東北旅行記2020年冬-88:山形編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Ruins of Yonezawa Castle with statues of Naoe Kanetsugu, famous for his role in “Tenchijin,” and Uesugi Kagekatsu, the founder of the Yonezawa domain. [Tohoku Travelogue 88])
米沢の基礎を固めた男達!
ここは江戸時代に米沢藩の中心部になっていた米沢城跡。一般的な城のイメージとして浮かぶ堅固な石垣や、高くそびえる天守閣の建物は存在せずに、言われてみないと城だった場所とは思えないような感じになっている。なお、本丸跡には今では上杉謙信を祀った上杉神社が建立されており、上杉家の米沢という雰囲気が漂っている。
本丸跡にあった直江兼続と上杉景勝の銅像!
本丸跡に入っていくと、まず上杉謙信の銅像が置かれていて、その奥にこちらの大河ドラマ『天地人』の主人公として全国区の知名度を誇る「直江 兼続(なおえ かねつぐ)」と、その主君で初代米沢藩主だった「上杉景勝(かげかつ)」の銅像が見えてくる。
この米沢藩創成期に活躍した2人の人物の銅像は、大河ドラマ『天地人』のヒットを受けて約1,900万円の製作費をかけて作る事になった。この像を制作したのは福島大学の教授で彫刻家の「新井浩」で、2010年に制作されてから、2011年にこの米沢城本丸跡に設置された。
大河ドラマの主人公になると、急に待遇が良くなった・・・
直江兼続は幼少の頃から小姓として上杉景勝に仕えていたとされており、50年以上に渡って主君を支え続けた名参謀だった。兼続は上杉家でNo.1の家臣で、内政・外交を1人で取り仕切っていたが、普通はこういった独占的な立場に立ってしまうと、賄賂などを要求したり私腹を肥やす人間が多い中、兼続は率先して倹約質素を行い、藩士や庶民に浸透させていった。
人に言うからには、まず自分がちゃんとしている所を見せないと!
こちらは上杉景勝だが、両腕を組んで「フム、フム、なるほどね~~!」と、名軍師でもあった直江兼続に全権の信頼を寄せている雰囲気を感じる姿勢になっているように思えた。オーナー系の会社はワンマン社長が全て自分の判断で指示を下すが、そういうワンマン会社ほど下にいる人材が育たない。だから兼続が活躍した陰には、上杉景勝が兼続に全てを任せていたからかもしれない。
その代わり、御館様は怒ったらメチャ怖かったですね・・・
直江兼続が倹約質素を先陣切って行っていたとされているが、その姿勢は直江家が兼続の代で途絶えてしまった事からも伺えるような気がする。直江兼続は正室(お船)のみで、男子が1人生まれたが早くに亡くなってしまった為に、養子縁組して家督を継がす事にした。しかし、後にその養子縁組が解消されて、他に男子が生まれなかった為に直江家は断絶してしまう。
だがその裏には直江兼続が厳しい藩財政を考慮して、自分の家老職の家系を維持するだけでもそれなりの負担が米沢藩にかかる事を知っていたので、敢えて自分の代で直江家の幕を下ろしたという説がある。
直江家より、米沢藩が生き残る事の方が大事ですよ!
直江兼続というと、この手に持っている『愛』という文字が入っている前立ての兜も有名である。ただこちらは”愛している”という意味合いではなく、「愛宕権現(あたごごんげん)」という昔は”軍神”や”守護神”として武士から崇められた神様の名前から一文字取っているという説が有力なんだとか。
こちらはボクの大好きな漫画『花の慶次』で出てくる上杉景勝と直江兼続である。漫画内ではあまり出番が無くて、どっしりと構えた存在の上杉景勝となっていて、逆に直江兼続は主人公:前田慶次の親友としても描かれているので、漫画に登場するシーンは多いのである。
ここまでイケメンではなかったよ~!(笑)
別の上杉鷹山像と出会う!
