昔は日本国内で5番目に大規模だった山形城とは思えない、現在の城跡【東北旅行記69】

東北旅行記2020年冬-69:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(The ruins of the current castle, not unlike Yamagata Castle, which was once the fifth largest castle in Japan.  [Tohoku Travelogue 69])

発掘作業中の本丸跡!

さて「済生館本館跡」の建物内の見学を済ませて、再び山形城跡の本丸付近に戻ってきました。目の前に見えているこの橋は「一文字門」に架かる木造の橋で、近年に復元された物となっている。そしてこのような橋は構造を見れば分かるように、もし敵が城内に侵入してきた際にはこの橋を落として本丸内に入れないように、いつでも壊せる事を想定していたようだ。

 

【山形城跡/霞城公園】

住所:山形市霞城町1
開園時間:5時~22時頃(※入園無料)

 

 

 

「山形城跡/霞城公園」の見学!

この本丸の周囲には堀が築かれていたが、その深さは7m程になっており、本丸側には高さ約3mの土塁が造られていたので、堀の下からは約10mの高さで守られていた。日本には中世ヨーロッパでよく使われていた投石器などが無かったので、このように侵入しにくい城を築いたが、明治時代になってヨーロッパから大砲も入ってきた為に、このような構造関係無しに遠距離砲撃によって城が壊滅してしまう時代になっていくのであるが。

 

この山形城を中心とした山形藩は最上氏が興した藩であるが、江戸時代が終わるまでの約270年間の間に、なんと14もの家が代わる代わる交代していった場所でもある。最上氏が3代で改易された後は譜代大名が飛ばされてきたが、当初57万石だった石高が最終的に5万石に落とされるという貧しい藩に落ちていった。

 

【山形藩の歴代藩主】
①最上家(3代) 1600~1622年
②鳥居家(2代) 1622~1636年
③保科家(1代) 1636~1643年
④越前松平家(1代) 1644~1648年
⑤奥平松平家(1代) 1648~1668年
⑥奥平家(2代) 1668~1685年
⑦堀田家(1代) 1685~1686年
⑧越前松平家(1代) 1686~1692年
⑨奥平松平家(2代) 1692~1700年
⑩堀田家(3代) 1700~1746年
⑪大給松平家(1代) 1746~1764年
⑫天領(江戸幕府の直轄地時代) 1764~1767年
⑬秋元家(4代) 1767~1845年
⑭水野家(2代) 1845~1870年
直江クン
直江クン

覚えるのが大変な程の、入れ替わり様だね・・・

 

その本丸の東側に架かる木造の橋近くの堀部分に、このように石垣に使われていたような石の残骸が置かれているのが見える。こちらは江戸時代後期に石垣が崩落した際に、そのまま放置された場所と考えられている。江戸時代後期には石高も大きく減らされていただけに、わざわざ活用していない本丸の石垣を大金払ってまで補修する必要も無かったようだ。

 

ただし考古学的観点からすると、この石垣崩落の際に放置された事によって、その当時に使われていた瓦なども混ざっていた為に、より山形城跡の歴史的な事実を究明できる材料が手に入ったようだ。当時の人間からすると「ゴミ」という認識しかなかった崩落した石垣だが、その200年後位になると歴史的な資料として喜ばれているとは、何とも面白く思える。

 

ただこの山形城本丸内には暖かい時期であれば入場できるのだが、この冬場は積雪が増えてくる事もあって、本丸への入場は閉鎖されていて、遠くから眺めるだけとなっている。この本丸には観光客が想像するような天守閣という立派な建物は当初から存在しておらず、御殿などが建ち並ぶ場所となっていたようだ。

 

やっぱり観光客側からの気持ちからすると、「○○城跡」と聞くと勝手に脳が「大きな天守閣」をイメージしてしまう。しかし、日本全国に残る城跡には天守閣という建造物は存在していない所が多く、昭和以降に観光地化の一環で本来は天守閣が存在していなかった城跡にも、模擬天守閣などを造っている場所もある。

直江クン
直江クン

観光の為に城を造る時代になったのか~!

