。都合4階建になっている建物だけど、老朽化の影響もあって自由に見学できるのはこの2階部分までとなっている。

 

こちらの地図は「最上氏が治めていた頃の山形城下の地図」だが、この地図時代は昭和5年頃に読みやすくした内容で印刷された物で、そこまで古い地図ではないようだ。最上氏が山形藩を治めていた時代が江戸時代でも最も石高があって繫栄していた頃で、その後は坂道を転げ落ちるように転落していく事になる。。

 

こちらの地図は明治10年(1877年)に売り出そうと作られた地図であるが、いざ地図が完成というタイミングで山形市内の道路などが土木事業によって大きく変化した部分が出てしまい、売り出しを諦めてお蔵入りしてしまった地図のようだ。この頃は三島通庸が尽力して、山形市内を新しい効率のいい街並みに造り替えたが、その裏ではこういった地図などが犠牲になっていたようだ。

 

こちらは「改正鉄道地図」という明治43年に発行された鉄道路線図で、明治初期に国内に導入された電車の路線が明治時代の終わりには既に国内中に張り巡らされていた事が分かる。この鉄道の普及によって人類の移動範囲が大きくなり、また旅などをする人達も増えた事だろう。

 

この明治時代に設立された私立病院「済生館」の名前は、尊王攘夷:討幕派で中心的な人物でもあった公卿の「三条 実美(さんじょう さねとみ)が命名した名前となっているようだ。「済」の文字が「濟」という古い旧字体になっているが、その字が明治時代に書かれた雰囲気を感じさせてくれている。

 

こちらは『萬國史略』という、明治7年に文部省が発行した歴史教科書。こちらのページはアメリカの南北戦争を説明しているページのようで、挿絵にはリンカーン大統領のような顔が書かれているのが見える。ただしその名前は「リンヨルン」という明治時代の呼び方で表記されていたが。

 

今から約140年前に造られた病院跡の建物だが、現在も残っているのは建物保存の為に修理したからでもある。こちらには昭和40年代前半に補修された際の事が記されているプレートも見られたが、多くの資金と人手によって支えられて今日がある。

 

こちらの螺旋階段は3階へと続く物だけど、残念ながらこれ以上は上に行けないようになっている。不特定多数の来場者がやって来る観光施設ともなっているので、万が一階段が崩壊した際の事などを考慮して、上の階には入れないようにしているのだろう。

 

この建物が造られた明治11年頃には、洋風建築物というよりは、洋風建築物に似せた”疑似洋風建築物”という洋風建築物と日本建築物の良さを融合した和洋折衷の建物だったようだ。洋風建築物を海外からそのまま導入するよりも、日本の建物らしさを加える事によって、より日本に馴染みやすい建物となっていった事だろう。

 

 

2階部分にはそこまで展示スペースが無かったので、登ってきた階段を降りて1階へと戻っていく。なお、この1階と2階を結ぶ階段は、先程見た3階へと登る螺旋階段とは違って、このように長めの通路のようになっている階段となっていた。

 

今では役目を終えて静かな老後を過ごしているような建物となっているけど、現役で使われていた今から100年程前には、色んな患者や勉強中の医師で溢れかえっていた場所だったのかもしれない。しかし今ではこのように、静かに時を刻む場所となっていた。

 

こちらの扉の手前には「往診用の人力車」が飾られていて、大正時代の1921年頃に実際に使われていた医者の人力車だったようだ。この頃はまだ車という近代的な乗り物が殆ど普及していなかった時代なので、このような人力車がそこら中で重宝されていたようだ。

 

江戸時代までは前後に担ぎ手がいる籠を使って移動する方法がメインだったが、明治時代になって人が曳く人力車の方が、馬を飼って曳かせるよりもコストが安かった為に普及していった。そして日本ではこの人力車を国内で生産して、海外に輸出して一時は人力車ブームになった国もあったようだ。特にインドには1万台近くが出荷されて、今でも三輪自動車などを「オート・リクシャー」と呼んでいるが、それは「力車(リキシャ)の名称の名残だそうだ。

 

こちらは錦絵で御婦人のお腹の中に、まだ胎児が入っている様子を描いた物。このようにお腹に穴が空いたように胎児が見える絵って、あまり見る事がない珍しい構図のようにも感じた。

 

