「弘前市立博物館」で津軽弘前藩など弘前の歴史を勉強!(part1)【東北旅行記㉟】

東北旅行記2020年冬-㉟:青森編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Study the history of Hirosaki, including the Tsugaru Hirosaki Clan, at the Hirosaki City Museum! (part1) [Tohoku Travelogue 35])

勉強あるのみ!

こちらは青森県弘前市のかつて弘前城があった敷地内に造られている「弘前市立博物館」。旅先ではただ城跡の天守閣などを見学するだけではなく、併せてこのような地元の博物館を訪れる事によって、より幅広い知識を見聞できる事になるので、時間があれば是非立ち寄りたい場所でもある。

 

【弘前市立博物館】

住所:青森県弘前市大字下白銀町1-6 弘前公園内
営業時間:9時30分~16時30分頃
(※定休日:第3月曜日/他)
電話番号:0172-35-0700
入館料:大人300円/中高生150円/小学生100円

 

 

 

弘前市立博物館の見学!

さてこの弘前城を治めていたのは、津軽為信を藩祖とする弘前藩の津軽家。ただ本州の中でも北端の地に位置する弘前では、江戸時代を題材にする伝記などでは全然取り上げられない藩でもあるので、意外と全国的に知名度が低い大名である。

ネプちゃん
ネプちゃん

歴史マニア以外には、津軽家の知名度が全然ないだべ・・・

 

この津軽家は津軽為信を藩祖とし、江戸時代の約270年間を津軽家だけで守り通したという、かなりしっかりとした藩運営を行えていたようだ。12代に渡って江戸時代を治めた津軽家は、他の藩に比べても藩主の在任期間が比較的長かったので、歴代藩主の数も比較的少なかったようだ。

 

そしてこちらがその弘前藩の藩祖となっている「津軽 為信(つがる ためのぶ)の肖像画である。この肖像画は今村常慶という津軽藩お抱えの絵師が描いた画で、こちらは複製品となっていて原本は弘前市の長勝寺に保管されているようだ。

 

こちらはその津軽為信の息子で、弘前藩第2代藩主となった「津軽 信枚(つがる のぶひら)。藩祖である津軽為信が1607年に亡くなった後に弘前藩を継ぎ、弘前藩の所領を大きく発展させる事に尽力したとされている。この信枚の時代に現在の青森市にある港を開き、そこから蝦夷地や北前船の海上輸送ルートを開拓させた。また信枚は天海に弟子入りし、それに関連してそれまで「鷹岡城」と呼んでいた城を「弘前城」と改める事になった。

 

こちらはその信枚の息子で、弘前藩第3代藩主となった「津軽 信義(つがる のぶよし)。母親が石田三成の三女でもある津軽 信義は若干13歳で家督を継ぐが、品行方正ではなく女好き&酒好きという、個性味が溢れたお殿様だったようだ。その甲斐あってか、信義は40~50人ほどの子供を設けたとされている。

 

こちらの書状は弘前藩2代藩主:津軽信枚が心酔していた、天台宗の僧であった空海から送られた物。空海は徳川家康の側近として取り立てられた為に、江戸時代前半の政治面でも大きく影響を及ぼしていたという。

 

現代の時代に生きる我々からすると、寺の僧侶というとそこまで政治的な野心が無さそうな無益に宗祖の教えを説く人にしか考えられない。しかしその昔はあの織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちする程に、当時は1大名に敵対する程の大きな軍事勢力でもあったのだ。だからこそ織田信長はわざわざ比叡山延暦寺を攻略したのであって、その時代背景が全然違う現代人からその出来事を見ると織田信長が”野蛮人”という評価を受ける事にもなるのである。

 

こちらは「御郡中絵図」という1645年頃に製作された、弘前藩が江戸幕府に提出した所領の地図である。江戸時代に製作された地図というと、伊能忠敬一行が製作した正確に測量した地図が思い浮かぶけど、それ以前にも日本全国ではそれなりに正確な地図が製作されていたようだ。

 

 

そしてこちらは弘前藩4代藩主の「津軽 信政(つがる のぶまさ)で、弘前藩の中でも全盛期を作った人物として、藩主と共に最も尊敬されている人物のようだ。ちなみにこの津軽信政はなんと54年という長期政権を築き、弘前の地を発展させた人物でもあった。

 

なおこの旅の初日のまず最初に訪れた、”舞の鶴橋”という木造建築の橋が造られている「津軽富士見湖(廻堰大溜池)」は、この津軽信政の時代に造られた溜池である。

 

この津軽信政は約54年に渡って藩主を務め、そして7代藩主:津軽信寧も約44年に渡って藩主を務めたりという事もあって、弘前藩主の歴代藩主の人数が他の藩に比べて少ないのかもしれない。他の藩では跡取りが居ないまま亡くなって、後継ぎ問題が常に起こっていた時代だが、このように”無事是名馬”を地で行く津軽家は他の藩からは羨ましがられたのかもしれない。

 

こちらの書状はその4代藩主:津軽信政が部下の重臣に送った書状で、直筆の花押(署名)が左側に入れられているのが見える。藩主から直々に書状を貰うなんて、身に余る光栄で家宝のように扱われたのかもしれないな。

 

こちらの地図は「津軽国図」という1689年頃に製作された、この弘前や青森市周辺の地図。先程の絵図とは違って、領地内の村の名前や檜などの木々が生えている様子などもこの地図には描かれている。

 

