「弘前市立博物館」で津軽弘前藩など弘前の歴史を勉強!(part3)【東北旅行記㊲】

東北旅行記2020年冬-㊲:青森編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Study the history of Hirosaki, including the Tsugaru Hirosaki Clan, at the Hirosaki City Museum! (part3) [Tohoku Travelogue 37])

博物館は楽しい!

さて今回もまだまだ、青森県弘前市の中心部に設置されている「弘前市立博物館」で、ここ弘前市や青森県の歴史を学んでいきます。歴史は学べば学ぶ程にスルメのように味が出て来るので、興味持って勉強していくとドンドン新しい事に気付けてテンションが上がってしまう場所でもある。

 

【弘前市立博物館】

住所:青森県弘前市大字下白銀町1-6 弘前公園内
営業時間:9時30分~16時30分頃
(※定休日:第3月曜日/他)
電話番号:0172-35-0700
入館料:大人300円/中高生150円/小学生100円

 

 

 

弘前市立博物館でのお勉強タイム!

こちらは「洋種苹果(へいか)写生」という、明治23年(1890年)に行われた内国博覧会に出品した、当時栽培していたリンゴの一覧表的な物。今ではリンゴなどは絵ではなく写真で掲載しているのが殆どであるが、この当時はまだカラー写真などの技術がなかった為に、このような手書きのリンゴの絵となっていたようだ。

 

こちらは”青森県リンゴ栽培の先駆者”とも称される「菊池楯衛」という元弘前藩士が中心となって結成された、『化育社』などの説明が記載されている。菊池楯衛は弘前藩の武士の家に生まれたが、農業が好きになって実際に自分でもしてみたかったが、江戸時代には武士は農業をする事が禁じられていた。しかし明治時代になると昔からの掟などが撤廃されて菊池楯衛は農業に携わる事になる。

そしてそれまでの国内で栽培されていたリンゴは日持ちしないのに、「西洋リンゴは約1年日持ちする」というのを耳に、当時北海道に招聘されていたアメリカ人学者などに直接リンゴ栽培について学びに行った。

 

そんな色んな偉大な先人達がリンゴ栽培に尽力していったが、それでもリンゴは多くの病気に罹り、栽培に失敗する事も多かった。しかしそんな苦労も農業の研究者が色んな農薬やその散布の仕方などを研究し、その後のリンゴ栽培の発展に繋がっていく。

 

そして弘前のリンゴの歴史をちょっと学んだ後は、ここから民俗行事などの歴史を学んでいく。津軽の人達は昔から岩木山が信仰の対象となっていた事もあって、旧暦8月の時期(※新暦では8月下旬から10月上旬頃)には毎年豊作を祈る為に登山を行っていたという。今では岩木山よりもねぷた祭が有名になってしまっているけど、岩木山に登る事が重要な儀式になっていたようだ。

 

こちらは「岩木山参詣住返の図」という平尾魯山が描いた、岩木山登山を前にその手前で賑わいを見せる様子を描いた物。伝統的な恒例行事であった岩木山登山も、そこに大勢の人がやって来るとそれを目当てに商売が繰り広げられていたようだ。

 

現代でも昔から続いている歴史的な神社などでは、神社まで続く参道にはその参拝客目当ての商店などが建ち並んでいる姿を見る事が出来る。そのような様子は今に限らず、昔から「人が集まる所にお金が動く」という人間集団の原理が働いていた様子が見られる絵である。

 

富士山の周辺に住む人達は富士山を信仰の対象としていたように、ここ津軽の人々も頂上付近の綺麗な雪化粧が綺麗な岩木山を信仰の対象としていた。そして『お山参詣』と呼ばれていた伝統的な行事は、今でも津軽の人々に受け継がれて行われている。

 


 

 

『お山参詣』 動画

ネプちゃん
ネプちゃん

五穀豊穣と家内安全を祈る、津軽伝統行事だべ!


