「山形県立博物館」で学ぶ、最上氏が中心となって築いてきた山形の歴史【東北旅行記72】

東北旅行記2020年冬-72:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
( Learn about the history of Yamagata, which was built mainly by the Mogami clan, at the Yamagata Prefectural Museum.  [Tohoku Travelogue 72])

山形の歴史を学ぶ!

ここは山形市内にある「山形県立博物館」で、ここ山形県の歴史や至宝が収められて展示されている素晴らしい場所。今回も引き続き、その素晴らしく勉強できる場所を満喫していきたいと思います。

 

【山形県立博物館】

住所:山形県山形市霞城町1-8(霞城公園内)
営業時間:9時~16時30分頃(※定休日:月曜日)
電話番号:023-645-1111
入館料:大人300円/学生150円(※高校生以下無料)

 

 

 

山形県立博物館見学はまだまだ続く!

こちらにあった模型は、山形県の南部にある「稲荷森古墳(いなりもりこふん)という4世紀頃に造られた前方後円墳。古墳というと大阪の堺に新しく世界遺産に登録された古墳群が最近では有名だけど、全国的に各地に豪族が出現していた為に、色んな場所で見る事が出来る。

 

古代エジプトなどのピラミッドのように、昔は世界的に有力者の権威を表す為に、大きなお墓を作るのがブームだったのかもしれない。特に太古の人々は”死後に復活する”と考えていた事もあって、王様などの傍には豪華な装飾品や身を守る為の武器や防具、更には家畜のミイラなども一緒に埋葬していた程である。

 

狩猟民族だった人類が生き残る秘策として考えたのが、このような農業を行う事だった。現代では普通に農業が行われているので不思議にも思わないけど、動物を狩って食糧にするのが当然だった時代に、名もなき人が安定的に食糧を収穫できる農業を導入した訳である。

 

そして農業のノウハウがそれなりに浸透していき、安定的に食糧が作り出せる時代になると、人類の個体数が大幅に増加していく。そして人類が大幅に増加すると、今度はその群れを統制する為に、各地でリーダーが選出されてその地域を治めるようになる。

 

こちらの足跡は約1200年前の、農民が残した足跡だとされている。田んぼの畔(あぜ)に足跡が残って固まり、そこに土砂などが流れ込んでそのまま埋もれてしまった為に綺麗に残ったという。現在では新しい家を建てる際に、周辺の地面を固める為にアスファルトを流し込んだ後に、猫ちゃんがやって来て可愛い肉球を付けたりした物も、あと1000年ぐらい経てば価値が出るのかもしれない。。

 

こちらは「木造阿弥陀如来坐像」(複製)という、ここ山形市内から北の方に行った先にある寒河江市の「慈恩寺」に保存されている像。平安時代後期に作られたとされている像だが、この慈恩寺には文化財が①国指定が32、②県指定が33もあり、東北地方では随一の収蔵数となっているようだ。

 

 

そんな如来像が作られた平安時代が終わり、源頼朝が打ち立てた武家政治であった鎌倉時代に突入していく。今年2022年のNHK大河ドラマは、鎌倉時代を築いた源頼朝を始めとする登場人物が出てくる『鎌倉殿の13人』が放映されている。

 

個人的には鎌倉を訪れてから鎌倉幕府に興味を持ったタイミングで大河ドラマが始まったので、ちょうどいいタイミングで見出したが、今まで全く大河ドラマを見て来なかった事もあって、あまりにも長い話過ぎて途中で早々に飽きてしまったが。。

直江クン
直江クン

大河ドラマを見るには根気が必要だよ!

