山形駅に辿り着き、「最上義光歴史館」で最上家の歴史を勉強!【東北旅行記65】

東北旅行記2020年冬-65:山形編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Reaching Yamagata Station, we studied the history of the Mogami family at “Mogami Yoshimitsu History Museum”!  [Tohoku Travelogue 65])

最上家が治めていた土地!

さて2020年末に訪れた東北旅も、最後の目的地である山形駅までやって来ました。山形というと温泉街やスキーなどを目的に訪れる人も多い場所だが、あまり歴史を探求してくる人もそこまで居なさそうに思える場所のようにも感じたが。。

直江クン
直江クン

山形は拙者が案内致す!

歴史だらけの場所だよ!

 

 

 

山形市内にて

山形駅構内にはこのように「山形のとびきりそば!」という看板が見えてきた。日本全国にはそれぞれの地方に名物として蕎麦が昔から存在しているけど、この「とびきりそば」は蕎麦の中に山芋の成分が含まれており、”とびきりの技”で仕込んだ蕎麦という事でこのような名前が付けられているとか。

 

直江クン
直江クン

短めの蕎麦麺だけど、歯応えのあるシッカリした食感が特徴です!

 

こちらは山形駅東口のロータリの景色。この山形駅も山形新幹線が停まる駅という事で駅舎は立派で、駅前もそれなりに大きく整備されていたけど、そこまで活気を感じる雰囲気は見られなかった。江戸時代には東北を縦断する際に使われた2本の街道の内、「羽州街道(うしゅうかいどう)に面していた事もあって大きく発展した町となっていた。

 

山形県内では一番大きな規模の都市であるが、東北全体で見ると8番目の規模にあたる。ただ近年は日本全体が少子高齢化時代を迎えて、更にはドーナツ化現象もあって、地方程に活気が無くなってきている雰囲気をいきなり感じた駅前であった。。

直江クン
直江クン

これからの日本も、どうなる事やら・・・

 

こちらはJR東日本:奥羽本線の「山形駅」で、山形城跡の三ノ丸内に開通した路線でもある。かつての城跡内を通過する路線は広島県にある「三原城」などでも見られるが、この山形城は江戸時代に治めていた譜代大名がコロコロと入れ替わった。またそれに伴って石高が低くなっていき、城を満足に維持する費用も無かった為に、本丸は更地になって、三の丸も田畑などに変えられていったようだ。

直江クン
直江クン

山形藩は14家も主君が入れ替わった歴史があります!

 

その山形市内を散策する前に、山形駅東口から徒歩すぐの場所にある、今晩宿泊する「コンフォートホテル山形」に、まずリュックサックを預けに行きます。この「コンフォートホテル山形」は秋田市内でも宿泊した全国ホテルチェーンで、無料の簡単な朝食ビュッフェが付いている割安なビジネスホテル。

 

 

今回の東北旅では、訪れた青森県や秋田県や、この山形県の歴史など殆ど予習せずに、いつもながらの”行き当たりばったり”で訪れた。予習するにしてもそこまで思い入れの無い東北の地だったので、そこまでの勉強したい気持ちも湧いてこず、どうせなら訪れてから復習した方が身に着くと思ったからでもあった。

オカン
オカン

アンタは毎回、行き当たりばったりやな!(笑)

 

江戸時代にまず山形藩を治めていたのは、この山形付近を統一した最上氏第11代当主だった「最上 義光(もがみ よしあき)。最上義光が存命の江戸時代初期には、山形藩は57万石と全国的にも大きな大名になっていた。また最上義光も早くから徳川家康側に付いていた事もあって、江戸幕府から東北地方の守りを固める重要な藩とも考えられていた。

 

その為に江戸時代前半には山形藩の藩政を行う山形城が整備されて、このような鯱が大手門の上に取り付けられて、それなりの城になっていたようだ。しかしそんな最上家も最上義光の跡を受けた息子:最上家親が藩主に就任して早くに亡くなってしまい、その跡を家親の子供である最上義俊が継いだが、幼過ぎて家臣団が猛反対した。

そして大きなお家騒動に発展し、江戸幕府が介入しても解決しそうになかった為に最上義俊が藩主に就任してから5年後の1622年に最上氏は改易となってしまう。

 

こちらの銅像は「斯波 兼頼(しば かねより)(※最上 兼頼とも呼ばれる)という、羽州探題:最上氏の始祖でもある人物。1300年代の中盤に活躍した人物で、山形城を築城して山形の基礎を作った人物としても崇められている。

 

 

「豊烈神社」に寄り道!