 

 

その津軽伝統行事の『お山参詣』では、まず岩木山の麓にある岩木山神社で体を清めた後、このような烏帽子(えぼし)を被ったり、紅染めの木綿の服を着て、岩木山に向かって行進を続ける。さっきの絵にはそのような『お山参詣』に欠かせない道具や衣装などを販売している商店などが並んでいたのだろう。

 

 

そして暗闇の深夜に岩木山頂上まで登山し、そこで安全祈願を行った後に、岩木山山頂から朝日のご来光を見届けて『お山参詣』が終了する。昔から信仰の対象である山と共に、世界共通の信仰対象であった太陽が昇るのを見て、津軽の人々はこれからの日々に期待を描いていた事だろう。

 

こちらに展示されていたのは「御幣(ごへい)と呼ばれる、青森名産のヒバを薄く削って束ねた物。この御幣を持って岩木山に登って、そこの神様に奉納するという。多神教の日本では山や池に神様が居ると考えられている為に、「山の神」という認識があるけど、一神教のキリスト教やイスラム教では絶対神のみが神という考えなので、それ以外には山にも神様は存在しないと考えになる。

 

 

ここ弘前で夏場に行われる伝統的なお祭りの「弘前ねぷた」が有名だけど、これは弘前藩が行っていた物ではなく、地元の自治体がそれぞれに行っていた祭。大阪では岸和田のだんじり祭りが荒っぽくて有名だけど、それと同様にここ弘前でも違う町内会のねぷたが衝突し、それで喧嘩が発生して死傷者が出る程にエスカレートしていたという。

ネプちゃん
ネプちゃん

祭は命懸けてやるもんだべ!

青森ンゴ
青森ンゴ

命は粗末にしないでネ!

 

こちらは「子(ネ)ムタ祭之図」という、天明8年(1788年)に描かれた、ねぷたを描いた最も古い記録だという。この絵を見ると分かるように、現代の装飾が凝っているねぷた人形などは使われておらず、角形の灯篭に文字を描いた物が主に使われていたようだ。

 

「ねぷた風物志:ねぷた喧嘩の図」(竹森節堂筆)が飾られており、その死傷者まで出す位にエスカレートしたねぷた祭の様子が描かれている。個人的には地元の祭に参加した事が一回もない人間だけに、このような祭りに命を懸けるという行為が考えられないのであるが・・・。

 

しかし祭では昔から町内会のプライドが最高潮に達するイベントであり、その為に訓練を重ねて、また楽しみにしてきたイベントでもあった。そして違う町内会との衝突では、それぞれにプライドを譲れない傾向があったので、このように争いにまで生じていたようだ。

 

特に夏祭りなどは血の気の荒い人間などが多く参加している事もあって、このように直ぐに乱闘騒ぎになっていたのだろう。普段の生活の中ではあまりストレスを発散する場が無かっただけに、祭りの時に興奮して闘争本能に油を注ぐような事が毎年行われていた事だろう。

ちなみに生首などのねぷた人形は、最初から祭での喧嘩を想定して造られていた意図があったとか。。

 

こちらは『三国志演義』に登場する架空の祝融夫人がモチーフになっている、ねぷたの下絵である。さっき訪れた弘前城追手門の外側にあった弘前市立観光館の中に、この「祝融夫人:飛剣の図」のねぷたを見たような。。

 

 

こちらの絵は幕末頃に描かれたと考えられている、「現存最古のねぷた絵」だという。この絵を描いた「小島左近」という人物は弘前藩士で、明治時代になって勃発した戊辰戦争の中で、弘前藩が侵攻した野辺地戦争で戦死している人物でもある。なお、この最古のねぷた絵は小島左近が野辺地戦争の際に陣を張った場所でねぷたを作成した時に、この絵を下絵として残したとされているようだ。

 

 

1612年弘前藩主2代:津軽信枚の時代に、弘前城北東の鬼門の場所に城下の人々を災害から守る意味を込めて、八幡宮が移転されてきた。それ以降毎年のお祭りではその八幡宮で住民の安全祈願や五穀豊穣の祈りが行われてきたが、その後には山車の装飾が凝っていき、その華やかさが有名になって秋田や仙台からも見物客が来るようになったという。

 

こちらに置かれているねぷたの山車は大根の形をした物の絵で、先程城外の「山車展示館」で見た大根の山車となっている。他は過去の歴史的人物などをモチーフにした物が多いねぷたの山車だが、このように「大根」をセレクトしている辺りに茂森町の個性を強く感じるのである。

ネプちゃん
ネプちゃん

殿様から大根の指定があったから、仕方なしだったかもしれんべ!

