東北旅行記2020年冬-99:山形編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(My 2020 Tohoku trip ended without seeing any cherries at Yamagata’s “Delicious Airport”! [Tohoku Travelogue 99])
美味しい空港?!
さて2020年と今から2年前の旅行記も、遂に終焉を迎える日がやって来ました。青森県から始まって、秋田県・山形県と南下してきた旅も、ここ山形県の「おいしい山形空港」で遂に最終回となります。
アンタ、今は2022年やで!
「おいしい山形空港」にて
さて「おいしい山形空港」に到着してから、いきなり建物には入らずに、その周辺のサクランボの実がなっていないサクランボ畑を軽く見学してから、満を持したように山形空港の建物内へと進んで行く。
この山形空港は1964年から民間の旅客機が運航を始め、最盛期には年間70万人を超える利用客だったが、今では30万人を超える位で全盛期の半分ほどの利用客となっている。現在は国際線の運航はなく、JALとFDAの2社だけの乗り入れとなっている。
そしてこのようにチェックインカウンターも、全然人影が見られない。山形駅から乗ってきたシャトルバスから降りた後に、すぐに建物内に入らなかった事もあって、同じバスに乗っていた人は早々に搭乗手続きを完了して、消えてしまっていたようだ。
展望デッキへと向かう!
そして悠々と搭乗チェックインを済ませて、空港に来た時にはいつも行く展望デッキへと向かう。いつも飛行機搭乗時間に余裕を持って空港に向かうようにしているので、搭乗時間まで時間を持て余してしまうだけに、このような展望デッキが無いと逆に暇になってしまうのだが。。
この時点で16時45分頃だったけど、12月という事もあって、このようにすっかり暗くなっていた。そんなには広くはない展望デッキだけど、普通の空港だったら飛行機を狙うカメラ小僧などをよく見かけるけど、ここ山形空港ではそんな飛行機マニアの姿は1人も見かけなかったが。。
FDA(フジドリームエアラインズ)はJALと業務提携しているだけに、JAL好きのボクは意外と利用する事が多い。また直接FDAのチケットを予約するよりも、HISのセールなどのタイミングで飛行機&ホテル付きの旅行プランを選ぶと、結構割安に予約できる時もある。
交通の便のいい空港だったら、飛行機の写真を撮りにカメラ小僧が沢山出没するけど、最寄りの駅から歩いて50分前後もかかる利便性の悪い立地にある山形空港で、しかも飛行機の発着本数が少ない過疎空港だけに、このようにせっかくの展望デッキは無人状態だった。。
この奥に滑走路が1本造られているのだが、その滑走路の下に地下通路があれば、最寄りのJR駅から10分程で到着する事が出来たハズ。しかし、この空港は元々日本帝国の海軍の飛行場だったので、そんな民間向けの利便性など最初から考慮されずに設計されているようだ。
そしてこの山形空港の展望デッキでボクを待ち受けていたのが、こちらの可愛い顔をした”双眼鏡クン”だった。この雪深い山形の展望デッキに剥き出しに設置されていた双眼鏡クンだったけど、何ともこちらに微笑んでいるような表情に思えたのである。
そして展望デッキには、このような写真スポットも用意されていた。誰も居なかっただけに思い切って自撮りを行えたけど、「美味しい山形空港」というように漢字の方が意味が伝わりやすいように思えたけど、ひらがなで「おいしい山形空港」との文字が飾られていた。
さて空港にやって来た時に行う、いつもの恒例行事を終えて、搭乗口周辺に向かう。この2020年はコロナ禍で大きく飛行機の利用客が激減した年だっただけに、このようにお土産屋さんが営業してくれているだけで、有難く思えた。
個人的には”ご当地牛”にはあまり惹かれないけど、お土産を売る立場だったら、その”ご当地牛”のネームバリューを使わない手はないのだろう。こちらの「山形牛 ラーメン」という商品が販売されていたけど、米沢牛ほどのインパクトは感じなかったが。。