 

豪族とは言っても色んなタイプの人が居たようで、偉そうにその土地を仕切っていたのかと思ったけど、基本的には一緒に農業などに取り組み、敵が襲ってきた場合に農民たちを統率して戦う役目だったようだ。

 

 

この山形の地域は戦国時代に頭角を現した最上義光が治め、東側で長年ライバルだった伊達氏とは妹を貢がせて同盟を結んだ。そして最上義光の妹が伊達氏で生んだ子供があの有名な伊達政宗で、少なからず最上氏の血を引いていた事もあって、あれだけの武将になったのかもしれない。

仙台の政
仙台の政

最上義光公は叔父だけど、あまり仲はよくなかったんだけど・・・

 

こちらは最上氏の全盛期を築いた「最上義光」が書いた書状が展示されている(※複製品)。実際に本人が書いたのか、代理人が書いたのかは分からないけど、電話もFAXも無かった時代なので、このような「文」が外交などで重要な役割を担っていた。

 

こちらは最上義光の孫にあたる、出羽山形藩の第3代藩主:最上義俊(家信)の出した書状も展示されている。最上義光が藩祖となった山形藩も、この3代目:最上義俊が先代が亡くなった際に幼くして藩主に就任したが、家老勢に猛反対を受けてお家騒動に発展して、最終的には最上氏が改易となってしまう運命を辿るのである。

 

最上義光の娘であった駒姫(こまひめ)は、当時”東北で一番の美女”とも言われる程だった。その噂を聞きつけた豊臣秀次(秀吉の甥)が嫁に差し出すよう再三要請し、根負けした最上義光は豊臣家に駒姫を嫁入りさせる事にした。しかし、その後豊臣秀吉に新しい男の子が生まれて(豊臣秀頼)、秀吉は豊臣秀次に引き継ぐ予定だった家督を新しく生まれた実子:豊臣秀頼に譲る事にした。

そして豊臣秀次は家督を奪われて高野山に閉じ込められたが、最終的に秀吉の命によって切腹させられて死亡する。そしてその後に豊臣秀次の側室達も処刑される事になり、嫁入りの為に京入りしたばかりの駒姫も処刑されてしまう事になった。

直江クン
直江クン

昔は跡継ぎ争いでは、親兄弟でも容赦しなかった時代だからね・・・

 

動乱の戦国時代を最終的に徳川家康が天下統一し、平穏な時代が訪れる事になった江戸時代。すると城の周りでは戦場の中心地としてではなく、多くの人が集まる経済の中心地として機能を変えていく。それによって日本全国では多くの城下町が発展していき、新しいビジネスや文化が形成される事になる。

 

中世の時代までは常に争いが目の前にあったが、江戸時代は江戸幕府の将軍が国内を支配していたので、戦いで使うハズだった武器や防具なども実戦用ではなく、贈答用にきめ細かい造りの物が造られる事が多くなっていった。

 

その江戸時代に「士農工商」という身分制度が確立したと学校で勉強した記憶がかすかにあるけど、実際には武士を頂点としてその下に商人と農民というランク分けだった。だが平穏な時代に武士は活躍する場が無かったが、彼らはプライドが高かったので、満足に働きもせずに高給をもらう身分だった。それに対し、農民は貧しくて身分も一番下だったので、虐げられた生活を送る事になる。

 

そして江戸時代には日本全国の藩は財政難に陥り、一番下のランクだった農民は常に不当な圧政を受け、田畑を放棄して逃げ出す人も多かったようだ。また江戸時代には天候が悪い年に飢饉が起こると、農民が餓えてしまい、また全国的に一揆も多発していた。

 

藩主としても勿論農民を虐げる気持ちは無かったとしても、江戸幕府の将軍の命令には逆らえずに圧政をせざるを得なかったようだ。しかし全国的に財政改革を行う藩が増え、新しい特産物などを開発していき、また賄賂を禁止にしたり、節制を呼び掛けたりしていった。

 

そんな中身は苦しかった江戸時代に大改革を断行して、”名君”と崇められた人物の代表格が、このパネルの右側に載っている「上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)である。この山形藩の南隣にあった上杉家が治めた出羽国米沢藩で、養子として迎えられて米沢藩第9代藩主に就任したものの、外様から来た藩主に対して古来の家臣団が猛反発し、改革を行うのも大変だったようだ。

上杉鷹山の活躍は最終日に米沢の上杉博物館で勉強します!

