「弘前市立博物館」で津軽弘前藩など弘前の歴史を勉強!(part2)【東北旅行記㊱】

東北旅行記2020年冬-㊱:青森編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Study the history of Hirosaki, including the Tsugaru Hirosaki Clan, at the Hirosaki City Museum! (part2) [Tohoku Travelogue 36])

勉強に終わりはなし!

さて今回も前回に引き続き、青森県弘前市の中心部に設置されている「弘前市立博物館」で、ここ弘前市や青森県の歴史を学んでいきます。

 

【弘前市立博物館】

住所:青森県弘前市大字下白銀町1-6 弘前公園内
営業時間:9時30分~16時30分頃
(※定休日:第3月曜日/他)
電話番号:0172-35-0700
入館料:大人300円/中高生150円/小学生100円

 

 

 

弘前市立博物館でのお勉強タイム!

築城からおよそ400年が経過した弘前城も、その時代に応じて城の建物だけではなく、その敷地も大きく変化している。この弘前城が築城された江戸時代初期~中期頃には城内に家臣を住まわせていたが、先述の元禄飢饉(1691~1695年頃)が発生した後に家臣団は城内から城外に住まいが移される事になる。

 

全国の現存している城跡とかは昔からの資料が残っているから、それらからより多くの歴史的事実が判明しているのかと思っていたけど、実際には江戸時代の事は判らない事も多いようだ。その為に現在でも城跡の敷地内で発掘調査などが行われており、古い地層から色んな発見がまだまだ出てくるようだ。

 

こちらは弘前城跡から発掘された昔の陶器で、17世紀後半頃の品物と考えられている。ここに置かれていたのは先日佐賀県の唐津で勉強した「唐津焼」などがあり、このような陶器製品は大名間での友好の証として贈られていた事だろう。

 

江戸時代の日本国内は飢餓による一向一揆などを覗いて殆ど内戦が起こらなかった為に、国内では色んな産業や芸術が生み出されて、またそれぞれの技術がより磨かれていった。このような陶器類も元々は中国大陸から渡ってきた物であるが、江戸時代後期には本場中国でアヘン戦争などが行われた為に、ヨーロッパ勢が陶器類の入手先の代替え地として日本を選んだ事により、陶器製造の技術も格段に上昇していったようだ。

 

こちらには江戸時代の主な陶磁器の産地が表示されているが、「悪戸(あくど)「大堀相馬」という場所の陶器は耳にした事がない。この弘前市にある悪戸村では日常生活に使われる陶磁器が造られていたが、今から100年以上前に廃窯となっており、この弘前市周辺では”津軽焼き”という通称で造られている陶磁器の一部になっているようだ。

 

現在の弘前城天守閣は、その天守閣を支える石垣の大掛かりな補修工事が約100年ぶりに行われている最中である。江戸時代の石垣も堅固な構造で多少の地震でもビクともしないように思うけど、さすがに大きな地震が発生すると石垣も崩壊したり、緩んだりして崩壊の可能性が出て来るようだ。

 

今回の石垣補修工事に先立って、その石垣の上に造られていた天守閣は、こちらの写真にもあるように2015年から曳家という建物を引きずって移動させる手法が採られている。この曳家という方法は今から約100年前にこの弘前城の石垣が補修された際にも使われた手法で、時代は大きく変わっても昔と同じ手法を使っている所が何とも伝統的に感じる。

 

こちらは2014年の曳家される以前の、江戸時代1810年頃に再建された天守閣が石垣の上に載っている写真。このように天守閣は本丸の中でも内堀側の端に設置されていて、そうは簡単に攻略しにくい場所になっていたようだ。

 

 

普段このように大きな建物を曳家という持ち上げ、引きずって移動させる方法を目の前で見た事がないだけに、本当にこんな簡単に天守閣のような大きな建物が移動できるのかと思ってしまう。しかし曳家専門の建築会社の手に掛ると、このように簡単にとは言わないけど、上手い事移動できるようだ。

 


 

 

『弘前城、動く!!タイムラプス動画』

青森ンゴ
青森ンゴ

弘前市民の力もあって、無事曳家完了したのヨ!


 

 

こちらは曳家が終了した後の2016年1月26日の写真であるが、その移動された天守閣よりも、堀の中に積もった雪の量に驚いてしまう。冬場には雪深いのが当たり前の青森県かもしれないけど、普段雪を見慣れない地域に住んでいる人間からすると、このような雪一面の景色に驚きを感じてしまうのである。

ハゲる前君
ハゲる前君

雪に驚いてたら東北では暮らせないゾ!

 

こちらは2018年11月7日に撮影された、弘前城本丸の南東側石垣が解体された状態の写真。この工事は単なる解体ではなく、その後も元通り直す修復作業なので、これら解体した石は全てキチンと管理され、最終的には元あった場所に戻されるので、そのような一連の作業を頭の中で思い浮かべるだけで気が遠くなりそうだ。。

 

そして日本中が大混乱に陥った明治維新からの明治時代には、ここ弘前でも旧幕府軍か新政府軍に付くかで大きな選択を迫られる事になる。青森県から南の方にある会津藩などが旧幕府軍に付いた事もあって弘前藩でも旧幕府側になっていたのかと思っていたけど、この説明によると最初は旧幕府軍に付いたものの、途中で朝廷に近い近衛家からの助言もあって、弘前藩は新政府軍に鞍替えしたようだ。

 

こちらは明治2年(1869年)5月に戊辰戦争が終わった後に、弘前藩12代藩主であった津軽 承昭(つがる つぐあきら)に届いた「弘前藩知事辞令」である。版籍奉還により藩主から知藩事へと代わり、江戸時代とは一変する明治時代の変化の波に巻き込まれていく。

 