そして山形名物ともなっているのが、この「玉こんにゃく」。一言で言えば、”玉形のこんにゃく”なのであるが、やっぱりアツアツの状態で食べると、とても美味しく感じた。山寺の周辺ではこの玉こんにゃくを、1000段に及ぶ階段を登る前に力を付ける為に”力コンニャク”として販売している。
その山寺周辺のお土産屋さんで販売していた「玉こんにゃく」は、同じ物が空港の売店でも売られていたのでお買い上げ。若い自分だったら買わなかったお土産だけど、40歳を超えてくるとこういう物がとても美味しく感じるのである。
そして山形名物のお菓子としても人気な、日本製乳が販売する「おしどりミルクケーキ」も購入する。仙台旅行の際に購入して気に入っていたお菓子だけあって山形空港で買う気マンマンだったが、空港内の売店にはあまり種類が置いてなくて、買いたかったサクランボ味を入手できずで残念ではあった・・・。
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この山形空港があるのは山形県東根市で、こちらのパネルにも表示されているように、”サクランボの生産量が日本一”の場所である。それだけに東根のサクランボを味わいたかった気持ちもあったけど、さすがに冬に来ても食べれなかった。。
さて8日間に渡って訪れた東北旅も、山形空港の搭乗口前で遂に終了となってしまう。旅行社のツアーに参加したりすると、よく「旅行は家に帰るまで、続きますからね~!」と言われるけど、個人的には帰りの飛行機の搭乗口に到着した時点が終わりだと思っている。
最後に缶ビールかいな!
さて18時5分出発のJAL便の搭乗が開始する。いつも飛行機に登場する際には、最後の方で乗り込むようにしているのだが、この時は全然搭乗客が居なかったので、すぐに乗り込む事になった。。
しかし数年前まで会社員をしている時代には、これだけ飛行機に乗る事になろうとは想像もつかなかった。あのまま仕事を続けていればそれなりの人生経験を積めただろうが、仕事を辞めて海外に行ったり、国内の色んな場所に行った事による人生経験の方が何十倍も自分にとっての価値があると感じる。
アンタはええけど、周りからしたら・・・(怒)
小さな飛行機だけにあまりガラガラには見えないけど、搭乗率20%前後ぐらいだったと思う。飛行機は現代人に欠かせないインフラと化しているだけに、国からしても潰れてもらっては困るだけに、今回のコロナ禍は社会的に融資を行ってでも乗り越えてもらう必要があるのだろう。
そして飛行機が山形空港の滑走路を走って、無事上空に飛び出していった。初めての青森県・秋田県・山形県と3県に跨った旅行だったけど、これが2020年ラストの旅行ともなる。コロナ禍が大きく世界を変えた2020年だったけど、終わってみれば色んな経験が出来た年だったと思える事だろう。。
<まとめ>
さて2020年12月に東北の①青森県②秋田県③山形県と3県を訪れた旅も、初めての100話到達かと思わせながら、上手い事99話で終わりとなる。
そして今思えば色んな歴史や文化などが学べた旅だったが、その旅のおさらいを最後にもう一度したいと思います。
旅の始まりは、青森県の青森空港に降り立った時点から始まった。12月という事もあって東北地方では雪が降りだしてきている時期だったけど、この青森空港が造られている場所は青森の中でも雪深い場所だった。だから空港周辺は雪が積もっていたけど、青森市内に向かうと意外と積雪が見られなかった。
ここは青森県でも西側にある「鶴の舞橋」という、”日本イチの木造三連太鼓橋”。奥には”津軽富士”とも称される岩木山が見えて、池のように見えているのは江戸時代に人工的に造られた溜池。ただ木造の橋だったのでてっきり歴史がある古い橋かと思っていたけど、実は観光資源として新たに近年に造られた橋だったので、そこまで古い橋では無かったが。
今ではすっかり人気の観光地に成長したヨ!
そして青森県というと、夏祭りで行われる”ねぷた祭”が有名な場所である。ただ青森県内でも”ねぷた祭”は市町村毎に特徴があり、ここ五所川原市ではこのように高さ20mを超える『立佞武多(たちねぷた)』が有名である。
是非、祭りの時に来るべさ~!
