上杉鷹山が米沢に残した遺産を勉強する事が出来る、米沢市の「上杉博物館」【東北旅行記96】

東北旅行記2020年冬-96:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Uesugi Museum” in Yonezawa City, where you can study the legacy left by Youzan Uesugi in Yonezawa.  [Tohoku Travelogue 96])

鷹山の偉業に触れる!

ここは米沢市の中心部だった米沢城跡脇に造られている、「上杉博物館」。長い歴史がある米沢地でも、特に江戸時代にこの地を治めていた上杉家時代の米沢藩の歴史に特化した博物館となっていて、上杉家の歴史を勉強する事が出来る場所となっている。

 

【米沢市上杉博物館・置賜文化ホール】

住所:山形県米沢市丸の内1-2-1
営業時間:9時~17時頃(※定休日:5月~11月は毎月第4水曜日、12月~3月は毎週月曜日)
電話番号:0238-26-8001
入館料:大人410円/高大学生210円/小中学生110円

 

 

 

「上杉博物館」の見学!

江戸時代に全国で300近くも存在していた藩は、どこも大なり小なり財政難に陥っていた。しかしその中では何とか財政難を克服しようと財政改革を行う者が色んな所で台頭していき、上杉鷹山の名前はとても有名になっているけど、それ以外にも財政改革を断行して藩財政を改善させた人も結構いるようだ。

 

財政難に陥っていた米沢藩の藩主となった上杉鷹山は、今まで普通に行ってきた農業以外に新しい産業を産み出すように指示した。稲作の開墾や作業効率を上げるのもいいけど、それだけだと他の国との差別化が出来なく、また米の値段も流通量が増えれば安くしか売れなくなってしまうので、意外と儲からなかったようだ。

 

こちらの木彫りの鷹人形は「笹野一刀彫」という、米沢市笹野地区で冬場に家の中で作るように奨励したもの。木彫りの人形自体はどこでも彫られているものだけど、この鷹の羽のように薄く削った部分がカールして、鳥の羽のように見える工夫が特徴的で、また綺麗に彩色も施されている。

 

そしてそれ以外にも紅花の栽培を奨励したり、桑の木を沢山植えさせたりした。現代人からすれば色の付いた服を当然のように着ているけど、江戸時代には紅花などの植物から抽出した染料を使って、衣服などに色付けを行っていた。

 

こちらにあった焼き物は「成島焼(なるしまやき)という、鷹山の時代に今の福島県で焼かれていた相馬焼を参考にして、米沢オリジナルの焼き物として新たな名産品として開発された。こういった焼き物は秀吉の朝鮮出兵の際に、朝鮮から陶芸士を連れて帰ってその技術が日本国内に広がった。鷹山からすれば他の藩から焼き物を買う位なら、自分の藩で作ってしまえば、無駄に外にお金を払う必要がないと思った事だろう。

 

米沢藩はそれまでの輸入メインではなく、反対に輸出メインの藩となる為に、商人から借金して桑・漆・楮の木を農家や藩士の家に植えさせた。そしてそれぞれの木が大きく成長した段階で藩が買い取るシステムを導入した事により、農民や藩士の収入にもなり、藩としても買い取った木の実などを材料として名産品へと加工して外貨を稼ぐ事に繋がった。

 

鷹山が藩主に就任する前までは、米沢各地の農村ではその過酷な生活ぶりに国から逃げ出す農民が続出し、農地はありながらも放棄されてしまった土地も多かったようだ。そんな苦しい農民たちに向けて、まず鷹山は藩主自ら質素な生活を行い、先代藩主と比べて側室や身の回りの世話人なども極力減らして、経費を1/7ほどに減らしたという。

直江クン
直江クン

人にさせるには、まず自分から質素な暮らしをしていかないとね!

 

桑の木を植えさせたのは、その実が生糸を生み出す蚕のエサとなったから。漆の木はその実がロウソクの原料となり、木自体からは漆塗りの原料となる樹液も獲れた。また楮の木は和紙の原料となり、全国の藩で藩校が続々と造られていた事もあって、紙の需要が増えていった事だろう。

 

 

そんな原料を作るだけではなく、その原料を加工する技術にも力を入れて、他の地域から職人を呼び寄せて米沢オリジナルの技術を増進していった。現代でいう”内製化”で、原料の育成から最終加工まで自社内で行う事によって、無駄なお金が外に流れずに、上手い事米沢内でお金が流通するシステムを構築していった。

 

そして米沢での名産品としても有名になったのが、「米沢織」である。ただ単に衣服の原料を作るだけではなく、その織り方を武士の夫人などに学ばせ、また紅花などの染料とコラボさせた。それまでの染料は衣服が出来上がった後に藍とかに浸けて色付けされていたが、この米沢織では糸の段階で色付けを行った為に、多彩なデザインの織物が誕生したのである。

 

そして「米沢のABC」とも呼ばれる事のある、『米沢鯉』の養殖を推進した。山に囲まれた米沢の地では簡単にたんぱく質が豊富な魚を獲る事が出来なかった為に、米沢城の堀の水の中で鯉を養殖した。一般的には”泥臭い味”のイメージがある鯉だが、ここ米沢では堀に綺麗な水が入れられていた事もあって臭みがなく、人気の食材となっていったという。

直江クン
直江クン

城の堀を活用するとは、鷹山公には恐れ入ったわい!

