東北旅行記2020年冬-91:山形編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Mukuan” in Yonezawa City, where Keiji Maeda, well known in the movie “Hana no Keiji,” spent the last years of his life. [Tohoku Travelogue 91])
前田慶次の住居跡!
さて長かった7泊8日の東北旅も、この朝で最終日を迎えます。今日は昨日に見学できなかった上杉博物館や前田慶次の晩年を過ごしたとされる場所などを再び訪れる予定にしており、朝早くから山形駅にやって来ました。午前7時30分頃に山形駅に到着すると、まだ学生たちの通学が始まる前の時間帯だったようで、このようにガランガランだった山形駅構内。
東北の地を電車で移動する際に注意なのは、電車の本数が少ない事。このJR山形駅と米沢駅は山形を縦断する奥羽本線の路線なのだが、思った以上に本数が少ない。だから普段都会で暮らしている人からすれば、駅に着いて時刻表を見るのではダメで、駅に向かう前に時刻表をネットで調べてから乗り過ごさないように駅に向かう必要がある。
JR山形駅からJR米沢駅までは、奥羽本線の各停に乗って約45分ほど。同じ路線には一応山形新幹線が走っているが、山形新幹線でも10分ほどしか時間は短縮できない。「新幹線」に乗ると早く到着できるイメージがあるけど、よく乗った”のぞみ”とかと比べるのが間違っているのかもしれないが。
米沢駅に到着!
そして程なくして、昨日も散々歩き回った米沢の地に戻ってくる。米沢の地がボクを呼んだのか、それとも上杉謙信がボクを呼んだのか、或いは前田慶次がボクを呼んだからか?!
単に名所巡りの効率が悪かっただけちゃうの?!(笑)
ちなみに今日はどうしても行きたかった場所が、この米沢駅から東の方にある戦国時代の武将で”傾奇者(かぶきもの)”として漫画『花の慶次』でも有名になった前田慶次が晩年に住んでいたとされる土地だ。ちなみにこの上空からの地図を見れば分かるように、米沢駅の西側は多くの住宅などの建物が見られるけど、前田慶次が住んでいたとされる東側には田んぼが目立つ。
そしてこの米沢駅はこの今居る西側にしか改札が造られておらず、反対側の東側に出ようと思ったら、駅構内の2階に造られている連絡通路を渡って行かないといけない。小さな田舎の駅だったらそれは普通だけど、この米沢駅は結構立派な駅だっただけに、ちょっと回り道が必要のようだ。
ただこの東側に向かう連絡通路は判り易く、2階に上がるとその通路しかない。大きな駅だとたまに迷子になりそうな通路が張り巡らされていたりするけど、田舎の駅だけあってシンプルに進む事が出来る。
田舎で悪かったな!(怒)
実は個人的にこの旅で一番楽しみにしていたのが、このポスターにもある前田慶次にゆかりのある土地訪問だった。漫画『花の慶次』の主人公で、誰よりも強い割に漢気に溢れて熱血漢のキャラクターとして描かれていた。しかし、実際に存在した前田慶次はそこまでのキャラクターではなかっただろうけど、実際に存在していたという痕跡に触れれるだけで幸せである。
死んで400年経ってから有名になる事もあるんだね!
なかなかに立派な米沢駅の連絡通路。ただこの米沢にやって来る観光客の大半は、この連絡通路を使う事なく帰っていく事だろうが、ボクは漫画『花の慶次』で前田慶次と出会えた為にこの連絡通路を歩けているのである。
「前田慶次通路」と名付けてもいい位に思えました!
この米沢を治めていた米沢上杉家の祖は、上杉景勝ではなく、その義父である上杉謙信となっている。その謙信の考えが歴代藩主や家臣達に受け継がれていき、代々に渡って誇り高き武士として戦いの無くなった江戸時代での生活で逆に苦しむようになってしまうのである。。
こちらは米沢市ポスターの上杉景勝Ver。このポスターに載っている、大きな丸型の前立てが付いた鎧兜も、冬場に休館となっている上杉神社の宝物庫に保管されている。だからこの鎧兜などを見たくて米沢にやって来る人は、なるべく冬場は避けて、暖かい時期に来た方がいい。
あえて寒い時期に来る人の方が少ないけどね・・・
そして直江兼続Verのポスターも用意されている。漫画『花の慶次』のファンにとっては、この4枚のポスターを見ているだけで興奮してしまい、この連絡通路を歩いているだけでワクワクしてくるのである。
その連絡通路を進んで米沢駅の東側の方までやって来て、窓から周辺を眺めてみたけど、このようにホテル2軒ほどの大きな建物が見られるだけで、全然人も車の姿も駅前に見られない・・・。
ただ人通りが全く無くても前田慶次ファンからすれば、その前田慶次のゆかりの場所を見れるというだけで興奮しているので、高揚感が1人高まってくる。米沢市もパチンコ台『CR花の慶次』の大ヒットを受けて、新たな観光資源を生み出そうとこのようなPRに力を入れているのだろう。
前田慶次ゆかりの場所へ向かう!