そんな青森県五所川原市は、あの人気歌手:吉幾三氏の出身地でもある。独特の津軽弁を使っての、コミカルな歌を作って歌う吉幾三氏は国民的な人気歌手になっているけど、五所川原市には彼のミュージアムも造られていた。ここには出川ちゃんの人気番組『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』でも訪れた場所で、この時の係員のお姉さんはその時にテレビに写っていた人だった。
そして五所川原市には、もう一人国民的に有名な人物の出身地である。その有名人の実家がこの立派な歴史ある家屋なのであるが、この実家が地域でも高名な銀行家で政治家でもあったので、意外と裕福な生活環境に育っていたのがビックリだった。
そんな有名人は、こちらのマントが似合った「太宰治」。「走れメロス」などの小説で昭和前半に人気を得た作家だったが、結局当時流行った自殺で亡くなってしまった。個人的には太宰治の本は殆ど目を通した事がないだけに、あまり親近感を感じなかったけど、今後太宰治の作品を読む機会が増えてくる可能性を感じた、彼の実家訪問だった。
そして本州の北端に位置する青森県の、更に最北端にあるのが右上の方に突き出た「下北半島」。意外と交通の便が悪く、レンタカーを借りて一周したけど、ほぼ一日を費やしてしまった。ただこのような端っこの場所は、戊辰戦争で敗北した会津藩の藩士などが島流しされ、凍える気候の中で開拓を強要された土地だけに、感慨深いものを感じた場所でもあった。
こちらは下北半島でも西側の海岸にあった「仏ヶ浦」という、天然に侵食されて出来た大きな奇石だらけの海岸。信仰深かった昔の人達は、この場所を極楽浄土が再現されている場所だと思って、わざわざこの僻地まで巡礼していたという。
そしてその下北半島の最北端にあるのが「大間町」で、この大間町で有名なのがこちらに造られている像を見れば分かるように、”クロマグロの町”となっている。それ以外にもこの大間町の北側には北海道があるのだが、その間を津軽海峡が阻んでおり、津軽海峡の急流が本州と北海道を大きく引き離す役目をしていた。
そしてこの辺りはとても吹き付ける風が強く、帽子など被って訪れた際には、津軽海峡を渡って函館まで飛んでいくかのような突風が吹き付けている場所でもあった。そんな本州最北端の場所には”ブラキストン線”というラインがあって、津軽海峡を境にして北海道と本州側で動物の生態系が異なっているという事を発見した人物の名前が付けられている線だった。
そんな僻地にも思える下北半島を訪れた目的は、その下北半島の隅っこに生息しているという「寒立馬(かんだちめ)」という馬を見たかったから。九州の南側に位置する都井岬で「御崎馬」という野生の馬を見た事もあって、逆に本州最北端に生息する馬を見たかったという訳。
しかし夏場には灯台近くまで入れる尻屋崎だけど、冬場は灯台までの道が通行止めになっているので、冬場に訪れるメリットは少ない。そして肝心の寒立馬は、訪れた12月初旬にはこのように中途半端な場所に放牧されていて、遠目に眺めるだけしか出来なかった。
こちらは青森市の名物料理となっている「味噌カレー牛乳ラーメン」という、一般常識ではまずこんなラーメンを食べたいと思わないような一品だった。しかしこのようなふざけたラーメンも、実は色んな物をお遊びで混ぜて頼んでいた学生たちが、試行錯誤を重ねて完璧なブレンドを見つけた逸品で、恐る恐る口にしてみると、ビックリする程にカレーと牛乳の味がいい調和をしていて美味しかったのだ。
食べたら、みんなハマっているみたいヨ!
