米沢城内で、上杉家を象徴する存在だった上杉謙信像を眺める【東北旅行記87】

東北旅行記2020年冬-87:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Inside Yonezawa Castle, looking at the statue of Kenshin Uesugi, a symbol of the Uesugi family.  [Tohoku Travelogue 87])

上杉家の米沢!

さて米沢市に到着してから、まず上杉家廟所や林泉寺を訪れて米沢上杉家ゆかりの人物のお墓詣りをした後は、この街の中心部となっていた米沢城跡へ向かう事にした。米沢城跡へ向かって歩いている途中には、このような茅葺屋根の建物などが見られて、昔の城下町として栄えた雰囲気を感じる建物なども見られた。

 

 

米沢城跡へ向かう!

戦後に大きく発展した大都市でもないので、米沢市内にはこのような古そうな日本家屋の建物などが見えてくる。第三者側の観光客からすれば、このような歴史ある建物を保存して昔の景観を保っていて欲しいと思うけど、実際にこのような建物を所有している側からすれば、建物の補修費用などが多くかかるので、本音としてはすぐにでも潰して新しい建物を建てたいと思っている人も多いのだろう。

 

こちらは米沢城の二の丸跡地付近に造られている、「米沢市上杉博物館」「置賜文化ホール」の入った複合施設『伝国の杜』の建物が見えてきた。ここには明治30年(1897年)創立の「米沢市立工業学校」を前身とする「山形県立米沢工業高等学校」の校舎があった場所で、1997年に別の場所に校舎が新設されて移転した跡地に、2001年になってこの建物が造られたようだ。

 

 

ここ米沢では上杉家が治めていた米沢藩の歴史を勉強したかったし、特に上杉鷹山の成し遂げた業績も知りたかったので、ここの「米沢市上杉博物館」を訪れるのをとても楽しみにしていた。

 

しかしこの「米沢市上杉博物館」は、冬場(12~3月)は毎週月曜日が休館日となっていて、このようにダメ元で訪れても当然の如く休館だった・・・。ただ、この上杉博物館が本日休館という情報は、前もって知っていたので特にダメージはなく、また明日もここ米沢を訪れる予定にしていたので、明日の楽しみとして取っておく事になるのであった。

 

米沢城の本丸跡にて

そしてこの辺りから、江戸時代に米沢藩の藩政が行われていた中心地:米沢城の敷地内に差し掛かる。ただこの米沢城は熊本城のように高度な石垣を積み上げた堅固な城ではなく、土塁を用いた簡素な城構えだったようで、日本人が頭の中に抱く城っぽい雰囲気もなく、また天守閣も無かった城だったようだ。

 

 

その為に本丸内には観光客が楽しみにしている天守閣のような高い建物はなく、その代わりに上杉神社が造られている。この上杉神社は、あの軍神として崇められた上杉家を代表する、戦国時代の武将:上杉謙信が祀られている神社である。

 

 

上杉鷹山の銅像!

その上杉神社に向かっている参道を進んでいると、道の右側に正座している人の銅像が見えてくる。この像の人物は、米沢藩主の中でも特に名君として全国的に有名な、米沢藩9代藩主「上杉 治憲(はるのり)/鷹山(ようざん)である。なお、上杉治憲という名前は米沢藩主に就任してからの名前で、上杉鷹山は隠居した後に名乗った”号”である。

※以下の文では、上杉鷹山で記載

 

江戸時代には徳川幕府が編み出した、全国に300近くあった藩の財政を上手く減らす施策”参勤交代”や、城郭建設・道路整備・河川工事などを大名に強要させた”天下普請(てんかぶしん)によって、江戸時代が進む毎に諸藩の財政が圧迫されていった。そして江戸時代中期になると、全国の藩でも借金まみれの状態になって、破綻寸前だった藩が多かった。

 

上杉謙信で全国的に有名な米沢藩上杉家も例外ではなく、特に徳川家康に敵対心を持たれていた事もあって、江戸時代に米沢に移封されて大きく石高を減らされてしまう。そういった減封された場合には、その減らされた石高に見合う規模にリストラを敢行するのが一般的だったが、謙信公の『誰も解雇しない!』という方針を頑なに守り、戦国時代のままの大量の武士を解雇せずにそのまま雇い続けた。

 

そんな状態だったので余計に藩財政が悪化していた米沢藩は、第3代藩主:上杉綱勝(つなかつ)が跡継ぎを残さず死去してしまった為に”お家断絶”の危機に瀕した。その危機には老中だった保科正之の娘と婚姻を結んでいた関係もあって、何とか親類の子を跡継ぎに立てる事で乗り切ったが、その代わりに”お家騒動”を起こした処罰として、30万石だった石高が半分の15万石に減らされてしまう。

 

そして一時は上杉家としては諦めて、藩政を幕府に返上する事も検討された時代もあったとされている。そんな時代も経て、上杉家直系男子が生まれなかった為に嫁いでいた上杉家の娘が生んだ親戚の子供だった、米沢藩9代藩主:上杉鷹山が養子として迎え入れられる事になる。

 

上杉鷹山が藩主に就任した当時の米沢藩は瀕死状態に陥っていたが、米沢藩が設立された当初に優れた地政を行って新田開発を行い、また自ら進んで倹約質素を行って人々に奨励した「直江兼続」の手腕を研究し、それを参考に米沢藩に改革を行った人物である。

直江クン
直江クン

人は諦めずに行動し続ければ、いつかできるようになるものですよ!

