東北旅行記2020年冬-78:山形編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Climbing up one step at a time, you can get rid of your worries. [Tohoku Travelogue 78])
救いの階段!
ここは山形県でも歴史ある寺の1つ「山寺(立石寺)」で、山形県の観光名所としても昔から人気の場所。今から1000年以上も前に建立されたという長い歴史を持つ寺では、この山門から先にある山の上に造られている奥の院まで繋がる石段を登るのが、参拝者の目的でもあるようだ。
山寺の登山道を進む!
山門で入山料:大人300円を支払って中へと進んで行くと、このように果てしない石段が待ち受けている。なお、この山寺では合計1015段の石段があるというが、この山門から先では800~900段となっていて、本堂前から始まった石段もやっぱり合計の石段に数えられていたようだ。
歴史ある寺の境内だけあって、その石段の途中にはこのように色んな石塔が設置されていたり、大きな岩が転がっていたりしている景色が見えてくる。特に人間はこのような大きな石の下に出来ている隙間に対して、”神秘的”な要素を勝手に見出す癖があるけど、そういった考えの源には原始人時代に洞窟やこのような大きな岩の陰で雨露を凌いでいた時のDNAが今も体内に残っているからかもしれない。
昔からの寺には、このように設置されてから長年の年月が経過した事によって苔が生えている状態になっているのをよく見かける。そしてその苔が綺麗な緑色に見える事によって、石塔などもより神秘的な雰囲気に見えてしまう。
江戸時代以前の人々にとっては1000段の石段を登るなんて動作はごく自然だったかもしれないが、その当時と比べると圧倒的に歩かなくなった現代人にとっては、たったこれだけの石段でも疲れて登るのが嫌になる人が増えている。「最近の若い者は・・・」と自分が歳を取ると若手に言いたくなるけど、実際に若い年代程に昔ほど体を動かす機会が減っているだけに、体力面では新しい世代毎にどんどん低下していっている事だろう。
仏教ってのは本来はその宗祖:仏陀が偶像崇拝を禁止していたのだが、その跡を受け継いだ弟子たちが自分らなりの解釈で偶像を作って崇めていいようにしていった。世界的な宗教では、イスラム教も偶像崇拝が禁止されており、今でもその教えは頑なに守られている。
また厳格な教えに従うイスラム原理主義では、世界遺産にも登録されている遺跡なども破壊したりしている程である。
せっかく作った仏像をわざわざ壊さんでもエエのにな・・・
登山道を登っていると、眼前にこのようなゴツゴツとした岩肌が見えてくる。松尾芭蕉がこの地にやって来て残した有名な句『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』は、蝉の鳴く声がこの岩肌に反射して、コダマのように反響して聞こえた様子を表しているのかもしれない。
この登山道は「修行者の参道」とも呼ばれていて、大昔から多くの修行僧などが登っていたようだ。そして山の上に登ると断崖絶壁の場所にお堂が造られていて、その危険な場所に登って修行する事が当時の修行僧達の憧れだったのだろう。
石段脇の大きな岩の側壁には、このように石碑が彫られているのが見える。長い歴史の中で多くの人が亡くなっていき、その供養としてこのような碑が彫られているらしいけど、これだけ手当たり次第に見られるので、終いに彫る岩が無くなってきているのかもしれない。
四寸道にて
そんな風に周囲の景色を楽しみながら石段を登っていくと、大きな岩が邪魔して道が狭くなっている箇所に差し掛かる。この場所は「四寸道」という、その名の通り約12cmほどしかない狭いエリアになっているようだ。
この「四寸道」までは、登山道入り口から約360段の場所にある。ここで360段も登ってきたという印象も無かったけど、まだこれから640段ほど残っているので、中間地点にはもう少しの場所。
こちらがその「四寸道」と呼ばれている場所だが、見た目には石段が造られた後に両サイドの石がせり出して侵食してきたかのようにも見える。ただ日本全国の寺や神社に設置されている長い階段の中でも、これだけの雰囲気ある箇所はなかなかに見る事が出来ずに珍しいポイントのように感じる。
こちらには「磨崖仏(まがいぶつ)」と呼ばれる、自然の岩壁などを彫って作られた石仏が見られる。どうやら平安時代初期頃に作られた磨崖仏らしく、この山寺が建立された時期から、この参道を見守っている石仏のようだ。
