かつてこの土地を支配していた最上義光の騎馬像が際立つ山形城跡【東北旅行記66】

東北旅行記2020年冬-66:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Ruins of Yamagata Castle, highlighted by a mounted statue of Yoshiaki Mogami, who once ruled this land. [Tohoku Travelogue 66])

青空背景は最高!

ここは山形県の中心部として昔栄えた、全国でも5番目に大きな規模の城が存在していた「山形城跡」。この山形の地は戦国時代から江戸時代初期にかけて、最上氏でも猛将と知られていた最上義光が初代山形藩主として治めていた頃が全盛期で、その後は転げ落ちるように転落していった場所でもあります。

 

【山形城跡/霞城公園】

住所:山形市霞城町1
開園時間:5時~22時頃(※入園無料)

 

 

 

山形城跡の見学!

山形城跡の東側に復元されている大手門側から、城跡へと進んで行く。すると1991年に復元された「二の丸東大手門」が見えて来て、昔ここが立派なお城だったという事を想像させてくれる造りになっている。ちなみにこの復元された門の場所で、ボクが好きな日本映画が撮影された事もあったそうだ。


 

映画『超高速!参勤交代』予告編

2014年に公開された『超高速!参勤交代』という江戸時代の参勤交代の様子をコミカルに描いた作品が、この山形城跡で撮影された映画だったのである。

 

この山形城でのシーンは、参勤交代の目的である江戸の城に到着した場面を撮影しており、山形ではこのように映画などのロケ地として新たな収入を得ようと招致活動を地道に行っているようだ。この21世紀には新しい産業を新規に興すのも大変であるが、観光立国を目指す日本としてロケ地として使われた映画がヒットすれば、そのファンがロケ地巡りをしてくれる。

 


 

山形城も時代に応じてその姿を変えていったが、復元されている「二の丸東大手門」は江戸時代中期頃の状態をモデルにしているようだ。その頃が一番城内の資料が残っているらしく、なるべく昔存在していた形に近づける努力もなされているようだ。

 

このような江戸時代の建造物を復元するという事は、それだけ長い樹齢のしっかりした材木を手に入れる必要があるという事でもある。当初は樹齢200年以上の材木を使いたいと考えていたが、そう簡単には手に入らなかった。しかし友好国でもある台湾の製材業者の協力により、台湾檜を入手してこの大手門復元に使用されたようだ。

 

この山形城跡のように公園として開放されている場所は無料で入場できるのであまり気にせず通り過ぎてしまうけど、この大手門の扉や柱に使われている木は自分達以上にこの世に生きてきた木なので、それらの木に感謝する気持ちで門を通り過ぎる必要があると思う。

 

そしてその大手門をくぐると、二ノ丸内に入ってきた。ただ本丸はまだこの二ノ丸から堀を挟んで内側に造られているので、ここが本丸ではない。そしてここでも1体の銅像が設置されているのが見えて来て、最近はこのような銅像の小さなシルエットが見えるだけで少し興奮を感じるようになってきている。

 

このように綺麗に復元された大手門だけに、映画の撮影が行われても作品内の江戸時代の雰囲気を全く損なわない造りになっている。『超高速!参勤交代』の映画を前回見た際には全然ロケ地の事なんて気にもしなかっただけに、次にこの映画を見た時にはこの山形城でのシーンに釘付けになりそうな予感である。

 

 

最上義光の騎馬像を眺める!

そしてこちらの騎馬像に近づいて、間近で眺めてみる事にする。このように馬に乗っている姿の作品は世界中の銅像でもよく見られるけど、それなりに重量のある像を馬の細い後ろ脚2本だけで支える構造になっているので、構造的には壊れやすい可能性がある。だから銅像を製作する前にそのバランスなどのシュミレーションが行われ、また馬の脚には鋼鉄などで補強されている事が多かったりするようだ。

 

このような馬が後ろ足で立ち、前足を空中で高く振り回す”嘶く(いななく)という姿勢は、主に勇猛果敢な武将などでよく採用されるポージングである。この像は言わずと知れた、この山形の繁栄を築いた「最上義光」の像で、戦国時代には上杉家や伊達家と共に存在感を国内に示していた人物である。

 

ただこの東北の地では、最上義光が伊達家や上杉家ほどに全国的にそこまで知られていない理由には、江戸時代に山形藩を興したものの、それから都合3代しか最上氏が存続出来なかった事が大きな要因かもしれない。伊達家や上杉家は明治時代を迎えるまで、単家でその藩を守り続ける事に成功したので、その名前がより知られるようになっているのだろう。