そして青森市から南に移動して、弘前市に向かう。この弘前市は”リンゴの生産量が日本で一番”という、名実ともにリンゴの街となっていた。駅の改札を出て弘前市に足を踏み出すと、いきなりこのような大きなリンゴのオブジェがお出迎えしてくれた。
こちらは五重塔として最北の重要文化財となっている、「最勝院」の五重塔。江戸時代前半に建造されたという歴史ある五重塔だが、雪が沢山降る青森県で350年以上に渡って、多くの雪を受け止めてきた建物でもある。
こちらは「旧:第五十九銀行本館」という明治時代に造られた銀行跡の建物だが、この建物を設計したのはこの青森でも有名な「堀江佐吉」という人物。この堀江佐吉はあの太宰治の、今では重要文化財にも指定されている豪華な実家「斜陽館」を設計した人物でもあり、またこの弘前市内には他にも多くの建築物を手掛けている。
そして内装も豪華になっていて、当時の第五十九銀行:頭取が「幾らでも金は出すから、豪華な建物にして欲しい!」と言った事もあって、資料館として使うには勿体ない位の立派な建物だった。
そしてねぷた祭が有名な青森県だけど、この弘前市では”弘前ねぷた”という、五所川原市の立佞武多とはまた違った山車が使われていた。基本的には昔話から引用された内容に基づいて、山車の飾りつけや人形などが造られており、昔話も勉強しないとこの山車の意味が理解しにくかった。
今の青森県の県庁所在地は青森市になっているけど、江戸時代にはこの「津軽為信」が藩祖となっていた津軽弘前藩が青森の中心だった。全国的にはあまり有名ではない津軽家だけど、江戸時代270年の間に弘前藩を守り続けた立派な大名だった。
そしてその弘前藩の居城だったのが「弘前城」で、城跡には江戸時代初期に建造された門が数点現存していた。昭和時代以降に復元された城が多い中、このような立派な木造の門が複数残されている事に思わず驚いてしまった。
そしてそんな弘前城の天守閣は、”今の日本国内に江戸時代から現存する12個の天守閣”の1つに含まれている。ただその天守閣が乗っている足場の石垣に膨れた場所が見つかり、倒壊する前に大規模な補修工事が行われていた。実はこの石垣は約100年前にも大規模な補修工事が行われており、その工事の際に指揮を執ったのが堀江佐吉だったのである。
こちらが曳家されてこの場所に一旦置かれていた、弘前城の天守閣。天守閣の建物というと大きな石垣の上に立っているから大きく見えているけど、このように場所を移されると意外と小さく見えてしまうようだ。ただ最初の天守閣は大きかったようだが、途中で焼失してしまって、今見られるこの天守閣は江戸時代後期に造られた物。ただ、江戸幕府に配慮してか、遠慮気味に小さく設計されたというが。。
弘前市に来たのであれば「やっぱりリンゴも勉強しないと!」と思って、徒歩で「弘前市リンゴ公園」を訪れた。しかし当然の如く冬場に訪れても雪一面の景色だらけど、リンゴが実がなっている景色は見られず、このように岩木山も綺麗に見えなかった・・・。
また秋ぐらいに来てネ!
「弘前市リンゴ公園」内のお土産店でリンゴが売っていたので、おやつ代わりに購入する。このように雪の中で味わうリンゴは初体験だったけど、この雪を見たくてわざわざ冬に青森県にやって来ただけに、感慨深かったと思わざるを得なかった。。
そして弘前市から更に南下して、秋田県大館市に到着する。この大館市は”秋田犬”で有名な場所で、昔は”マタギ”と呼ばれた熊を狙う猟師の相棒として好まれていたようだ。そして日本人にはお馴染みの『忠犬ハチ公』のワンちゃんも、この大館市出身だという。
大館市の「秋田犬会館」を訪れると、このように意外と大きい秋田犬が出迎えてくれた。秋田犬ってもっと可愛いイメージがあったけど、闘犬として好まれた事もあって、体の大きな種と交配が繰り返された影響で大型犬になっていった歴史がある。だから秋田犬を飼うつもりだったら、飼いやすい柴犬の方が良さそうにも思えたが。
それから秋田市内へ移動すると、秋田駅の改札前にはこのように”なまはげ”のオブジェが出迎えてくれていた。ただ今回の旅ではこの”なまはげ”が伝統的に行われてきた男鹿半島は訪れなかったので、詳しい事は勉強できずだった。。
男鹿半島まで来ないと、死刑だゾ~!
