江戸時代に秋田の礎を築いた佐竹家を勉強できる「佐竹史料館」【東北旅行記52】

東北旅行記2020年冬-52:秋田編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(The Satake Archives, where you can study the Satake family, which laid the foundation of Akita during the Edo period.  [Tohoku Travelogue 52])

秋田の佐竹!

2020年12月に訪れた東北旅、秋田市で迎えた5日目の朝。今日はこのように久々に晴れた日になりそうで、秋田を満喫できそうな予感を感じるホテルの部屋からの眺め。ちなみにこの方角はホテルから北側の景色で、秋田駅に近いホテルより北側には、このように住宅街となっている景色が広がっていた。

 

今回宿泊した「コンフォートホテル秋田」には無料の朝食が付いており、2階の食事スペースで味わう事が出来る。その食事スペースの窓から見えるホテルの南側には、道を挟んで西武百貨店が運営する「西武秋田店」という百貨店が見える。

 

この建物は元々は地元の有力者が経営する百貨店となっていたが、その後に経営が厳しくなって西武百貨店と提携し、最終的には西武百貨店に吸収合併されて現在に至る。しかし、人口が少なくなってきている秋田市では売り上げが減少し、販売フロアを1階分閉鎖したが、経営状態が改善されない為に親会社のセブン&アイ・ホールディングスが百貨店そごう・西武の10店舗の売却先を探している状態のようだ。

ハゲる前君
ハゲる前君

昔の活気はもう戻らんかもしれんゾ・・・

 

こちらはコンフォートホテル秋田での無料朝食で取ってきた、本日の朝ご飯。無料だけあって普通にホテルで食べれるブッフェと比べると、ちょっと物足りないようにも思えるけど、有料ではなく無料なだけに食べれるだけで充分に満足なのである。

 

 

「千秋公園(久保田城跡)」にて

そんな無料の朝食を食べた後は、昨日の夜にも訪れたばかりだけど、明るい時間帯の城跡訪問をする為に再び「千秋公園(久保田城跡)」を訪れる。昨晩に訪れた経験を活かして、今日は昨日と同じ南側からではなく、正門のある東側入口から城跡へ進んで行く。

 

東側から久保田城跡に入っていくと、まずは蛇行した道になっているのが見える。これは全国の城跡でもよく見られるように、敵の侵入した事を想定して、本丸に辿り着きにくくするようにわざと道をうねるように造られており、ここが城跡らしく感じる光景だった。

 

昨日の夜に訪れた時は暗かったけど、さすがに明るい時間帯に訪れると、公園として整備されている事もあって、緑が綺麗な色を放っている景色が見られた。また復元された久保田城の象徴ともなっている正門が見えているけど、やっぱり夜に見るよりも太陽が昇っている明るい時間帯に見た方が綺麗に見える。

 

こちらの記念碑は『若山牧水歌碑』で、旅を愛していた歌人の「若山 牧水(わかやま ぼくすい)が残した詩が記されている。そして若山牧水は旅好きが高じて、生まれてきた息子に「旅人(たびと)という名前を付ける程だった。なお、この記念碑には若山牧水だけでなく、彼の息子であった旅人の詩も刻まれている。

 

「秋田市立:佐竹史料館」の見学!

そして千秋公園内には、こちらの「秋田市立佐竹史料館」という、この秋田の地を江戸時代に治めていた佐竹家の歴史資料などが展示されている資料館があったので、見学してみる事にした。

 

【秋田市立:佐竹史料館】

住所:秋田市千秋公園1-4
営業時間:9時~16時30分頃(※年末年始休み)
電話番号:018-832-7892
入館料:大人100円/高校生以下無料

 

 

この「秋田市立:佐竹史料館」の入館料は大人100円と考えられない程にお得な料金設定だったけど、別に秋田市内の文化施設などを周遊できる『みるかネット くるりん周遊パス』が500円という値段だったので、こちらの周遊パスを購入してみた。

 

秋田市内の9箇所の文化施設をたった500円で周遊できるという、とてもお買い得に思えたチケットだけど、9箇所中たった4箇所しか訪問しなかった。その中でも一番入りたかった久保田城:御隅櫓は、冬場は営業中止となっているので、そこまでお買い得なチケットでもなかったような。。

 

それはさておき、このような資料館が100円とは驚きである。ただそこまで広い施設でもないだけに、ちょっと控えめな料金設定だったのかもしれない。だけど、このように館内には所狭しと秋田の久保田藩を治めていた佐竹家に関する、重要な資料が展示されているので、コストパフォーマンスが高い場所だと感じた。

 

現代の日本とは違って、昔の日本では血筋や家柄が世間的に重要視されていた。特に大名などのレベルになってくると、とても血筋が大事になってきて、その多くでは源家の血を何かしら引いていると主張している家柄が多かったようだ。

 

 

こちらの肖像画は久保田藩:第10代藩主の「佐竹 義厚(さたけ よしひろ)。生まれてから約3年後の1815年に、藩主でもあり父親でもあった佐竹義和が亡くなった為に幼くして久保田藩の藩主に就任した。佐竹義厚が藩主の頃にチラホラと外国船(ロシア)が出没していた為に警備強化を余儀なくされ、また発生した飢饉によって藩財政が大きく傾き、莫大な借金を抱える程に困窮してしまったようだ。

 