ホテルに荷物を預けてから、まずは山形城跡がある街の北側へ向けて街歩きを開始した。そして適当に道を進んで行くと、こちらの「豊烈神社」という神社が見えてきたので、ちょっと寄り道する事にした。

 

 

 

この「豊烈神社」は山形藩の藩祖である最上氏が建立した神社ではなく、1848年に遠江浜松藩:第2代藩主だった「水野 忠精(みずの ただきよ)がこの山形の地に移封されてきた際に、元々浜松城内に建立した「藩祖:水野忠元」を祭神した神社を移転してきた経緯がある。

なおこの時に浜松から移封されてきた水野忠精の先代は、”天保の改革”を行った老中としても有名な「水野 忠邦(みずの ただくに)である。しかし水野忠邦が行った”天保の改革”は強い反対を受けて失敗に終わり、水野忠邦は老中から失脚してしまい、更にはその処罰として石高を減らされて、この山形に送り込まれる事になったのである。

 

その境内には「水野(三郎右衛門)元宣」という人物の銅像が設置されているのが見える。この豊烈神社は大坂冬の陣&大坂夏の陣に参戦し、徳川秀忠の側近としても活躍した下総:山川藩の初代当主であり、水野家初代当主でもあった「水野 忠元(みずの ただもと)を祀っている神社だけど、その人物とは違うようだ。

 

こちらにはその「水野(三郎右衛門)元宣」という人物の説明が載っていたが、この神社で祭神として祀られている下総:山川藩の初代当主「水野忠元」の弟の子孫で、幕末の山形藩で筆頭家老となっていた人物。波瀾万丈の幕末を迎え、藩主親子が新政府軍の策略で京都に拘留されてしまい、代わりに筆頭家老として山形藩を率いた。

当初は新政府軍の官軍側に付いていた山形藩だったが、新政府軍参謀:世良修蔵の横暴さに憤慨して暗殺した仙台藩&米沢藩に呼応して、”奥羽越列藩同盟”に独断で加盟する事になった。しかし最終的に奥羽越列藩同盟は新政府軍に敗北し、新政府軍から反逆罪に問われた際に、「自分1人の決断であって、他人には寛大な処置を」と自分だけの責任と申し出た。

そして水野元宣は一切の責任を取って、腹切りではなく、斬首で処刑されてしまう。だが水野元宣の独断によって、この山形藩内での被害が抑えられた事もあって、山形では市民の恩人として尊敬される人物となっているようだ。

 

そんな自分の命を犠牲にしてまでも山形の人々の命を救った話などを目にしたと思ったら、こちらの道沿いに設置されていた像は雨にも鳥の糞にも当たる場所だけあって、縦筋の汚れが目立つ像になっていたが。。

直江クン
直江クン

せっかくの像も綺麗に掃除してくれないと困ります・・・

 

「最上義光歴史館」を訪れる!

そして山形駅前から徒歩で約15分ほど歩くと、山形城跡大手門付近に造られている「最上義光歴史館」「山形美術館」のある広場に辿り着く。山形藩祖となっている最上義光の名前は、戦国時代にも有名だっただけあるので、この「最上義光歴史館」訪問は少し楽しみにしていた場所でもあった。

 

【最上義光歴史館】

住所:山形県山形市大手町1-53
営業時間:9時~17時頃(※定休日:月曜日)
電話番号:023-625-7101
入館料:無料

 

 

その「最上義光歴史館」の前の広場にも、また像が見える。こちらの像はさっきの像みたいに車の通る通り脇に放置に近い状態で設置されている像ではないだけに、比較的綺麗な外観をしていた。

 

こちらの像は戦国時代に活躍した、勇猛果敢な武将でもあった「最上義光」。また単に勇猛果敢なだけではなく、この山形の街を発展に結びつけた内政力もあり、また安土桃山時代を代表する文化人とも称されていた人物でもある。更には仙台の地を治めた有名な伊達政宗は、最上義光の妹である義姫が伊達輝宗に嫁いで生んだ子供なので、甥っ子に当たる存在でもある。

直江クン
直江クン

義光殿はかなりの戦上手で、私は苦戦した記憶しかないですね!