この秋田県は江戸時代に、「佐竹義宣」を藩祖とする久保田藩が治めていた場所。この久保田藩も弘前藩と同様に、佐竹家だけで江戸時代を守り通したのだが、これまた東北という少し地味な土地という事もあって、意外と全国的にはあまり知られてない。
こちらは久保田城跡だが、明治時代以降に公園として整備されており、このような立派な門が復元されているだけで、天守閣の建物などは特になかったようだ。戦乱が収まった江戸時代には、普段使わない天守閣に多額の費用を掛けて造る事よりも、そのお金を他に使って効率的な藩運営する事の方が、正解だったのかもしれない。
こちらは秋田県で最も有名な『竿燈まつり』という、何十個もの提灯をぶら下げて町内を練り歩くお祭り。これは秋田市内にある資料館「ねぶり流し館」を訪れた際の景色だが、ここを訪れた時にフィギュアスケートで人気だった浅田真央:元選手が取材の一環で訪れていた。
久しぶりに芸能人を見ましたよ!
ここは秋田市内から北西の日本海側にある「土崎港」という、戦国時代頃からの港町。そんな歴史ある港には、今ではこの「ポートタワーセリオン」という大きなタワーが造られているが、本来は秋田を治めた久保田藩の名産品を北前船で出荷する、重要な港だった場所である。
そしてこの土崎港は日本も参戦した第二次世界大戦の、終戦前日にアメリカ軍によって大規模な空爆が行われた場所でもある。こんな東北の港まで爆撃されていたとは全然知らなかったけど、この地域では原油が産出していた事もあって、港周辺に造られていた石油製油所を目当てに爆撃が行われたようだ。
こちらはその「ポートタワーセリオン」の無料展望台まで登って、見渡した土崎港の景色。左奥に見える陸地が”なまはげ”でも有名な男鹿半島だが、このような港の役割も産業革命以降に大きく変貌を遂げている。それまでは船から艀で陸地に荷物を運んで倉庫にまた運んで・・・という効率が悪い運搬だったが、1950年代にコンテナが大きく流通するようになってからは、大きなコンテナを受け入れる事が出来る大きな新しい港が発展していく事になった。
そして翌日は更に南下して、山形県の新庄市で途中下車をし、最近の新庄名物として売り出している鶏がらスープの”新庄ラーメン”を味わう。青森市内で食べた”味噌カレー牛乳ラーメン”程のインパクトは無かったけど、普通に美味しいラーメンで、毎日でも食べたくなる程に思えた。
そして山形市内に入ると、JR奥羽本線の線路脇にこのような大きな大手門が復元されていた。こちらは「山形城跡」で江戸時代には、最上義光が藩祖となった山形藩の居城だった場所。また最近では山形市が映画のロケ地に使って欲しいと招致活動を行っており、ボクの好きな日本映画の一部もここでロケをしていたようだ。
そんな山形城跡に鎮座していたのが、こちらの最上義光の騎馬像。伊達家や上杉家と共に”東北の雄”として猛将とも知られている「最上義光」だが、内政面でも優れた指揮を執っていたようで、山形藩初期が最も山形城周辺が栄えていたとされている。しかし最上家はたった3代で改易となってしまい、その後は10回以上も主君が入れ替わって、まともに城を維持できない程に落ちぶれてしまったようだが。。
こちらはその山形城跡敷地内に移転して保存されていた、明治時代初期に建造された洋風建築物の病院だった「済生館本館跡」。元々は山形県庁舎の近くにあった建物だが、老朽化で取壊しも検討されたが、重要文化財に指定された事もあって、この地に保管されている。
翌日は山形県でも有名な観光スポットとなっている、「山寺(立石寺)」を訪れる。現在の本堂はそんなに高くない場所に造られているが、山の上に造られている”奥の院”が約1,000段の石段を登った所にあり、そこまで登って参拝するのが昔から人気のようだ。
そんなみんなが「ハア~ハア~・・・」とシンドイ思いをしながら階段を登る山寺は、あの松尾芭蕉が有名な句を詠んだ場所でもある。このようなブログで旅行記を作っている人間からすれば、紀行文の大先輩に当たる松尾芭蕉だけに、恐れ多い山寺訪問だった。。