そして連絡通路を渡って階段を降りて米沢駅東側にやってくるも、このように駅前ロータリーにはタクシー1台も見られない。この米沢駅のメインが反対側の西側となっており、この東側には工業団地などがあるものの、利用客は少ないようだ。
前田慶次ゆかりの場所は、この駅前ロータリーから東に延びる道を進めば、その道沿いにあるようで特に迷う事もなさそうだ。ただ他にも前田慶次ファンが来ているのかと想像していたけど、米沢駅東側に滞在中には1人も観光客らしき人を見かけなかったが・・・。
この道を真っ直ぐ進んで行けば、前田慶次が住んでいたとされる「無苦庵跡」や「堂森善光寺」という”前田慶次供養塔”が設置されている場所などがあるようだ。城下町近くではなく、このように離れた場所に住んでいた所が前田慶次らしさを更に醸し出しているような気が感じられる。
そして少し歩くと、国道13号線にぶち当たる。この国道13号は福島県福島市~秋田県秋田市を結ぶ国道だが、この国道を超えて更に東に行くには横断歩道が用意されておらず、階段を降りての地下通路が用意されていた。東北地方でも交通量の多い国道だけあって、その流れをせき止めないように横断歩道ではなくて地下通路となっていたのだろう。
その国道13号線を渡って更に東に進んで行くと、こちらの「八幡原大橋」という橋が見えてくる。ここには「羽黒川」というそこまで水量が多くはない川が流れており、前田慶次ゆかりの場所に向かうには通る必要がある橋となっている。
全然この時は徒歩で渡っている人を見かけなかったけど、この八幡原大橋にはこのように米沢市民が最も崇める人物「上杉鷹山」のレリーフが飾られていた。ここ米沢の地では神様としても崇められている程の人物の名言が橋にも刻まれていて、通行人が毎日目にする事が出来るようだ。
上杉鷹山のような苦労人から「なせば成る!」と言われれば、何も言い返せない。過去に何かの偉業を成し遂げた人物は、その殆どが成功するまでやり続けた人間であり、そういう人から見れば成功できなかった人間は最後までやり遂げれなかった人に思える事だろう。
そんな上杉鷹山のプレートを見ながら橋を渡ると、「東北中央自動車道」の高速道路が見えてくる。ただこの先に行くとコンビニが無く、前田慶次ゆかりの土地の周辺には工業団地しかない。米沢駅の西側と違って、東側はこのように独特な静けさを感じる。
そして誰も歩いていない道を進んで行くと、右側に小高い丘が見えてきて、そろそろ前田慶次のゆかりある土地が近づいてきたようだ。この小高い丘の上には「月見平」という、前田慶次が近くの人達と月見を楽しんでいた場所だとされているようだ。
さっきまで看板が無かったけど、ここからはこのように「前田慶次」という文字のある看板が見えてくるので、そろそろ前田慶次ファンの心が高鳴る瞬間が近づいてきている雰囲気を感じるのである。
そして道路の反対側に看板を見つけたので、道路を横切って反対側に移ってくる。すると単なる普通の看板ではなく、兜形で前田家の家紋が入った特別な看板が見受けられる。「米澤前田慶次の会」という前田慶次を愛する会と米沢市が、このような前田慶次が生きていた跡に光を当てているようだ。
前田慶次が住んでいたという「無苦庵跡」
そして見えてきたのが「無苦庵跡」という、あの前田慶次が晩年を過ごしたとされている場所。前田慶次というと名前からも分かるように、あの金沢100万石でも有名な前田利家の甥にあたる人物であるが、前田利家とはあまりソリが合わなかったようで前田家を出奔して後に上杉家に仕えたとされている。
住所:山形県米沢市万世町
今では前田慶次が住んでいた住居は勿論残っていないので建物を見る事が出来ないけど、この場所に広い敷地が存在していたようだ。2015年に行われた発掘調査では、この場所から江戸時代初期にあった屋敷跡の柱穴群が発見されており、前田慶次が本当にこの場所に屋敷を構えていた可能性が高まってきたという。
「無苦庵跡」の景色! 動画
ただそんな前田慶次の屋敷跡は一般人が住んでいる私有地となっているので、敷地内に入るのはタブーなので、あくまでも近くからその様子を眺める事しか出来ない。
ちなみに前田慶次が現代で有名になったのは、1988年頃に週刊誌で連載された歴史小説『一夢庵風流記(いちむあんふうりゅうき)』(著:隆慶一郎)の作品からである。そしてその歴史小説が『北斗の拳』でもお馴染みの漫画家:原哲夫によって漫画化されたのが、ボクの大好きな『花の慶次 雲のかなたに』である。
『北斗の拳』でもお馴染みの漫画家:原哲夫が描いた漫画だけあって、北斗の拳が好きな読者を惹き付けた『花の慶次』。ただし花の慶次は少年ジャンプという若い世代向けだったので、原作である『一夢庵風流記』の設定通りではなく、キャラクターを若めに設定したりで一部脚色が加えられているようだ。
ただ前田慶次が晩年を過ごしたのはこの米沢と確定している訳ではなく、奈良の大和国周辺で晩年を過ごしたという説もある。なお、こちらの看板に書かれている文は、前田慶次がここ堂森で暮らしている際に書いたとされる『無苦庵記』の内容。
慶次殿は好き勝手に暮らしていたので、どこで亡くなったまでは知らない・・・
「無苦庵跡」の景色!② 動画
しかし、米沢に住む前田慶次ファンからすれば、数点の資料に記されているだけで、ここに前田慶次が住んでいたと思いたい事だろう。ただ今から約400年も前に存在していただろう1武将で、大名のように色んな書物で記録が残されている程の人物じゃなかっただけに、今更歴史的に証明される事は殆どないかもしれないが。
ただ『花の慶次』ファンからすれば、前田慶次がこの場所に住んでいた可能性があるだけで、嬉しく感じてしまう。漫画で見ている程に豪快な人物で無かったとしても、その片鱗を感じた「無苦庵跡」であった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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