そしてこの参道には何と、2つ目の上杉鷹山の銅像が設置されていた。それ程に凄い実績を上げて尊敬された人間なのは判るけど、約100m位の間隔でまた別の像を設置しているとは驚きである。
さっき手前で見た鷹山の像は座って我慢強く指揮している雰囲気だったけど、こちらの新しい方の銅像は立って明るい未来を見据えているかのような姿になっていた。養子で上杉家にやって来た身だけあって、藩主に就任当時は古来の家臣団からの反発も強かったようだ。しかし自分だけが動いてもあまり効果が出なく、全員で考えを変えて改革しないと大きな効果が出ないから、鷹山は相当に我慢し続けたようだ。
なせば成る なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の なさぬなりけり
by 上杉鷹山
こちらは上杉鷹山が隠居して次の藩主に残した名言だが、実は鷹山の全くのオリジナルではなく、昔に武田信玄が残した言葉をアレンジした内容となっている。人類が文字を記録し始めた数千年前から、現代にも通じる名言が数えきれない程に残されているので、今更全く新しい名言を生み出すのは難しく、新しい名言が生まれたと思っても調べてみると、似たような事を言っている人が過去にいたケースが多い。
しかしこの鷹山の名言のように、結果を残した人間というのは総じて”行動をし続けた”事が共通点に大きく見受けられる。よく「努力したのに、結果が出なかった・・・」と言う人がいるけど、それは結果が出るまで行動し続けなかった事も考えられる。中にはたまたま幸運で結果が早く出た人もいるかもしれないけど、そういったように周りの要因でも左右される結果だけに何とも判断が難しいものではあるが。。
ただ鷹山がいきなりそういった財政改革を断行する程の知識や経験があった訳ではなく、幼い頃よりも色んな勉強をしたり、優れた師と出会ったりして、そこから重要なポイントを掴んで実践した事も大きかった事だろう。生まれた瞬間から才能溢れる人間として生まれる訳ではなく、その成長過程でどれだけ多くの事を吸収できたかが人生の岐路を大きく変える事だろう。
戦国時代には武力で敵をどう圧倒するかという能力が必要だったが、平穏な江戸時代にはどれだけ内政を上手くコントロールできるかという能力が必要な時代に変わっていた。江戸時代には”人を殺す”よりも、”人をどう活かすか!”という時代に思えた。
こちらは近くに飾られていた直江兼続の等身大に近い人形。直江兼続のビジュアルはさっき紹介した漫画『花の慶次』の中で出てくる男前のイメージが強いけど、それはあくまでも漫画の中の世界だけで、実際にはこのように普通にオッサンの顔をしていた可能性の方が高いのかもしれない。
しかし大河ドラマって今まで全然見てこなかったけど、天下のNHKが一年間を通して放送する国民的ドラマだけあって、その題材に取り上げられるだけでかなりの経済効果が見込まれるようだ。この直江兼続が主役となった『天地人』の前年に、薩摩藩で将軍家に嫁いだ『篤姫』が放送されたが、それが大ヒットして数十万人の観光客が増えたとも言われている。
だからその二番煎じを狙って、日本全国ではNHKの大河ドラマに使ってもらう為に署名を集めている場所も多く見られる。最近訪れた中では熊本城で、「加藤清正を大河ドラマに!」という署名を集めている光景が見られたけど、逆にそれだけ効果があるドラマに選ばれる裏では、ひょっとしたら賄賂なども飛び交っているのかもしれないな。。
上杉神社を参拝!
