五所川原市で太宰治に関連する「思ひ出の蔵」と、生家「斜陽館」を訪れる【東北旅行記⑧】

東北旅行記2020年冬-⑧:青森編

 旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Visiting the “Storehouse of Memories” related to Osamu Dazai and his birthplace “Shayokan” in Goshogawara City. [Tohoku Travelogue 8])

文豪にゆかりのある地

2020年12月の東北旅でまず訪れた青森県で、文豪:太宰治にゆかりのある五所川原市にやって来ました。ここ五所川原市の旧:北津軽郡金木村で生まれた太宰治は、一時叔母のキエに預けられていた事もあり、五所川原市の中心部にはその叔母:キエが住んでいた家が復元されています。

ネプちゃん
ネプちゃん

鶴の家紋は、太宰治の津島家の家紋だべ!

 

 

太宰治「思ひ出」の蔵にて

ここは五所川原市内でも駅から近い場所にあり、今は「太宰治:思ひ出の蔵」として小さな資料館になっている。ここを訪れたのは”五所川原まちなか周遊券”という、この周辺にある観光用の3施設で使えるセット券を購入した為でもあった。

 

道路側から見ると一見資料館に見えない蔵の建物となっているけど、建物の裏側に回ってくるとこのように入口がある。そしてここは吉幾三も歌うような「雪國」なので、入口は雪国対応の2重の入口となっているのが見える。

 

【太宰治「思ひ出」の蔵】

住所:青森県五所川原市大町501-2
営業時間:10時~17時頃(※休み:年末年始と8月盆)
電話番号:0173-33-6338
入館料:大人200円/高校生100円

 

 

この建物はかつて太宰治の母親:津島タネの妹だった津島キエが暮らしていた家の蔵だが、1944年に五所川原で起きた大火災に家も巻き込まれて被害を受けたがこの蔵はほぼ無傷だったので、それからこの蔵内で暮らすようになったとか。

 

この場所に蔵と共に津島キエの家が造られたのは1916年の事で、2011年に解体されるまでここに蔵が残っていた。蔵が解体された後の2014年にこの蔵が復元されて、今では太宰治「思ひ出」の蔵という名前で彼にゆかりのある場所として資料館になっている。

 

この太宰治の名前を知っている日本人は多いけど、その本名を知っている人はかなり少ない事だろう。太宰治は1909年に旧:北津軽郡金木村で銀行業や衆議院議員などもしていた津島家の津島源右衛門の10番目の子供として生まれた。なお彼の本名は「津島 修治」で、下の名前まで覚えなくてもいいけど、津島という苗字は後で行く彼の生家を訪れた時によくその名前が出て来るので覚えておいた方がベターである。

 

太宰治は実母のタネよりもここに住んでいた叔母のキエの方に心を寄せていたようで、戦争中に疎開してきた時はここに一時宿泊されてもらっていたという。ただこの家には太宰治ゆかりの物はあまり置かれていなくて、というのも1944年に大火災でゆかりの物が焼けてしまったので、そこまで期待する程な資料は置かれてはいない。

 

正直言うと太宰治の作品は殆ど読んだ事がないので、そこまで興味のある人物ではなかった。この資料館に立ち寄ったのも周遊券を購入していて寄らないと損すると思っての事だったので、正直周遊券を購入していなければここに来ていなかった事だろう。

 

館内のお姉さんに簡単に太宰治やここの建物について説明してもらったが、心の中では今日これから太宰治の生家に寄ってから、更には津軽半島の先端の「竜飛岬」に行く予定にしていたので、ここでそこまで時間を費やす気持ちも無かった。ただ既に14時30分となっていたので、これから太宰治の生家に寄ってから竜飛岬まで行くのは相当難しいと資料館のお姉さんにも言われてしまったけど、とりあえず行けるだけ行こうと思ったのである。

 

 

太宰治記念館「斜陽館」にて

そういう無茶な予定を立てていたので、どこかでゆっくり昼食を食べる事はせずに、車を停めていたコンビニでパンを2個程買って急いで食べて、五所川原市内中心部から北の方にある「太宰治記念館:斜陽館」を訪れる。

 

【太宰治記念館:斜陽館】

住所:青森県五所川原市金木町朝日山412-1
営業時間: 9時~16時30分頃
電話番号:0173-53-2020
入館料:大人600円/高大学生400円/小中学生250円

 

 

太宰治の生家が残っている金木町は、五所川原市でも津軽半島の真ん中辺り。寒い事は寒いけど、このタイミングでは殆ど雪が見られなかった。太宰治の生家「斜陽館」の前には大きな駐車場があり、そこには物産店もあったけど、この冬の時期はあまり観光客が来ないからか、この訪問時には閉まっていたが。

 

こちらの建物が太宰治の生家「斜陽館」として、明治40年(1907年)に建てられた建物で、2004年には国の重要文化財にも指定されている。この建物が国の重要文化財に指定されているのは太宰治の生家だからという訳ではなくて、明治時代の末に造られた当時としては豪邸だったからだ。

 

この家は太宰治の父親である津島源右衛門が、明治時代に青森県内で豪華な西洋風建造物を多く手掛けた建築家:堀江佐吉に依頼して造られた建物。この堀江佐吉が手掛けた建造物はさっき訪れた五所川原市の立佞武多の館に、そのレンガの一部が残されていた焼け落ちた大豪邸「布嘉邸」や、弘前市では旧第五十九銀行本店本館旧弘前市立図書館などの建物が現存している。

 