 

この最上義光の像が造られたのは、1977年11月。像を寄贈したのは、ここ山形市に本社を置く菓子メーカー「株式会社でん六」の創業者。戦国時代に勇猛果敢な武将として知られていた最上義光だけに、躍動感のある姿の像を製作者に依頼したが、約3トン程の重量のある像を馬の後ろ脚2本だけで支えるのが困難な為に色んな所で断られたという。

 

しかし一代で大きなお菓子メーカーを創り上げた創業者は、それ位の困難でも諦める事なく、自分の求める騎馬像を作ってくれる人を探した。そして辿り着いたのが『山形鋳物』という山形の地に伝わる伝統的な鋳物で、そこの鋳金工芸家の「西村  忠」という人物がデザインした物だそうだ。

 

そして努力を重ねて作られた最上義光の像は、2011年の東日本大震災でもビクともしなかったという。今年2022年3月に仙台付近で発生した大きな地震により、伊達政宗の騎馬像の足首が割れて傾いてしまったが、この『山形鋳物』の技術であればどうなっていただろうか? このように単に目の前に見える最上義光を見るだけで、最上義光の生き様と共に、その像制作裏側の努力秘話も味わえる像となっている。

 

 

こちらは山形城跡の敷地内に造られている「山形県博物館」。旅で地方に行く時は最近では必ずと言っていいほどに立ち寄る場所になっているので、本丸付近を散策してから博物館の見学をするつもりである。

 

 

山形城の本丸跡にて

この先に見えているのは山形城の本丸部分で、2つあった本丸への入口の1つ「一文字門」である。こちらに見ている門や木造の橋も復元された物で、かつての山形城の姿を取り戻す復元作業が着々と進行している感じが伝わってくる。

 

こちらは本丸の様子で、内側には空堀が造られていて、本丸側には石垣が手前半分側まで造られている。この山形城は最上義光の時代には石垣の無い土で固めた城だったが、その最上氏が改易された後に転封してきた鳥居氏の時代に改築されて、一部にこのような石垣が建造されたようだ。

 

その本丸内にも入れると楽しみにしていたのだが、ここも冬の東北地方ならではの”冬の期間は閉鎖中”だったのである。ここを訪れたのは12月上旬で、このように全く雪が積もっていない時期だったので、これだったら平気で入場できると思ったけど、冬になるといつドカ雪が降るかもわからないだけに、早めに入場を締め切っているようだ。

 

ただこの一文字門を進んで本丸内に入っても、中には実は何もないのである。というのも江戸時代には天守閣とかの豪華な建物は造られておらず、藩主などが藩政を行っていた御殿などがあった場所。しかしその御殿とかも後に取り壊されて、明治時代には陸軍が駐留した際に堀などを埋め立てたりして、その江戸時代初期の様子がほぼ消えてしまっているからだ。

 

山形城の本丸跡:Googleマップより

山形城の本丸跡:Googleマップより

ちなみに上記の写真は、Googleマップで山形城本丸跡を上部から眺めたもの。このように現在も本丸跡の発掘調査が継続して行われており、何十年後にはいずれこの本丸内に御殿などの建物が復元される時が来る事だろう。また本丸を取り囲む堀は、四方にはなくて今では南側と東側にしか残っていない。

 

こちらには「一文字門」の復元の様子などが説明されているパネル。右側の絵を見れば分かるように、この一文字門も木造の橋を渡っても直ぐに本丸内に入れた訳ではなくて、入って直ぐにまた大きな門と櫓が造られていて、簡単に侵入できない城らしい造りになっていたようだ。

 

なお山形城はこれからも昔の姿を取り戻す復元工事が続けられる予定で、この一文字門の奥にあった大きな櫓付きの門なども将来的に復元する予定になっているようだ。そしてその復元が進められると、この手前の堀も今は空堀だけど、いずれ水が入れられた水堀となるようだ。

直江クン
直江クン

かつての荘厳な山形城が復活する日が楽しみです!

 

「山形市立郷土館(旧済生館本館)」の見学!