 

この「最上義光歴史館」の建物の前には日本庭園っぽい空間が広がっていたが、この場所は江戸時代の終わりに”真言宗智山派”のお寺として建立された「光明寺」が存在していた場所のようだ。

 

 

この「最上義光歴史館」は2009年から入館無料になっているというお財布に優しい資料館だが、とっても残念な事に館内の写真撮影が禁止となっている。

 

館内には最上義光所用の『三十八間総覆輪筋兜』という兜が保管されているが、その様子は撮影できないが「最上義光歴史館」のホームページで写真が掲載されているので代わりに写真で眺める事が出来る。またこの兜には弾痕を受けた跡が残っており、弾の当り処が悪ければ最上家もその銃弾と共に早めに衰退していたかもしれない。

 

江戸時代に日本全国に300を超える数の藩が設置されていたが、これまでに訪れた場所にあった仙台藩や弘前藩や秋田の久保田藩みたいに、江戸時代を1つの家で守り通したのが普通に思えてしまうけど、実際にはこの山形藩のように14家もの家柄が入れ替わったりと、その藩を守り続けるという事がとても大変な事だったのが理解できる。

直江クン
直江クン

上杉家の米沢藩も13代に渡って存続したんだよ!

 

「最上義光歴史館」の入館料無料はとても有難いけど、写真撮影禁止はちょっとガッカリ。諸事情により撮影出来ないので仕方ない事だけど、別の訪問者のオバチャンはそんなのお構いなしにスマホのシャッター音を「ガシャ、ガシャ!」と響かせながら撮影していた。有料の施設でもないだけに警備員のような監視する人も少ない事もあって注意すらされなかったけど、「そういう人間にはならないように・・・」と思った瞬間でもあった。

 

そう言いながら、後で訪れた「山形県立博物館」では写真撮影禁止マークの付いていた展示品を気付かずに写真撮影した際に、近くに居た幼稚園児みたいな年頃の子供に「写真撮影、禁止だよ~~!」って注意されてしまったけども。。

偉そうに言いながら、反省ばかりです・・・

直江クン
直江クン

ルールは守らないとね!

 

こちらは隣に造られている「山形美術館」だけど、ここは有料施設で、恐らく写真撮影が禁止という事もあって、見学はパスする。海外の美術館では写真撮影が可能になっている場所が多いけど、日本国内では商業的な事もあってか、写真撮影禁止が多いので、あまり足が向かわない美術館である。

 

美術館の見学はしなかったけど、その代わりに建物前の広場に設置されていた、この『ハモニアの頭』というタイトルの像を代わりに写真に収めた。この像の作者は「ハンス・コック(Hans Kock)という1920年西ドイツ生まれの彫刻家で、山形新聞・山形交通グループ連合の会長であった服部敬雄という人が寄贈した物みたい。

 

なおこの像の作者であったハンス・コックは、2009年6月1日に発生した『エールフランス447便墜落事故』という、乗員乗客228人全員が死亡したエールフランスでの最悪の事故で亡くなっているようだ。

直江クン
直江クン

飛行機という乗り物も、怖いですね・・・

 

 

山形城跡の大手門にて

こちらは山形城跡の東側にある「山形城:二ノ丸 東大手門」の入口前で、この二ノ丸:東大手門は江戸時代中期の姿を再現して1991年頃に復元されている。この大手門をくぐった先にある山形城:二ノ丸は、明治時代に払い下げられて陸軍の駐屯地となり、江戸時代当時の櫓などは取り壊されて、本丸も埋め立てられてしまっているようだ。

直江クン
直江クン

城も時代に応じて、その姿を変えていったという訳だね!

 

そんな東大手門の前に架かる橋の下には、このように先程JR奥羽本線の電車で通過した線路が見えている。という事はこの山形の地を走る山形新幹線も、この東大手門橋の下を走っているという訳だ。

 

この山形城はかつて三の丸まで含んだ城全体の規模では、江戸城・大阪城・小田原城・名古屋城に次いで全国5番目の規模だった大きな城であった。しかし、山形藩祖となった最上義光が亡き後にズルズルと奈落の底に落ちていくように、最上氏が改易となった後も13家が入れ替わり、当初は57万石あった山形藩も最後の水野氏時代には5万石にまで領地を減らされる始末であった。

 

 

東大手門付近の景観! 動画

 

 

こちらは東大手門の前に架かる木造の橋だけど、さすがに手前の下側を走る電車道部分はしっかりした鉄筋コンクリートの橋となっていて、この木造橋が架かっているのは外堀の部分だけになっている。

 

このようにかつての繁栄した面影を少しだけ残しているような、そんな雰囲気をちょっと感じてしまう山形城の外堀。ただこの外側にあった三の丸の武家屋敷の更に外側にもあったとされる外堀は、とっくの昔に埋め立てられてしまっているので、数少ない昔の姿を残した遺構として、しばし水面を眺めて佇むのであった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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