 

こちらに置かれているねぷたの絵は、どれも先程立ち寄った「山車展示館」に展示されていた山車ばかり。なのでこの「弘前市立博物館」に来て、まだ「山車展示館」を訪れていない人は帰りに寄り道するのをオススメする。

 

 

こちらに展示されていた衣装は、明治の終わりにねぷた祭に参加していた子供用の衣装だという。そしてこの衣装でも目立つのが、伊勢海老が描かれている化粧まわしや、白黒模様の猫ちゃんのカバン。この東北旅では冬という事もあって殆ど猫ちゃんの姿を見る事が出来なかったけど、ここ弘前でも猫ちゃんは昔から可愛がられていた様子が垣間見える物となっている。

 

そしてこちらに置かれていたのは弘前藩士が飾っていたという、今で言う雛人形の原型となっていた「立雛(たちひな)という紙で作られた人形。また紙で作られていた事もあって「紙雛(もしくは神雛)」とも呼ばれていたとか。

 

 

このように近くで観察すると、確かに紙で上手く作られているのが分かる。雛人形というと豪華な装飾がされているイメージがあるけど、昔はこのように紙で作るしか方法がなかったのだろう。しかし裕福な家になる程に雛人形に使える資金が多かったので、段々と豪華な雛人形へと変貌していったようだ。

 

こちらは「流しびな」という鳥取にルーツを持つ、人型の雛人形というよりは、灯篭流し的な雛人形だったようだ。この「流しびな」を海などに流す事によって、災いなどを人間の体から追い出して海に流すような意味合いがあって無病息災が籠められていたようだ。

 

こちらは「独楽雛(こまびな)という、文字通りクルクルと回るコマ(独楽)になっていた雛人形。このコマになっていた雛人形をクルクルと回らせる事によって、末広がりの縁起物という意味と、更には強く逞しく丈夫になって欲しいという親心も籠められていたとか。

 

このように人間の文化にはその地方毎に色んなアイデアが具現化されていき、日本国という1国の中でもこれだけ多種多様な文化的な品を見る事が出来る。そういう意味では人類の多様性というのが、この地球上で生息している生物に欠かせない事を実感できる一幕でもある。

 

こちらの人形は「古今雛(こきんびな)という、江戸時代後期~明治時代に江戸などで流行った雛人形である。これまで見てきた雛人形の原型となっていた物に比べて、こちらの古今雛はその造り込みというか精巧さが目立っている。

 

こちらは「五人囃子(ごにんばやし)という、能楽を演じる囃子方と歌うたいでひな祭りを盛り上げる集団の雛人形。ただこちらの五人囃子にはそれぞれが演奏する楽器が見当たらないのでその雰囲気をあまり感じられないが、本来はそれぞれに笛などを持って演奏している様子がイメージできる物となっていた事だろう。

 

その雛人形の脇にはこちらの「錦絵」が飾られていて、明治時代~戦前にかけてここ弘前では雛人形の背景には屏風ではなく、この江戸からお土産として持ち帰られた錦絵が使われていたんだとか。江戸から持ち帰られた絵という事もあって「江戸絵」とも呼ばれていたらしく、このように錦絵を何枚も繋げて壁一面に飾っていたという。

 

こちらには「西王母図(せいおうぼず)という、古代中国で長寿の象徴として信仰されてきた女神を描いた平尾魯山の屏風。古代中国の漢の時代に武帝が長寿を祈った際に、不老長寿の桃持って西王母が降臨したとされていて、その「桃の節句」のがひな祭りの原点とされているんだとか。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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