 

特に江戸時代には平穏な時代になって攻め込まれる可能性が少なかった為に、火災などで焼失してしまった天守閣などを再建しなかった城も多かったようだ。また大きな天守閣を建造すると、江戸幕府に目を付けられてしまって、藩政が行いにくかったので幕府に配慮して天守閣を設けなかった城も多かったようだ。

 

ただ天守閣という建物自体、藩主がそこで暮らす場所のように思ってしまうけど、実際には城が攻め込まれた際に避難する最後の砦として設けられた物である。だから堅固で攻めにくい構造の建物になっているだけあって、普段住まいするにも住みにくい城だったので、基本的には藩主は天守閣には住まずに近くの御殿で暮らしていたようだ。

 

 

鎖国して外国との交流を閉ざしていた江戸時代に、日本国内では独自の文化が発展していった。しかしそれと共に江戸幕府という徳川家康の子孫が約270年間に渡って支配していた状態だったので、その徳川家に独占された日本は江戸時代後期に向かって時代が進む毎に、役人などの腐敗も相まって腐る方向に進んで行った。

 

このように空は雲の隙間から爽やかな太陽光が降り注いで、全く雪を山形市内で目にする事が無かっただけに、このような日であれば特別に本丸内を開放してくれても良かったのではと思ってしまう。ただ本丸内に立ち入ったとしても、特に建造物もなくて、また発掘途中の本丸遺構跡の作業現場があるだけなのだが。。

 

 

山形城の本丸跡を眺める! 動画

 

 

この山形城は山形藩の藩祖となった最上義光の時代に現在見られる城郭を形成したが、その当時には石垣が無くて、普通に土を持って造った土塁だけの城だった。なので今見られる石垣は最上氏の後を受けて移封されてきた鳥居家が、1622年頃より石垣を築いていったと考えられている。

 

こちらには石垣に使われた大きな石が並べられているのが見える。勿論これらの石は採れたままの状態で石垣に使われた訳ではなく、綺麗に形を整えてから石垣として組み込まれている。なので、石を採掘してから手間を掛けられて石垣になっていくのである。

 

現在の建造物には石が使われて建てられる事が殆どないだけに、大きな石を割るという方法がまず頭に思い浮かばない。今ならショベルカーのような機械の先端にドリルを付けて「ガリガリ・・・」と簡単に割れるけど、江戸時代には勿論このような機械はなくて、全て手作業だった時代である。

 

まず石垣になるには、石垣に使われるサイズの原石を探す必要がある。採石場に行っても必ずしも全部が石垣に使えるサイズではないので、まずは最初に理想的なサイズを探す事から始まった。

 

そして良い大きさの石が見つかれば、それを理想的な形に整える必要があった。その前にまず石を割る行為を行うのであるが、石にも木や紙みたいに「目」という繊維が走っているような流れがあって、その目を利用する事によって簡単に石を割る事が出来たようだ。上記のように小さな窪みの穴を空けて、その穴に突起物を差し込んで叩く事によって、横に流れる目に沿って大きな石がパカッと割れるようだ。

 

中世頃までの城の石垣では「野面積み」という石本来の形のまま、上手い事積み上げる石垣が多かった。野面積みの利点はこのような細かい石垣の石を加工する必要が無いので、建造時にあまり手間が掛からない所だが、逆に石垣表面に凹凸が多いので登り易いのが弱点でもあった。その為に時代を経る毎に石垣造りも高度に発展していき、このように芸術品のようにも思える石垣になっていった。

 

そして石垣用の石として加工を終えると、古代エジプト時代のようにこのように丸い木の棒の上を転がせるようにして人手で引っ張って石を運んでいたと考えられている。約4000年前の古代エジプト時代にも行われていたと考えられている石の運び方だけど、その運び方がつい最近まで行われていたという事が何とも興味深く思えてしまう。

 

ただ日本では石の下に「修羅(しゅら)と呼ばれる木製のソリに載せて、石を運んでいたようだ。サンタクロースじゃないけど、石単体で引きズルよりも、このようなソリを使う事で接点の抵抗が小さくなるので、石を運びやすくする為の工夫だったようだ。

 

 

「山形県立博物館」の見学!