そして山形城跡の敷地内奥には、この看板にもあるように「山形市立郷土館(旧済生館本館)」なる建物があって、内部を見学できるようなので、ついでに見学してみる事にしてみた。

 

【山形市立郷土館(旧済生館本館)】

住所:山形市霞城町1番1号
営業時間:9時~16時30分頃(※年末年始休み)
電話番号:023-644-0253
入館料:無料

 

 

この建物は「旧済生館本館」という、明治6年(1873年)に山形に誕生した私立病院の建物として、明治11年(1878年)にここではなく、山形駅より東側にあった山形県庁の脇に造られた病院だった。それから約80年程使用されてきた建物だが、老朽化の問題もあって建て壊しも考えられたが、明治時代初期に建造された歴史的な洋風建築物として国の重要文化財にも指定されて、保存される事になった。

 

そこらの国の重要文化財で見かける明治時代の建物とは違って、この済生館本館は建物の形がとても特徴的である。木造三層楼部分と、それを円に描くような丸い回廊がある建物で、しかもその形が明治時代初期に造られたという事で、当時の建物としては相当奇抜な物だった事だろう。

 

さっき訪問した「最上義光歴史館」といい、これから見学する「山形市立郷土館(旧済生館本館)」といい、”入館料:無料”という素晴らしい待遇になっている。この無料の裏側には市町村からの補助金などで運営費が賄われているという事でもあるけど、個人的には100円でも入館料は徴収した方がいいのではと思ってしまう。

 

その理由は、人間という生き物が単純な考え方をしていて、「お金が必要な物ほどに、その価値を高く感じてしまう」という習性があるからだ。例えば美術館などに飾られている絵画を見ていて、普通に見ている分ではそこまでの価値を感じなくても、もしその絵が1枚5億円もするという事を知った途端に「う~~ん、なかなかに素晴らしいタッチの絵だね!」と思ってしまうようなもんである。

 

入口に向かっている途中に、こちらのレリーフを発見する。このレリーフの人物は「アルブレヒト・フォン・ローレツ(Albrecht von Roretz)という、明治時代にオーストリアから医師として招聘された人物である。オーストリアのウィーンで生まれ育ち、内科及び外科学の博士号を取得して明治7年に明治政府に招聘され来日を果たした。

なお、ローレツ氏は当時月給300~500円で雇われていたらしく、その当時に山形県令だった三島通庸より3倍多い給料だったそうだ。

 

来日してからはまず横浜居留地に住む住民の医療を行い、それから名古屋や金沢、そしてこの山形の地などで医療を行いつつ、次世代の医師を育てた。医学は遥かにヨーロッパが進んでいたので、明治政府は早急に外国人技師などを導入した。その甲斐もあって日本は、アジアの中でも西洋諸国の植民地にならずに済んだ訳である。

 

それにしても1878年という、今から約140年前に建てられた建物には思えない程に綺麗な外観をしている。1960年代の後半に解体してからこの山形城敷地内に移転してきた時に、合わせて補修工事が行われており、その甲斐あって未だにその威厳を放つかのように存在感を醸し出している。

 

館内は入館料が無料になっているけど、コロナ禍だったので一応連絡先の記入と、体温検査が必要だった。それをクリアして建物内に入っていくと、こちらの頭蓋骨を持ったオジイサンの絵が見えてきた。

 

中世ヨーロッパでよく見かける絵画でこのような頭蓋骨と共に描かれている事が多いのが「聖ヒエロニムス」という、4世紀頃にそれまでヘブライ語などでしか表記されていなかった旧約聖書を、標準的なラテン語訳の聖書『ウルガタ聖書』に翻訳した人物である。なおこの絵は三島通庸:山形県令が、当時の東京大学の画学教授に頼んで描いてもらった物だそうだ。

 

イスラエルのベツレヘムという、イエスキリストが誕生した場所に造られている「降臨教会」に、この聖ヒエロニムスを模った像が設置されていた記憶が少し蘇る。勿論この旧約聖書の翻訳作業には膨大な時間を費やしており、単独ではなく助手と共に仕上げていったが、その助手が亡くなってもその頭蓋骨を近くに置いて、「必ず翻訳作業を完了するぞ!」という意気込みを持って取り組んでいた事だろう。

 

こちらはこの建物とは関係ない物のようだが、山形市内にあった土蔵の屋根に”魔除け”として設置されていた鬼瓦のようだ。本来は鬼を恐れる日本人だったけど、ちょっと機転を変えれば、”敵の敵は味方”という言葉にもあるように、自分達が怖いと思う存在を使う事によって、もっと別の災いなどを追い払えると考えていた事だろう。

 

こちらの鬼瓦は、かつて山形城本丸に存在していた本丸御殿の屋根に取り付けられていた鬼瓦のようだ。詳しい事は判らないようだが、御殿が解体された時にパーツを持って帰ったのかもしれない。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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