 

その「上杉鷹山」という名前は日本国内だけではなく、海外にも知られており、あの有名なアメリカ合衆国大統領だったジョン・F・ケネディが、尊敬する人物として名指しで挙げた程でもある。

 

そしてその隣には”米沢牛の恩人”として、「チャールズ・ヘンリー・ダラス(Charles Henry Dallas)という人物のレリーフ入りの記念碑が建てられていた。このダラスという人物はイギリス人で、貿易商として中国に渡ってから、日本に語学学校の先生として招かれる。東京で1年教えた後に、ここ米沢で藩校だった興譲館:洋学舎に招聘されて、それから約4年間に渡って英語や西洋の近代スポーツを広めた。

 

ちなみにダラスは米沢に向かう前に駐留していた横浜居留地で、食べた牛肉の味に感動して、米沢に専門のコックを引き連れて向かい、現地で黒毛和牛を仕入れて数頭育成して牛肉を食していた。数年後にダラスが米沢を立ち去る事になり、その際にメス牛1頭だけを連れて横浜に戻った。そして久々に再会した横浜居留地の仲間にその牛肉を食べさした所、その牛肉の美味しさに感動して”米沢牛ブランド”が誕生したという。

直江クン
直江クン

拙者も生きてる時に黒毛和牛、食べたかったな~!

 

その上杉鷹山の正座した銅像の脇には、こちらの「松岬(まつがさき)神社」が見えてくる。明治時代初期に”神仏分離令”などによって本丸内に収められていた上杉謙信の遺骸が城外の上杉家廟所に移され、城内に留まっているとされた上杉謙信の霊魂を祀る為に「上杉神社」が本丸跡に造られた。

 

 

その上杉神社が造られた際に、祭神として上杉謙信と共に上杉鷹山も祀られる事になった。その後、明治35年(1902年)に別格官幣社に列せられた際に、上杉神社に祀られていた上杉鷹山を分祀して、この「松岬神社」で祀られる事になった。

 

そして後には「松岬神社」に初代米沢藩主:「上杉景勝」も祀られ、それから景勝の右腕的な存在だった「直江兼続」も祀られている。更には上杉鷹山の師であり、米沢の藩校で教鞭をとった「細井平洲(ほそい へいしゅう)、上杉鷹山の家臣で財政改革に尽力した「竹俣当綱(たけのまた まさつな)「莅戸善政(のぞき よしまさ)も祀られる神社となった。

直江クン
直江クン

ごちゃ混ぜで祀られている神社にも思えるけどね・・・

 

 

このように米沢藩上杉家では、まず第一に尊敬・崇められているのが「上杉謙信」で、その次点が米沢藩初代藩主「上杉景勝」と、財政改革を断行した「上杉鷹山」となっている様子だった。また江戸時代後半~明治時代初期頃には、藩祖などを神様として祀るのが流行ったらしく、全国にも江戸時代に実在した人物を祀った神社が多く見られるという訳である。

 

こちらの池は米沢城の本丸周辺に造られていた内堀で、高い石垣がない代わりに、このように幅の広い内堀で本丸が守られていたようだ。また右側の本丸側には石垣が見られないので、城っぽい雰囲気は感じられないけど、逆に地震などで石垣が倒壊する事もない為に維持費があまり掛からないというメリットもあるのかもしれない。

直江クン
直江クン

今ではお城が観光地となっているんだね!

 

そして本丸の東側にあった、その内堀に架かっている橋は「舞鶴橋」という、本丸の大手門に架かっている橋である。この米沢城はその呼び名以外に、『松岬城』『舞鶴城』とも呼ばれていた事があった為に、さっき見た神社が「松岬神社」と名付けられていたように、この橋もその舞鶴城から名前を取って付けられたという。

 

またこの「舞鶴橋」は明治19年(1886年)に架けられたアーチ式石橋で、”国の登録有形文化財”にも指定されている。ただ橋の人が歩く部分はコンクリート塗装やタイルが上から貼られているので、今から約140年前近く前に造られた橋という雰囲気は感じなかったが。

 

日本では古来より稲作を行う際に、稲に付く害虫を食べてくれる鴨を飼っていた事もあってか、日本全国の城跡の堀でこのように泳いでいる大量の鴨の姿を見かける事が多い。今では農薬などの開発によって田んぼで鴨が活躍する機会が殆ど無くなってしまったが、古来よりの無農薬栽培をしている農家では未だにこの鴨を重宝しているようだ。

 

そしてこの堀には、鴨と共に日本庭園などでもよく見かける鯉が大量に泳いでいた。ただ他の城とは違って、ここ米沢の地では上杉鷹山治政時に、貴重なタンパク源として鯉の養殖が奨励された。というのも山に囲まれた内陸の米沢の地は動物性タンパク質が乏しかった為に、福島県から鯉を取り寄せて、この米沢城の内堀で育てさせたのが起源だとされている。

 

そんな鷹山時代のアイデアで養殖が始まった鯉は「米沢鯉」として、「米沢牛」「舘山林檎」と並ぶ米沢の名産品ABCとしても全国的に有名になった。この米沢鯉は卵の状態から養殖を始め、綺麗な水を使って育てる為に、川魚特有の泥臭い臭みがなく、また寒い冬には体が引き締まって美味しくなるんだとか。ただ近年はそんな鷹山公の生み出した米沢鯉を生産する業者も、減ってきているようだが・・・。

直江クン
直江クン

米沢鯉も食べたかったよ~~!