この米沢城の本丸跡の中心地には、天守閣ではなく、こちらの「上杉神社」が建立されている。元々大きな天守閣のような建物は無かったとされている米沢城だが、明治時代になっての廃城令などによって、この本丸内に安置されていた上杉謙信の遺骸が運び出された後に、その謙信公の残っている魂を鎮魂する為に作られた神社のようだ。
日本の宗教には「霊魂」という存在が通例化しており、物に人の霊魂が乗り移ると考えられている。その為に亡き人のお墓を建てると、その墓石や位牌などに個人の魂が乗り移っているとされる。なのでもしその墓を撤去したりする場合には、”魂抜き”なる儀式を行わないと破棄できないシステムになっている。
そういったシステムは科学が現代みたいに発展していない大昔から続いてきた”しきたり”なので従っている人が多いけど、現代に育った若者からすれば、科学的根拠のない宗教的な行儀には疑問を感じる事だろう。しかし、このように色んな神社などが造られている歴史は、宗教が作ったと言っても過言ではない。
そして上杉神社の境内にはこちらの『上杉謙信公家訓:16ヶ条』という、上杉謙信が残した家訓がレリーフに刻まれているのを発見する。上杉謙信は米沢藩初代藩主の上杉景勝が神様のように敬愛していた人物なだけに、”謙信公の教えは絶対”という風に米沢の地では固く継承されてきた事だろう。
心に欲なき時は 義理を行う
『上杉謙信公家訓:16ヶ条』より
全文を紹介すると長くなるので一部を抜粋するが、こちらの一文は自分の中に欲がない状態であれば、正しい行いが出来るという意味合いである。江戸時代には徳川家が支配する世の中になってしまい、時代を経る毎に汚職が横行していったが、幕府の上に立つ者が私腹を肥やしてばかりいたので、当然内政は右肩下がりになっていった。
徳川家は本当に許せん~~!(怒)
心に怒りなき時は 言葉和らかなり
『上杉謙信公家訓:16ヶ条』より
常に心の中がイライラしている人は、周りの人にもそのイライラをぶつけやすい傾向がある。そして周りのそのイライラをぶつけられた人もイライラしやすく、そのように負の連鎖が起きやすい。しかし心が穏やかな人は柔らかい言葉で周りの人が穏やかになるので、イライラせずに自分の力を発揮しやすくなる。
この上杉神社は明治9年(1876年)頃に建立されたが、大正8年(1919年)に発生した大火事で全焼してしまったそうだ。宗教的に考えれば、もしこの上杉神社に霊魂が留まっていたとしたら、その大火で燃えてしまった可能性が高い。しかし宗教的にはそういう考えはしないようで、また神社を再建すれば霊魂が戻ってくるという都合の良い(?!)解釈になっているようだが。
信じる者は救われます!
冬の東北地方を訪れた際にガッカリだったのが、このように「冬季休館」と冬の時期に休みの施設が多かった事だ。普段大阪に住んでいる人間とかには考えられない位に雪が積もる東北地方では、冬場に閉館となるのはごく自然な事であるが、そういった常識を知らない人間からすれば残念に思える。
この上杉神社の宝物庫には、謙信や景勝などの遺品などが多数所蔵されており、また『愛』の前立てが特徴的な直江兼続のあの鎧も展示されているだけに、とても見たかった場所だっただけに余計に残念だった。。
また開館している時に来てね~!
さてとりあえず上杉神社の奥の方にある本殿へと、向かって進んで行きます。この上杉神社では当初は上杉謙信と上杉鷹山を祀っていた神社だけど、途中で上杉鷹山が外されて、本丸の外側にある松岬神社の方に移されている。
本殿の脇には、このように大きな口を開けた狛犬が鎮座している姿が見られる。龍を信仰して好きだったと思われる謙信公だけに、狛犬よりも龍の置物の方がより厳格な雰囲気に感じれたかもしれない。
こちらは上杉神社の本殿で、これから雪が多く積もる時期を見越して、外側に囲いが設置されているのが見える。この地域は冬は寒い場所だけに、このように色々と冬に対して準備しないといけない。しかしここに住んでいる人からすれば、毎年行っている事なので、そこまで特別気になる事でもないのだろうが。
そして脇にはこのように「春日神社」という、『春日大明神』を祀っている神社もあるようだ。『春日大明神』は米沢藩主上杉家の氏神となっており、奈良の春日大社がその総本山でもある。
春日神社にて
こちらの春日神社は上杉謙信時代に春日城内に建立した寺で、その後に上杉家が会津・米沢と転封したのに合わせて一緒に移動されてきた。そして明治5年頃にこの場所に移転となり、大正時代に先程見学した上杉神社が全焼した際に一緒に焼失してしまった。それからは上杉鷹山が祀られる松岬神社に合祀されたが、昭和の終わりにここに再建されたようだ。
こちらは上杉神社境内にあった春日神社の本堂であるが、上杉謙信を祀る上杉神社の本堂を比べると、こっちの方がとても小さい。ただこういった物は大きい・小さいで評価される類の物ではなく、人々の信仰心が表れているだけなのかもしれない。
こちらの小さい本堂も既に冬用の囲いに覆われており、雪が積もる頃になれば、簡易的な扉が閉まるシステムになっているのかもしれない。雪深い地域でもこれだけ長年人が住み続けれた裏には、こういった色んな神様への信仰心があったからかもしれないな。
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓東北旅行記:初回↓↓