この大きな岩の上に小さな祠が造られている景色は、よく観光パンフレットなどで目にする光景である。なお、この祠の下にはこの山寺を開いた始祖の遺体が埋葬されているらしく、昔の僧達は余程人里離れた場所に住みたかったかがよく分かる。
こちらは山形県名物の”玉こんにゃく”。そしてこの山寺周辺のお店で販売している”玉こんにゃく”は、1000段にも及ぶ石段を登る前に力を付ける意味合いで「力(ちから)コンニャク」と呼ばれているらしいが、そういった事を知らずに山寺登りを終えた後に食べてしまったのである。。
そして旅の最後に訪れたのが、今回の旅で一番楽しみにしていた米沢の地。ちなみにこのJR米沢駅の駅舎は、米沢市内に現存する明治時代に建造された文化財ともなっている「旧米沢高等工業学校:本館」を、モチーフにした外観となっている。
そして”米沢”という名前を聞いて、こちらの「米沢牛」を思い浮かべた人は食いしん坊だろう。江戸時代までは基本的に日本人は牛を食べる文化が無かったが、開国して多くの外国人が流入してきた明治時代になって、その牛肉の美味しさを知った日本人。
こちらは米沢市内にある、米沢の地を江戸時代に治めていた米沢藩上杉家の歴代藩主のお墓が設置されている「上杉家廟所」。この米沢藩も江戸時代約270年の間、上杉家だけで守り続けた。しかし、その歴史を詳しく調べてみると、途中に潰れそうになった事もあったけど、1人の名君の出現によって生まれ変わったようだ。
この米沢藩上杉家は、あの戦国時代でも有名な武将:上杉謙信を祖としている。ちなみに上杉謙信の墓自体はここではなく、米沢城内に長い間安置されていたが、明治時代以降にこの「上杉家廟所」に移されている。
この米沢の地では、米沢藩上杉家の祖として考えられている上杉謙信が神として祀られているが、もう一人こちらにお墓のある「上杉鷹山」も神様として崇められている。現代の米沢の地に暮らす人々にとっては、どちらかというと上杉鷹山の改革の影響を大きく受けている事もあって、神様以上の存在に思われているようにも感じた。
そんな上杉家で上杉という名前以外で最も有名な人物が、こちらにお墓があった「直江兼続」。個人的には漫画『花の慶次』で知った人物だけど、世間的にはNHKの大河ドラマ『天地人』の主役となった為に、一躍有名になった人物だ。
そんな直江兼続の代名詞が、こちらの『愛』という文字が入った前立てのある兜。この愛は現代人が感じる「愛=LOVE」という意味合いではなかったが、ひと際インパクトがあって、猛将として戦場でも優れていながら、内政面でも優れた手腕を発揮して、豊臣秀吉が引き抜きたかった逸材とされている。
でもやっぱり「上杉」という名前を聞くと、こちらの上杉謙信が最初に頭に浮かぶ。川中島の戦いで武田信玄と何度も繰り広げられた激戦が有名な人物だが、その反面、とても信仰深い人間で一時は大名という立場ながら、いきなり出家宣言をして飛び出して行ったりと家臣を悩ませる存在でもあったようだ。
そしてこの米沢の地を訪れたかったのは、そんな上杉家と共に、こちらの旗にもある前田慶次が晩年を過ごしたとされている場所だからだ。前田慶次の晩年については色んな説があるらしいが、この米沢では駅の東側の何もない場所に屋敷を作って、のんびりと死ぬまで過ごしたとされている。
こちらは前田慶次の屋敷近くにあった「慶次清水」という、慶次が飲み水に使う為にここを掘ったという湧き水。一応20~30年前に実施された水質調査では、飲み水としては問題のない範囲と測定されているが、飲みたいと思う泉ではなかったが。。
それから近くの「堂森善光寺」を訪れ、境内に造られている前田慶次の供養塔を拝む。1988年に発表された、隆慶一郎著の歴史小説『一夢庵風流記』から始まり、北斗の拳でもお馴染みの漫画家:原哲夫が絵を担当した漫画『花の慶次』が少年ジャンプで連載され、2007年にパチンコ台とのタイアップ機として発売された『CR花の慶次』も大ヒットし、すっかり有名な人物となってしまった前田慶次。