直江クン
直江クン

上杉鷹山公が居なければ、上杉家は消滅していたハズ・・・

 

 

それと左側に載っている「本間 光丘(ほんま みつおか)は、庄内酒田で活躍した豪商の3代目で、上杉鷹山の財政改革に尽力して山形の地を発展させた人物の一人でもある。

 

ちなみに本間光丘の叔父で、当時の米相場で大儲けした「本間宗久(ほんま そうきゅう)本間光丘が立派な跡継ぎになるまでの間、本間家の家督を託された。本間宗久は父親から「(米)相場には一切手を出すな!」と生前言われていたので、取引は一切せずに日々の米の値段を綿密に記録して、主観ではなく過去のデータに基づく統計データを長年分析した。

 

その後に父親が亡くなると家督は本間宗久の兄に譲られ、自分は本間家の補助として家に残された。それからは兄の為に本間家で働くが、兄が病弱な事もあって兄の長男である本間光丘が育つまでの間として、家督を譲られて米相場への参加も認められた。

 

そして長年分析だけしてきた米相場で大金を稼ぐ事に成功した本間宗久は、その稼いだ金を本間家に投入して事業を拡大させていった。しかし立派に成長して家に帰ってきた兄の長男:本間光丘は、約束通りに家督を受け継ぐと叔父である本間宗久を追放して、米相場で儲けた資金を庄内地域の人々に還元する為に、そのお金をつぎ込んで庄内海岸に防砂林を設置した。

 

若くて生意気な跡取り息子の無謀な行為にも思えたが、結果的には本間光丘の時代が本間家が最も栄えた時代で、先見の明と大きな決断を実行できる立派な人間だったようだ。

直江クン
直江クン

本間光丘のおかげで、鷹山公の改革が上手くいったと言っても過言ではない!

 

なおこの時代に米相場で儲けた本間宗久が生み出した『酒田罫線法』には、株などのチャート・テクニカル分析で現代でも使われるパターンなどがあって、相場を動かす人間の群集心理は今も昔もあまり変化はないようだ。

オカン
オカン

頑張って儲けてください!

 

日本では古来から神道と仏教が盛んな国で、多神教の宗教なので”高い山には神様が宿る”と考えられていた為に、信仰の為に山登りをする人が多かった。現代では健康的なハイキングが人気だけど、昔は自分の信仰心を体で示す為の山登りだった。

 

昔から白色は曇りの無い一途な信仰心が表れている色として、そのような信仰心で山登りする人達が着ていた衣も白色が多かった。現代ではハイキングする人は万が一遭難した際に発見され易いように、派手な目立つ色の服装をしている人が多いけど、時代に応じて着る服の色も変化していくようだ。

 

この東北地方では米作りが盛んな場所というイメージがあるけど、それにはその土地で苦労して稲作を頑張ってきた農民が多かった証でもある。ここ山形では最上川を使った海運で米などを酒田まで運び出し、そこから北前船で大坂に送っていた。その為に酒田の商人は重要な存在であり、山形の命運を酒田の商人が握っていたと言っても過言ではない。

 

「奇妙で変てこな生き物達!」コーナーにて

という感じで山形県の江戸時代の歴史について、これからもっと詳しい資料などが見られるのかと楽しみにしていたけど、ここで山形の歴史については終了だった。そして上の階に向かうと、こちらの「奇妙で変てこな生き物達!」という世界的に見られる動物などについての展示となっていた。

直江クン
直江クン

山形の歴史は後日訪れる上杉博物館で、また勉強してね!

 

最近は江戸時代の歴史についてかなり興味が出てきたので、このような博物館でその歴史的な資料などを見ながらの見学がとても楽しい。しかし、このような動物の資料なども普段はあまり見る機会が無いだけに、今回はいい機会だと思って見学する事にした。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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