そしてこの「津軽国図」には生えている木々だけではなく、鉱山の種類や温泉の出所なども記載されていて、かなり詳細に造り込まれた内容になっていた。そして木々も木として一括りではなく、檜・杉・雑木・松・柏・樫などを分類して描かれていたそうだ。

 

弘前藩2代藩主:津軽信枚の時代に完成した弘前城へは、それ以前の居城であった堀越城周辺から家臣団や商人や寺院などを移転させて、この弘前城の城下町を整備していった。しかし、そんな城下町も1695年に発生した元禄飢饉の際には、大勢の下級家臣を解雇したので、城下町は大量の空き家が生じたという。

 

平山城として造られた弘前城では、1627年に五層の豪華な天守閣が落雷によって燃えて焼失してしまう。しかし天守閣自体あってもなくても城下町にはそれ程影響がなく、城下町は城下町でそれなりに時代に応じて移り変わっていったようだ。

 

 

江戸時代に日本国内を悩ませたのが飢饉で、今みたいに食糧が豊富な時代では無く、また食糧の保存方法も機械が使えなかったのもあって、米が不作に陥ると全国的に餓死者が多く発生する事になった。この弘前藩でも飢餓には苦しみ、更には1800年代に入ってロシア帝国が蝦夷地など北方領土に進出してきた為に、その警備も任じられて藩の負担は増えていく。

 

こちらに描かれていた肖像画の人物は「乳井 貢(にゅうい みつぎ)という、1700年代初期に弘前藩士として生まれた人物。勘定奉行として就任すると財政改革などを大胆に行い、1755年頃に発生した宝暦の飢饉ではその改革のおかげで誰も飢餓で飢え死しなかったという。ただその後は飢饉の影響で藩財政が厳しくなり、そこで講じた財政対策が失敗し、隠居に追い込まれてしまったそうな。。

ネプちゃん
ネプちゃん

上手く行けば神様、下手すれば罪人という厳しい世論だべ・・・

 

財政改革が失敗して追い込まれて見放された乳井貢であるが、彼が解雇された後も弘前藩の財政は傾いたままで改善の見込みがなかった為に、後に就任した新しい藩主の時代に乳井貢は呼び戻される。しかし2度目の財政改革も目立った効果を挙げる事が出来ず、その後にまた解雇されてしまうのである。

 

こちらはその乳井貢が宝暦6年(1756年)の財政改革中に、弘前藩士へ送ったとされている書状である。この当時は国内の藩それぞれに財政面で苦しんでおり、どこでも財政改革が行われていたが、どこでも上手く改革が行われた訳ではなく、このようにうまくいかなかったケースも実は多かった事だろう。上杉家の上杉鷹山や薩摩藩の調所笑左衛門など財政改革を成し遂げた人物の逸話は残されているが、それ以上にあった改革失敗の話は殆ど残される事がなかったのだろう。

 

俗に「改革」と呼ばれる事は、そう簡単に成し遂げられる事ではない。1つの小さな中小企業内で改革を起こすだけでも色んな問題や抵抗が出てくるので、大きな藩になればなるほどに簡単に改革が出来るハズがなかったのだろう。

 

こちらの参勤交代のシーンにも見えなくもない絵は「忍ぶ草」という、当時『北蝦夷地』と呼ばれていた樺太の警備を命じられた弘前藩士:横岡元喜が1813年3月に出立して同年11月に戻って来るまでの紀行内容を描いた絵巻となっているようだ。

 

こちらの地図は江戸時代中期~後期の蝦夷地に侵攻してきた、ロシア帝国の記録が記されている。江戸時代には鎖国していた日本だが、このように北方領土は常にロシア帝国に狙われていたようだ。そして現代でも問題になっている北方領土も、第二次世界大戦で敗北した日本帝国の降参している隙にロシアに侵攻されてしまったのである。

 

弘前藩では1796年に藩校「稽古館」が設立されて、武道以外にも儒学や天文学などが教えられていった。そして幕末になると蘭学堂という西洋の蘭学やその医学なども学ぶ学校が造られ、幅広い最先端の知識を学べるように改革が行われていった。

 

人類が地球上の生物の中でもこれだけ進化していったのは、その学習能力にあるという。他の霊長類と比較すると2歳児頃まではあまり能力的に差異はないが、1つだけ人間には優れていた能力があったという。それが「社会的学習能力」という他人の行動を見て真似して学ぶ力であり、それが優れていた為に人間がこれだけ色んな物を開発できるようになったそうだ。

 

こちらの肖像画は弘前藩第9代藩主の「津軽 寧親(つがる やすちか)。この津軽寧親が約40年間に渡る長期で藩主を務めたもう一人の藩主であり、藩校「稽古館」を開校した人物でもある。なお蝦夷地警備の任に対する功績として10万石に高直しされ、また分家となっていた黒石藩の立藩も認められ、更には焼失した天守閣の再建も許可される事になった。

 

また江戸後期に差し掛かると弘前の町には俳句や和歌をたしなむ人々が増えて、学問などを広める素地が出来てくる。そして当時流行りだった「国学」を学ぶ為に平田 篤胤(ひらた あつたね)などと交友を重ね、弘前でも国学を研究する人材が育っていったという。

 

こちらは国学のスペシャリストだった平田篤胤の門下生となった「平尾 魯仙(ひらお ろせん)という、江戸後期~明治時代における画家でもあり国学者でもあった、ここ弘前出身の人物である。

ネプちゃん
ネプちゃん

色んな偉人が積み重なって、今の津軽が出来ているだべ!

 

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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