「為せば成る」という言葉でも有名な上杉鷹山だが、現代でも改革を行う際の教科書的な人格者という事で尊敬されている。どの時代でも周りに動いてもらうには、まず自分が先頭に立って模範を見せないと動かず、また我慢強く継続して達成するまでやり続ける忍耐が必要である。この鷹山のように偉大な人物が現れなければ、米沢の地も大きく変わっていた事だろう。
そんなこんなで7泊8日という、長い東北旅はここ山形空港でお終いとなる。
振り返って見ればこのコロナ禍となった2020年は、1月に【ポルトガル(66話)】&【タイ(17話)】、2月に【スリランカ(43話)】、3月に【ロシア(44話)】と海外に行っていた。
そしてちょうどロシアから帰るタイミングで、新型コロナウイルス感染が世界中に広まっていた影響で海外に行けなくなり、以前旅で知り合ったオジサンからの誘いを受けて九州を筆頭として国内旅行に切り替わっていった。
2020年8月に九州訪問から始まって、
【福岡~鹿児島(98話)】
【北海道/札幌(44話)】
【奈良(14話)】
【愛媛県(53話)】
【奄美大島(43話)】
【神戸(17話)】
【宮崎県(63話)】
【福岡~熊本(64話)】
【仙台(42話)】
【沖縄県(52話)】
【神奈川県(62話)】
そして今回の【東北:青森~山形(99話)】と、旅をしてきた。
この2020年に旅行した内容を旅行記として全て真面目に作ったら、何と合計821話になっていた。
長過ぎでしょ!(笑)
真面目に2020年の旅行記821話を毎日1話ずつアップしていたら、そりゃ今は2年後の2022年になっていたという訳。
現代版、浦島太郎みたいやけ!(笑)
ただこのように800話以上の旅行記を作成していると、勿論膨大な時間を要するのであるが、それ以上に旅行の復習が自分自身にとっても最も価値がある事に気が付いた。
普通の旅行者は、観光パンフレットやテレビなどで目にする観光スポットに行って、飲んで喰ってで満足して帰る事が多いけど、そういう旅行の記憶って結構な割合で消えやすい。
それに比べてかなりの手間が掛かるけど、このような旅行記に写真をアップして、その土地の事を調べて勉強すると驚く位にその旅行の記憶が残るのだ。
私なんか、ドコ行ったか、もう思い出せんわ(笑)
勿論「旅」という行為には人それぞれに目的や意味も違うものであるが、ボクにとっては”自分を成長させる為の投資”だと位置づけている。自分の知らない場所に足を踏み入れる事によって、大きく得る物ばかりの旅は、人生で最も有効な投資だと思う。
人によっては「旅」ばかりしている人は”浪費家”として捉える人もいるが、それは「旅」というものの真の価値を知らないからそう思っているだけだと思う。過去に偉業を成し遂げた人達は、その多くが”未知なる場所を開拓した人”ばかりで、ある意味、旅人でもあったと思う。
勿論、自分自身をそんな偉業を成し遂げた人達と比べるつもりはないけど、このように旅を繰り返しているウチに、常にどこに行ってもアンテナを張り巡らして、何かを察知しようとする能力が強くなってきたと感じる。
こちらの書は五所川原市の「吉幾三ミュージアム」に飾ってあった、吉幾三氏の直筆の書であるが、ここに書かれているように『生涯旅人』という言葉を胸に、ボクもこれからも旅人として生きていきたい。
旅は先入観や偏見やケチな了見をブチ壊してくれる。
その為だけでも旅に出る必要がある。
by マーク・トウェイン(Mark Twain) ・・「トム・ソーヤーの冒険」原作者
マーク・トウェインの旅についての名言と共に、ボクが生み出した名言(?!)も最後に載せておきます。
旅は『投資』だ!
by ヒロくん・・・旅人?!
そんなんエエから、早よ金稼げ!
<完>
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