 

このように一度財政改革が上手く行き出すと、とんとん拍子のように物事は上手く進んで行く。それは実際に実行している人達の試行錯誤の繰り返しの過程で、成功例に勇気づけられて、前に進む気力が増えて推進力が付いていくからだろう。

 

農民や庶民側からしても、目に見える程に改革が上手く進んで行くと、それに勇気づけられて参加する意欲が湧いてくる。現代の政治家みたいに”都合のいい、絵に描いた餅のような話”ばかりしているだけでは、誰も付いてこない。総理大臣だろうが、実際に一番下まで降りて来て、自分も一緒に汗を流しながら経験して改善を共にしていくという行為の重要さを思い知る。

 

こちらには鷹山時代の農村を再現した模型が置かれているけど、稲作だけだと冷害によって不作となると飢餓が起こる程に偏っていた農作システムだった事がよく分かる。本来なら稲作がダメでも、冷害にも強い作物を保険として併用して栽培する事が考えられるけど、日本は昔から何かにつけて『米』中心の民族だった為に、それ以外の作物にあまり目が行かなかったのかもしれない。

 

鷹山の行った農地改革によって、稲作以外にも収入を得れる道が開拓され、実際にその後に起きた飢饉では他で稼いだ外貨を使って、米沢の民が飢餓で死ぬ人が殆ど出なかったともされている。このように今で言う「リスクマネージメント」も考慮した改革によって、日本の最先端の藩に生まれ変わっていったのである。

 

 

上杉鷹山の名言コーナーにて

こちらは有名な上杉鷹山の肖像画で、若い時代の物ではなく、苦労して改革を成し遂げていったそれなりのお歳を召した感じの顔となっている。ちなみにここ米沢市内の小学校・中学校には、この上杉鷹山と上杉謙信の肖像画が飾られているらしく、現代でもその2人が米沢で崇められている様子が伺えるようだ。

 

ただ上杉鷹山は上杉謙信の直系の子孫ではなく、上杉謙信自身に子供が居なかった為に謙信直系の血は早々に途絶えている。上杉鷹山は米沢藩第8代藩主:上杉重定(しげさだ)に跡取りが居なかった為に、昔の教訓を活かして早めに養子縁組が行われて跡取りとなった。鷹山の曾祖母が米沢藩4代藩主:上杉綱憲の娘という遠縁の血縁でもあったので、日向国高鍋藩の藩主:秋月家から迎え入れられたのである。

 

こちらからは上杉鷹山が残したとされる「名言」が飾られているコーナーに差し掛かる。こちらは藩主はその藩の庶民や農民の上に存在している偉い身分の人間では無く、その地域で暮らす領民の為に存在しているだけという意味。ある組織でトップになってしまうと、そこで驕った立場になって偉そうに振舞う人間が多いけど、そういう組織程に脆くて直ぐに潰れてしまう事が多い。

 

特に藩主や家老職などは実力主義ではなく、世襲制で代々同じ家が継いできた事もあって、大した苦労もなく偉い身分に就任するのが当然となり、庶民を見下した見方をする人間が多かった事だろう。特に江戸時代みたいに賄賂などの不正が横行している時代には、余計にこのように勘違いしてしまう人が多かっただけに、このような考えを貫いたのは凄い事だと感じる。

 

こちらの名言は、ちょっと処か、説明が無いと意味が分からない名言。まず「迚」という漢字が今では殆ど見られないので意味が分からないけど、調べてみると、「とても」「到底」「たいへん」とかの意味がある漢字のようだ。

 

人は生まれながらの資質があるので、その資質を見据えてそれにあった教育が必要という内容のようだ。100人の子供を教育するにも、それぞれに個性があるので画一的された教え方では、上手く育たないという事だろう。このように過去の偉人の名言を調べているだけで、昔の人達は人間の本質をキチンと見据えていた事がよく分かるのである。

 

こちらは長い年月を過ごしても緑色のまま色が変わらない松に、鷹山が側室だった:お豊とこれからの長い年月一緒に歳を取っていく事を約束した内容のようだ。人間は歳を取ると色んな組織が衰えて外見も変わってくるけど、その内側にある内面は変化させないという意思だったのかもしれない。

 

こちらは上の鷹山が詠んだ句に対して、その一緒に歩んで行くお豊が詠んだ句のようだ。内容はほぼ同じで、鷹山公と一緒にこれからの人生を歩んで行く事を松の木に誓った内容のようだ。

 

こちらは鷹山の次の代の米沢藩主となった上杉治広(はるひろ)の娘が、その次の第11代藩主:上杉斉定(なりさだ)に嫁ぐ際に詠まれた句だという。天下の基本は藩であり、その藩の基本が家であるので、嫁ぐ嫁次第で国が大きく変わってしまう事を伝えた内容となっているようだ。

 

こちらは養子縁組で上杉家に婿入りした鷹山が、17歳で米沢藩主に就任した時に読んだ句のようだ。上杉家のトップに立ったものの、それは領民の父や母になったつもりの気持ちを常に忘れずに、藩政を行っていく必要性があるという自戒の意味だったようだ。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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