こちらが弘前藩から弘前県となった時の、弘前藩最後(12代)の藩主であった津軽承昭の写真。なおこの津軽承昭は津軽家の血は継いでおらず、10代熊本藩主:細川斉護の4男として生まれて、この津軽家に婿養子として入ってその後に家督を譲り受けている。

 

こちらは明治元年(1868年)9月に起きた、弘前藩(及び黒石藩)が野辺地に侵攻した野辺地戦争時の布陣の様子などを描いた図。弘前藩は”奥羽越列藩同盟”として戊辰戦争当初は旧幕府軍側に付いていたが、奥羽越列藩同盟からの撤退の態度を示し、自分達が新政府軍側だと主張するように下北半島の付け根にある当時盛岡藩の領地だった野辺地に攻め込んだ。

しかし戦争の規模としては小さかったらしく、弘前藩が本気で野辺地に進行した訳ではなく、対外的に自分達の立場を表明する目的がメインだったと推測されている。

 

廃藩置県になった時に今の青森県は存在せず、斗南藩八戸藩七戸藩弘前藩黒石県舘県と今では考えられない程に数多くの県が存在していた。それにはそれぞれの藩から県に置き換わった為で、その後に弘前県に統一された後に青森県と名前が変わっていく。

ちなみに廃藩置県当初は約300個ほどの府と県に置き換わった為に、その数のまま現代を迎えていたら47都道府県と比べると圧倒的に覚えるのが大変な事となっていただろう。

 

 

戊辰戦争の後に藩政改革がどんどん行われていき、それまで弘前藩に仕えていた藩士の家禄(給料)が減らされてしまう。そうなると藩士の生活が立ち行かなくなる為にその対策として打ち出されたのが、「帰田法」という藩士を農家に転身させる政策だった。地主から藩が安く買い取ったり無償提供された農地を希望する藩士に与えたが、江戸時代には畑を耕す農家は一番身分が低い存在だったのもあって、誇り高い藩士が簡単に農家に転身する訳がなく、失敗に終わったという。

 

”自由民権運動”という言葉を聞くと昔学校で勉強した事があるが、今更その運動が何を目的にして行われていたかを簡単に答えれる人も少ないのではなかろうか。そういうボクも”自由民権運動”については覚えていないのでその内容説明はパスするけど、ここ弘前でも東奥義塾の本田庸一などがリーダーとなって自由民権運動を推進したという。

 

こちらのパネルには「軍都から学都:弘前へ」という文字が書かれている。江戸時代にはこの青森地方の西側を治めていた弘前藩は現代では青森県の名前に負けている事からも分かるように、廃藩置県が行われた後に青森県に集約されて、県庁が弘前市ではなく青森市に置かれてしまった。その影響で人の流れが弘前市から青森市に移動してしまい、徐々に寂れていく。

 

明治時代になって衰退を見せ始めた弘前市に経済回復の兆しが見えたのは、明治29年(1896年)に陸軍の第八師団が設営される事になった時である。弘前城の南側に設置された陸軍の第八師団により、多くの軍人やそれに伴う人々が流入し、徐々に活気を取り戻していった弘前。そして戦争後はその陸軍跡地に学校などが設置され、軍で再興した弘前市は学都に変貌を遂げていくのであった。

 

その弘前市に駐留した陸軍の第八師団は日露戦争で活躍し、日露戦争での大きなターニングポイントにもなったという「黒溝台会戦」では、その約4割も戦死者が出た大激戦だったようだ。日露戦争など日本では大国:ロシアに勝利して、良い結果しか教えられていないけど、その裏側ではこのように多くの兵士の人命が失われていったのである。。

 

スキーを嗜む今の若い世代が、このような昔の時代に使われていたスキー道具を見ればビックリする事だろう。昔は当然ながら色んな物が手作りで造られていた時代で、スキー板などもこのような木の板だったのである。

 

そんな弘前市の歴史の中でもその土地の産業界を大きく変えたのが、ここにも記載されている「リンゴの苗木」を植え始めた事だった。今では日本一の生産量を誇るリンゴの生産地として有名な弘前市でも、1本のリンゴの苗木から生まれていったのである。

青森ンゴ
青森ンゴ

何事もコツコツと小さな事の積み重ねヨ!

 

こちらには山野茂樹という元弘前藩士が記した日記(複製品)が展示されていて、明治10年に初めて青森県でリンゴの実を実らせる事に成功した人物である。今では簡単にリンゴを口にする事が出来る時代だけど、それまでにはこのような先人達が苦労と努力を重ねて改良を続けて、今のような大量生産できるようになっていった。

 

こちらには「林檎」の図が置かれていて、とても詳細にその様子が描かれているのが見えている。今ではその辺のスーパーでも簡単にリンゴを買う事が出来るけど、明治時代には庶民がそう簡単に口に出来る果物ではなかった事だろう。

 

こちらには「向陽園」という文字が書かれた額が展示されていて、この向陽園とは『りんごの神様』とも呼ばれた弘前市出身の外崎嘉七がリンゴを栽培していた土地の事である。外崎嘉七はリンゴを上手に育てる為に、剪定の方法や農薬の開発を行い、それの成功により弘前市でリンゴの栽培が広がっていった。

青森ンゴ
青森ンゴ

リンゴを愛した人が、リンゴ栽培に大きく貢献したのネ!

 

こちらは「苹果(へいか)要覧」という明治23年頃に発行された61品種のリンゴの、品種名・成熟期・形状・光沢などが記載されている農家向けのリンゴ栽培の指南書的書物。ただ「林檎」という名前ではなく「苹果(へいか)という名前になっているのには、それまでの日本国内に存在していたリンゴは中国大陸から持ち込まれた物を示しており、西洋から持ち込まれた西洋リンゴを「苹果」と区別していたからだという。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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