特に1835年~1837年頃に発生した「天保の大飢饉」では、この東北地方がもっとも被害を受けた事もあり、藩財政は困窮して行き詰っていたようだ。ただでさえ色んな出費が嵩み、それに加えて江戸幕府からの蝦夷地警備などの命令もあって、ここ久保田藩も他の藩同様に財政難が日常だったようだ。

 

そして史料館の真ん中に横たわっていた旗は、佐竹家の家紋でもある”扇に月丸”マークが入った本陣の旗。ちなみにこの旗は黒地に金箔で佐竹家の家紋があしらわれており、本陣で使われていた豪華な旗だったようだ。

 

佐竹家は平安時代より常陸北部を支配する豪族となっており、平家と汲みしていた事もあって源頼朝側に加わらなかった為に、一度は領地を没収されたという。そして元々無地の白い旗だった佐竹家に対して、同様に無地の白い旗だった源頼朝が紛らわしいとして、旗にこのような扇子マークを入れるよう指示されたという。

 

その後の戦さでは源頼朝側に加わって戦果を挙げて美濃に領土をもらうも、元々の領地は他の武将に譲られて鎌倉時代には不遇の時代を経験した佐竹家。そしてその次の時代である南北朝時代では、いち早く足利家に付き、鎌倉府の重鎮などを命ぜられて回復していき、戦国時代に常陸の統一を果たす。

 

こちらの整然と書かれた設計図は「熕鐵(こうてつ)全書」という、西洋式の大砲を製造する為に描かれたもの。ただこの設計図があれば簡単に大砲が造れた訳ではなくて、その前に日本では発明されていなかった反射炉を西洋から導入して、鉄を高温で溶かす技術などが必要であった。

 

こちらの肖像画は、久保田藩:第11代藩主の「佐竹 義睦(さたけ よしちか)。この佐竹義睦も父親だった藩主の死去により、若干7歳ほどで藩主に就任する。しかしそういった幼い年頃で藩主に就任すると、その幼い藩主が藩を動かしていた訳ではなく、周りの家老が代わりに執権を行っていた。

その後15歳ぐらいになった時に江戸の将軍に謁見し、それから国に戻ってからは、それまで藩政を行っていた家老を蟄居させ、自分の考えを出して藩政を行うようになった。しかしその後に失権した家老の復権を求めた家臣団のクーデター未遂などが起こり、安定した藩政を行えないまま、19歳前後で亡くなってしまった。

 

こちらの佐竹家の家紋が入った旗は、先程見た旗に比べればちょっと貧相に見えたけど、どうも足軽が付けていた旗らしくて、身分によって持てる旗のランクが違っていた事が分かる。このように日本でも昔は階級社会が強く浸透しており、現代に生きる日本人には想像も出来ないような社会性が広がっていたようだ。

 

こちらの鎧は「本小札紺糸縅二枚胴具足」という鎧兜で、久保田藩:第6代藩主だった「佐竹 義真(さたけ よしまさ)が所有していた物と考えられている。藩主の鎧兜だけあって柄が凝っており、このようなデザインが江戸時代中期頃に好まれていたとか。

 

 

兜の前立てには金色の鶴が取り付けられており、佐竹家の有名な鎧兜の”毛虫”の物よりも全然華やかなイメージがした。江戸時代もこの中期頃になると、このような鎧兜を付けて戦う機会なんてまずなかっただけに、実戦用のデザインよりも飾り物としてのデザインが発展していったのだろう。

 

そしてこちらの肖像画には『神』という文字が見られるが、この人物は久保田藩12代藩主で最後の藩主でもあった「佐竹 義堯(さたけ よしたか)。佐竹義堯は佐竹家の分家である久保田新田藩(後の岩崎藩)の藩主に就任した人物であるが、久保田藩:第11代藩主の佐竹義睦が後継ぎを残す事なく死去した為に、やむなく久保田新田藩の藩主の座を弟に譲って、本家である久保田藩の藩主に就任したのである。

 

その久保田藩は明治時代になってから勃発した戊辰戦争では、旧幕府軍に付く東北勢が多かったが新政府側に協力し、周辺の藩と戦った。周辺を敵に囲まれた境遇だった事もあり、また西国からの援軍に対する支援をこの久保田藩が捻出しないといけなかった為に、財政難に苦しんだという。

 

江戸時代には大きな内戦が起きなかった日本だが、明治時代には戊辰戦争や西南戦争などで久しぶりの内戦が勃発した。しかし、その時の兵士の服装は戦国時代とは打って変わり、このような最新兵器の鉄砲や西洋軍隊方式が導入されていたりで、大きく様変わりしていたようだ。

 

特に戊辰戦争では、旧幕府軍と新政府軍共に西洋式の優れた銃火器をどんどん導入し、旧来の合戦スタイルではなく、銃火器の質と量の戦いに変わってしまった。特に先進国の西洋式銃火器をいち早く導入していた西国の軍隊を活用した新政府軍は、新たな時代に早急に変化出来なかった旧幕府軍を蹴散らしていくのであった。

 

ペリー提督が幕末に日本に乗り付けた際に日本人が初めて見た蒸気機関で動く船も、その後に日本は自国でその技術を開発するものの、蒸気機関の開発に時間と費用が莫大に掛る為に、最終的にはオランダなどの西洋に外注して手に入れる事になる。

 

こちらの旗は”菊花紋章”が入った「藍軍」の軍旗で、久保田藩家老:中安泰治が藍軍に任じられ、薩摩や長州の軍勢などを含む400人近くの兵士で、この軍旗を纏って奮戦したとされているようだ。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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