この建物は太宰治の父親である津島源右衛門が亡くなった後は兄弟に相続となったが、太宰治はその前に芸者の女性と結婚する時に津島家からの除籍を条件として受け入れた為に、殆どの遺産相続は受けれなかったようだ。そして太宰治が亡くなった後の1950年にこの家は売りに出されて、次の所有者が旅館として運営するようになった。

 

まずは入口で大人600円の入場料を支払う。この斜陽館ではここを運営する民間非営利団体が手掛ける「津軽三味線会館」などとの共通券(大人1000円)も発売されているが、この訪れた冬場は津軽三味線会館が閉まっていた。青森県では冬場に閉まる施設や通行止めになる道も多いので、寒い時期には行動範囲が狭くなってしまう。

 

旅館として使われた斜陽館は太宰治の生家という利点も活かして、繁盛していたようだ。内装などはほぼ触っておらず、太宰治が住んでいた時代のままだったので、多くの太宰治のファンが泊りに来たようだ。ただそんな旅館もだんだんと経営が傾いていき、1996年に金木町がこの建物を買い取り、それから改修されて太宰治の記念館として今に至る。

 

この斜陽館は合計680坪もあって、現在のお金に換算すると約7~8億円に相当する総工費が掛けられた大豪邸だった。しかも建築当時はこの周囲に大きな田畑も所有しており、大地主でもあった津島家。

 

この建物は1階だけで11部屋、2階には8部屋もあり、今でも大豪邸だが当時だともっと大豪邸と認識されていた事だろう。太宰治の父:津島源右衛門は養子だが、昔から大地主であった有力者の津島家の家督を継ぎ、自身は金木銀行を創立してこの建物の一部がその銀行としても使われていた。

 

太宰治の作品は殆ど読んだ事がないけど、かなりのお金持ちに生まれたがその家の世界観が好きではなく、歪んだ思想にハマり込んで行ったのかもしれない。太宰治は高校まで青森にいたが、今の東京大学に進学する為に上京する。その際に気に入っていた芸者を一緒に連れて行き、その女性と結婚する為に津島家を除籍となる道を選択する。

 

 

津島家は大地主であり銀行でもあったので、この建物を中心として金木町が発展したとも言われる程に、村の中心地だった場所のようだ。というのも近くの庶民はここに米を持ち込み、買い取ってもらう姿が毎日のように見られたという。それだけに一般の家屋にしては、広く土間が造られている。

 

それにしてもこれだけ大きく立派な家屋が現存しているのも、太宰治の生家だった影響も大きいのかもしれない。しかし今でも建っているというのはそれだけしっかりした建物で、火災などにも遭わなかった事も要因だろうが。

 

ちなみにここの一部を店舗として使っていた金木銀行は、1938年に第五十九銀行に買収されてしまう。そしてこの第五十九銀行は1943年に他の青森の銀行と合併し、今の青森銀行となる。なおこの斜陽館の道を挟んだ反対側には「青森銀行:金木支店」があるが、それはこの建物が金木銀行だった名残りであるようだ。

 

この大豪邸には3つの蔵が造られていて、銀行として米を預かる必要があったので、それに相応しく3つの大きな蔵があった。今でも蔵の建物は色んな所に残っているのが見られるけど、厚い壁の構造で重厚な倉庫だったのが分かる外観でもある。

 

広い土間を進んで奥に行くと、さっきの蔵の奥にも別の蔵があるのが見えてくる。この奥側に造られている蔵の方がさっきのよりも倍以上大きくて、多く持ち込まれた米を保管する為の倉庫だったようだ。

 

そしてここに置かれていたポスターは、2016年に開業した北海道新幹線に合わせて青森や北海道の名所を宣伝するCMに出たサンドウィッチマンがここを訪れた際のもの。この他にも浅虫温泉で温泉に浸かったり、函館で夜景を見ながら食事しているシーンもあったようだ。

 

この米蔵は家の建物同様に青森ヒバがふんだんに使われており、大きさは7m×11mとなっていて2250個もの米俵を収納できたという。また米蔵はここだけではなく、家の向かい側にも似たような蔵が2つあり、年間で6000~9000もの米俵が集められていたようだ。

 

こちらには前回の神奈川県旅でも勉強した、イギリス積みとフランス積みの煉瓦が展示されている。明治時代に造られた建物だけに昔の煉瓦造りの塀が建てられているが、ここの珍しいのはその塀がイギリス積みVerとフランス積みVerの両方が見られるからだ。

 

こちらのフランス(フランドルとも)積みは、明治時代に早く導入されたレンガの積み方で多く導入されたが、その代わりに構造的な問題などでのちにイギリス積みに切り替えられて、その多くが国内から消えてしまった。

 

そして今現存する赤レンガ倉庫などに用いられている積み方の殆どが、このイギリス積みになっている。同じレンガの積み方がちょっと違うだけのようにしか見えないけど、時代背景として開国直後から入ってきたフランス文化よりも、その後に入ってきたイギリス文化の方が主流となったのだろう。

 

こちらは先程訪れた廻堰大溜池に架かっていた鶴の舞橋にも使われていた、青森産のヒバ。昔の豪華な建物にはふんだんに青森ヒバが使用されており、この斜陽館の建物にもそれ相応の青森ヒバが使用されているようだ。

 

そして米蔵の中では『太宰治への伝言』という、ショートムービーが放映されていた。しかし、今日はこれから津軽半島の先端にある竜飛岬まで無理して行く予定にしていたので、誰も見ていないショートムービーは見ずに立ち去るのであったが。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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