こちらは『蔵志(ぞうし)という、1759年頃に発行された”日本最初の解剖書”とされている医学書。江戸時代の医学者だった山脇東洋が作った医学書で、それまでは人体の解剖が禁止されていた為に、人体解剖するまではカワウソを解剖して、研究を進めていたという。その後の1754年に京都所司代から斬首刑に処された死体の解剖が許可された。それもあって左に見える人体図には、首から上が無いのである。

直江クン
直江クン

人体を切り刻むなんて、なんと恐ろしい・・・

 

それまでの古来中国から伝わる医学に疑問を持っていた「山脇 東洋(やまわき とうよう)が、解剖学という新しい医学のジャンルを切り開いた事もあって、その影響を受けて後に杉田玄白などが行った解体新書などのオランダ医学書の翻訳へと繋がっていったのである。

直江クン
直江クン

斬首された罪人も、人類の役に立てたんだ!

 

こちらはこの済生館本館の設計図であるが、当初建造された時の設計図は見当たらなかったので、昭和40年代に解体・移転した際に改めて作成された物となっているようだ。このような現代でも珍しい外観をしている建物が、明治11年頃の山形市内に造られた事もあって、当時の山形市民の目が釘付けとなっていた事は想像にも難くない。

 

このような建物もよ~~く観察してみると、細かい点に設計した人物のコダワリを感じれるポイントが出てくる。個人的にはあまり建物の細かい所まで見ないけど、建築家の人だと、このような歴史ある特徴的な建物を訪問するのが楽しくて仕方ないと感じる事だろう。

 

この明治11年に建造された建物で、西洋風に4階建の建物と共に、丸い回廊の建物が造られて現存しているのは国内でも珍しい。海外では家の中に中庭を造るのが多い国もあるけど、日本ではこういう構造の建築物は比較的少ないようだ。

 

 

こちらの肖像画の人物は「佐藤周吉」という、この山形の地で宮大工をしていた人物で、この済生館の建築にも尽力した人のようだ。この建物の設計は「筒井明俊」だが、地元山形の宮大工約300人を集めて、およそ7ヶ月という短期間でこの建物を完成させたようだ。

 

こちらは明治時代後半に医学学校の教授向けに配布された「人体生理図」で、等身大に近い大きさの人体図となっている。また動脈と静脈が色分けされており、ほぼ厳密に細かい部分まで血管などが記載されており、この当時で既にこれだけ人体について知識があった事が伺える一品となっている。

 

このように今では医者に行けば簡単に診察してくれるけど、このように何百年もかけて医学者がコツコツと積み上げてきた知識の上で現代医学が成り立っているのである。そう思うと、これまでに尽力してくれたこのような医学者にもっと感謝して生きる必要があると感じてしまう。

 

こちらには手術で使われる器具などが展示されていたけど、怖がりの人によってはこのような手術器具を見るだけで怖くなってしまう人もいるかもしれない。そういうボクもあまり血には強くなくて、中学生の頃に採血をした後に待合室で失神してしまった事もあったので、あまり血が噴き出る場面は想像したくはないのだが・・。

直江クン
直江クン

誰でもそうだよ・・・

 

このようなハサミなどもあまり見たくはないけど、人体を手術するにはその部分毎にこれだけの種類の器具が必要になってくるのだろう。この沢山種類のあるハサミ群を見ただけで、その手術対象である人体の構造の複雑さが理解できる。

 

こちらの本はあの有名な『解体新書』である。この医学書自体はオランダで発行された物であるが、江戸時代には鎖国中でもオランダだけと交易を行っていた事もあって、このような蘭学書が日本国内にも流通していた。そしてその蘭学にハマった蘭学者が翻訳作業を行い、先進国でもあった西洋文化に取りつかれる人が増えていった。

 

こちらには現在入場する事の出来ない、3階&4階部分の写真が飾られている。4階部分にはバルコニーも造られており、もしこの4階バルコニーまで入場できるのであれば、この施設も入場料が有料となっていたかもしれない。

 

こちらは三島通庸が切り開いた、明治14年(1881年)頃の「山形県庁前通り」の写真である。これまでの江戸時代にはこれだけ広い通りが殆ど見られなかったけど、これから大きく発展する都市にはこれだけ広い道が必要だと先見の明があった事が伺える景色となっている。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ

↓↓↓↓東北旅行記:初回↓↓

雪一面の青森空港に降り立ち、東北地方横断の旅が始まる【東北旅行記①】
2020年12月1日に降り立った、雪一面の景色が広がる青森空港。その白い大地を踏みしめて、7泊8日に渡る東北地方の旅が始まりを告げるのであった。。
タイトルとURLをコピーしました