そんな風に山形城本丸跡を周囲から眺めた後は、その脇に造られている「山形県立博物館」を訪れる事にした。地方での旅では、その土地を分かりやすく説明してくれている博物館見学は欠かせない。

 

【山形県立博物館】

住所:山形県山形市霞城町1-8(霞城公園内)
営業時間:9時~16時30分頃(※定休日:月曜日)
電話番号:023-645-1111
入館料:大人300円/学生150円(※高校生以下無料)

 

 

この「山形県立博物館」には国宝も所蔵されており、”山形県の宝物”が保管されているようだ。博物館脇にはその国宝を模った木造の像が置かれていたけど、この訪問時にはその国宝がどんな物かを知らなかった事もあって、全然気付かなかったのであるが。。

 

こちらはこの博物館の入館券(300円)であるが、”やまがたを知るスタートライン”という言葉もあって、まさに地元の博物館はその地域の歴史を学べるスタートともなる存在。現在の山形があるのは過去の歴史があってこそなので、このように歴史を勉強する事が大事なのである。

 

博物館に入って展示室の見学を行う前に、トイレへと向かう。するとこのように「使用後は便座のフタを閉めてください!」との張り紙を目にする。日本人はサービス向上の為に便座が温かくなるトイレまで開発しているけど、便座が温かいという機能は無駄すぎるようにも思うので、今後の事を見据えて廃止してもいいかと思う。

直江クン
直江クン

人間は一度贅沢に慣れると、元には戻れないからね!

 

博物館に入ると、まずはこちらの「アメジスト」とも呼ばれている「紫水晶」の大きな塊が出迎えてくれる。紫色が綺麗な水晶であるが、紫外線を当て続けると退色するようで、また加熱すると黄色になって「シトリン(黄水晶)と呼ばれる水晶に名前が変化するようだ。

 

このアメジストはギリシャ神話にも出てきたり、また旧約聖書の中では12個の宝石の1つとして重宝されていて、キリスト教では邪悪な悪魔から身を守る宝石とも考えられていたようだ。その美しさから古来より高貴な身分の人間が身につけている事が多かった宝石だが、ブラジルで大きな鉱脈が見つかった事によって、庶民にも手の出る宝石になったようだ。

 

ここには色んな鉱石などが沢山置かれている。ただ個人的にはそこまで鉱石に対して興味が無いけど、このような鉱石についての知識もどこで活きてくるかわからないだけに、無視せず見ていく事にする。

 

特に宝石類などは男性より女性の方が興味があるのだろうが、ボクは宝石の付いた指輪やネックレスなどには全く興味が無いだけに「へえ~~~!」という感じで写真をボチボチ撮影しながら、サッサと通り過ぎていく・・・。

 

しかし今までの人類の中にはそんな他人が無関心の鉱石などに興味を持って、このような銅などが含まれる地層を見つけ出して大儲けした人も居る事だろう。そう思うとどんな事でも軽視せずに、目の前の物に対して、しっかり目を向けていく必要性があるのだが。。

 

このような鉱石から鉛などを取り出す技術も、産業革命以降に大きく発展した事だろう。特に産業革命以降は化石燃料などがそれ以前までに比べて大量に消費される時代になっただけに、地面の下に眠っているこのような鉱石を無視できない時代になっているのかもしれない。

 

こちらは真室川町という秋田県に隣接する、山形県でも北部にある町で発見された「大型クジラの化石」だそうだ。クジラというと海の生物だけにあまりその化石を目にする機会が無いけど、昔は海の底だった場所が隆起してきた所には、このように昔から陸地だった場所とは違う化石が出てくるようだ。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ

↓↓↓↓東北旅行記:初回↓↓

雪一面の青森空港に降り立ち、東北地方横断の旅が始まる【東北旅行記①】
2020年12月1日に降り立った、雪一面の景色が広がる青森空港。その白い大地を踏みしめて、7泊8日に渡る東北地方の旅が始まりを告げるのであった。。
タイトルとURLをコピーしました