ただこのような岩肌に彫られている石仏は、長い年月を経ると風化したり雨水で削られたりする為に、わざわざこのように短い屋根が設置されていた。平安時代にこの磨崖仏を彫った人は、こんな硬い岩を削って作った磨崖仏が簡単に雨風に削られるとは思わなかっただろうけど、1000年以上も経つと削られてしまうのである。
このような岩肌を見て、松尾芭蕉が残した句を頭の中で思い浮かべると、その当時の様子が想像出来そうだけど、今回は12月という冬に訪れた事もあって勿論蝉の声が聴こえなかっただけに、この山寺は蝉が鳴く夏頃が一番の見所なのかもしれない。
岩を彫って絵を入れるのは、大昔から人類がしてきた行為。今では自然の大きな岩にこのような碑を刻む行為はちょっと躊躇されるけど、昔は逆にこのような大岩に刻む行為はごく普通な事だった事だろう。
そして進んで行くと、「せみ塚」という案内板が立っているのが見えてくる。さっきはコケシ塚という、大きなコケシの石像が設置されている場所があったけど、ここはコケシではなく蝉の塚のようだ。
ただ昔からの蝉を供養してきた「せみ塚」というよりは、松尾芭蕉が残した有名な句をしたためた短冊をこの地に埋めて、そこに石の塚を造った場所で、そこを「せみ塚」と読んでいるだけのようだ。てっきり蝉を供養している塚だけに、蝉の亡骸が大量に埋められているのかと思ってしまったけど、そうでもなさそうな。。
長い石段を登る! 動画
「土石老いて苔滑らかに」と松尾芭蕉が残した紀行文『奥の細道』に記されているようだが、松尾芭蕉が訪れた約300年前に既にこのような石段の脇に苔がビッシリと生え揃っていた景色があったようだ。
足腰が弱りつつある年配者にとってはちょっと大変な石段登りだけど、その登る道中にはこのように足元の石段だけを見ているだけではなく、たまに足を止めて周囲に生えている松尾芭蕉も眺めた緑色の苔の様子なども楽しむべきである。
そしてこちらは「弥陀洞(みだほら)」という、大きな天然の岩が長い年月に雨風によって浸食された形が「阿弥陀如来」に見えた事から、この名が付けられているという。なお、この巨大な岩の形が仏様の姿に見える人には、幸福が訪れるという言い伝えもあるんだとか。
単なる岩にしか見えませんが・・・
ただそんな「阿弥陀如来」に見えた岩にも、このように所狭しと供養碑が彫られている方に目が行ってしまう。だから仏教にはあまり関心の無い人間からすれば、そんな「阿弥陀如来」に見えた岩に手を加える行為が罰当たりな行為に思えてしまうのだが。。
宗教は解釈する人によって変わるからね!
この「弥陀洞」は山寺の境内でも特に仏様が宿る場所という認識があるからか、岩肌にはビッシリと供養碑が彫られて、手前には後生車のように回転盤が取り付けられている卒塔婆も沢山置かれていた。この卒塔婆は若くして亡くなった人の供養碑として置かれており、念仏を唱えてこの回転盤を回してあげると、その人が早く生まれ変わるとされているようだ。
参道途中にある「仁王門」にて
そして参道を登っていくと、上の方に「仁王門」が見えてくる。この仁王門は1848年に再建された門らしく、またその名前の通り、両脇には仁王像が設置されている。という事はこの門が関所となって、邪心を持つ人間を監視して追い払う役目があるとされているようだ。
この山寺の中でも比較的高い場所に造られている仁王門だけど、個人的にはもう少し低い位置に造っても良かったのではないかと思う。邪心を追い払うにはこんな高い場所よりも、もっと入口に近い場所に置いた方がいいのかと個人的には思うのであるが。。
そして仁王門に近づいて行くと、門の中に仁王像が佇んでいるのが見える。なお、この仁王門に設置されている仁王像は、平安時代~鎌倉時代にかけて活躍した仏師で”日本のミケランジェロ”とも称される「運慶(うんけい)」の弟子の作品だとされているようだ。
運慶の作品じゃないのね・・・
外側から写真を撮ろうとすると木枠が邪魔して上手く撮れなかったので、自撮り棒を駆使して、スマホを木枠の内側に滑り込ませて仁王像の写真を撮る事に成功する。体は朱色に塗られており、なかなかにイカツイ姿をしているのが分かる。
こちらは反対側に設置されていた「吽形(うんぎょう)」で、先程見た右側に設置されていた「阿形(あぎょう)」と2対で1セットになっている像だ。この像の簡単な見分け方は、口を閉じている方が「吽形」で、口を開けているのが「阿形」となっている。
さて、そんな仁王像が両脇から睨みを利かしている仁王門だったけど、ボクは邪心を持っていない人間だったので、何のトラブルもなく普通に門を通過できた。ここまで来れば1015段の石段もあと少しで終わりなので、引き続き楽しんで石段を登って行くのであった。
仁王像が見逃したのかもしれんゾ・・・
こんな旅はまた次回に続きます!
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