 

こちらは江戸時代の米沢城と、その周辺を取り囲むように形成していた城下町を昔の資料を参考にして描いた俯瞰図。冬場に多く雪が積もった山々から湧き出た綺麗な水が堀に取り入れられ、そこら中で鯉の養殖が行われていたのかもしれない。

 

今ではこの米沢城は上杉家の居城だというイメージが強いけど、実は上杉家が移封されてくる前まで米沢城を治めていたのは、東北の雄であった伊達家である。戦国時代の武将でも名高い「伊達政宗」が生まれたのは、実はここ米沢城なのである。

仙台の政
仙台の政

米沢は上杉ではなく、伊達家の場所でゴワス!

 

戦国時代には上杉家と伊達家は敵対関係にあり、上杉家の筆頭家臣だった直江兼続は、豊臣秀吉の屋敷で伊達政宗に会った際には、目を合わせる事もなく無視していたとされる。しかし敵対していた上杉家と伊達家だが、この案内左側にあるように、実はよく似た家紋”竹に雀”を両家とも使っているのだ。

 

元々”竹に雀”の家紋は上杉家が代々使っていたデザインで、伊達氏14代当主「伊達 稙宗(たねむね)の時代に息子を越後上杉家に養子入りさせる際に、上杉家から伊達家に贈られたとされている。最終的に越後上杉家への養子縁組は破棄される事になったが、その家紋を気に入ったからか、その後もデザインを少しアレンジして伊達家が使い続けたようだ。

 

上杉神社に佇む「上杉謙信」の銅像!

そして今では上杉神社となっている米沢城本丸跡に足を踏み入れて行くと、祭神として祀られている「上杉謙信」の銅像がいきなり見えてくる。上杉謙信はあまり戦国時代の歴史を知らない人でも、知っている程の有名な武将だった人物である。

 

上杉謙信は米沢藩主上杉家の実質的な祖として、初代藩主だった景勝以降の時代も崇められた存在だった。戦国時代にほぼ無敵を誇った上杉謙信は、京への上洛を開始しようとした矢先に急死してしまった。その亡骸は甲冑を着せて甕(カメ)に入れられ、その甕の中に漆を流し込んで固めて、当時の居城だった春日城近くの春日神社に埋葬された。

 

しかし後に上杉家は会津に移封され、更にここ米沢にまた移封されてきた際に、上杉景勝はその謙信の遺体が収められた甕をここ米沢城本丸敷地内に移送して埋葬した。それ以降、米沢城では毎日上杉謙信に対する祈りが捧げられ、城内には交代で謙信公の亡骸に祈禱する寺が20程も設置されていたという。

直江クン
直江クン

御館様の謙信公に対する狂信ぶりは、凄まじかったよ!

 

上杉謙信は上杉家に仕える越後守護代だった長尾家に生まれ、元服時には「長尾 景虎(ながお かげとら)と名乗っていた。その後、北条家と戦って敗北し越後に逃げ込んできた関東管領:山内上杉氏 上杉憲政の養子となり、「上杉謙信」を名乗る事になった。

 

ちなみに上杉謙信ほどの武将になると、いつも情報の頼りにしているWikipediaの文字量が尋常に多過ぎるし、あまりにも有名過ぎるので謙信の武勲に対しての説明は省くので、興味ある人は上記の「上杉謙信:Wikipediaページ」をご覧いただければと。

直江クン
直江クン

謙信公の武勲をカットするとは、何と無礼な!(怒)

 

そして上杉神社の参道脇には、謙信公の銅像以外にも色んな物が設置されている。ここには先程見た上杉鷹山と別の形の銅像も設置されているし、大河ドラマ『天地人』で有名になった直江兼続と上杉景勝の主従コンビの像なども見かけた。

 

そんな上杉家一色の米沢城内で、かつてここが以前に伊達家の居城だった歴史を語りかけるかのように、この『伊達政宗:生誕の地』という記念碑が設置されているのが見える。江戸時代に誰かが移封されてきたという事は、それ以前にその土地を治めていた家柄が、別の場所に転封されたという訳でもある。

だから今では”上杉の米沢”というイメージを持ちガチだけど、それ以前にこの土地を治めていた”伊達の米沢”のイメージも後世に残す必要がある事だろう。

仙台の政
仙台の政

米沢は伊達家の土地でゴワス!

直江クン
直江クン

最後に治めた上杉家の米沢だよ!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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