土崎港曳山祭りだけではなく、終戦前日に爆撃された土崎の歴史も学べる「土崎港伝承館」【東北旅行記60】

東北旅行記2020年冬-60:秋田編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Tsuchizaki Port Lore Museum, where you can learn not only about the Tsuchizaki Port Hikiyama Festival but also the history of Tsuchizaki, which was bombed the day before the end of the war.  [Tohoku Travelogue 60])

原油基地への爆撃!

ここは秋田市でも秋田駅のある市内中心部より、北西の日本海側にある「土崎」という戦国時代に港が整備されて、秋田を代表する港として大きく栄えた街。そこにはこの「土崎みなと歴史伝承館」という、この地方の歴史を伝える資料館が2018年に造られています。

 

 

 

土崎みなと歴史伝承館の見学!

秋田の名物は、このような昔から地元で行われている祭や伝統芸能がとてもアピールされている印象だった。冬には大雪が積もる東北地方では、暖かい地方に比べると野外での年間活動時間が少ない事もあって、秋田らしい産業も目立った物がないのか、このような伝統芸能が差別化しやすいからかのように思えた。

 

こちらはこの土崎港で1700年頃から行われている『土崎港曳山祭り』という伝統的なお祭りで、使われている曳山(山車)の説明が書かれている。大昔から代々伝わってきた祭ではなく、戦国時代に本格的な港として整備されてから、活発に北前船などが行き交うようになってきた時代に生まれた祭のようだ。

 

この曳山は、街中に居る悪霊などを捕らえて閉じ込める役目がある物と考えられている。だからこの曳山を街中に流して、沢山の悪霊を集めて街の人々から悪霊を追い払う目的があり、また祭が終わるとその悪霊と共に曳山を解体するそうだ。だから毎年新しい曳山が造られて解体・廃棄される訳だが、傍から見ればもう1年続けて使えばいいと思ってしまうけど、祭りの趣旨を考えるとそういう豪勢な使い方にも納得である。

ネプちゃん
ネプちゃん

新しい山車を作るのが、開催する側からすると楽しいべ!

 

曳山の正面側には過去の勇猛果敢な武将が沢山配置されていて、いかにも悪霊を怖気させる位の雰囲気を醸し出しているけど、裏側はこのように強面の武将の人形などはなく、人が乗れるスペースと、“見返し”と呼ばれる時代を風刺したコメントが入れられている。

 

さっき訪れた「ねぶり流し館」で秋田名物『竿燈まつり』で使われる提灯に、それぞれの町内の町紋が入れられているのを見たけど、ここ土崎でも同じように町内の町紋がそれぞれの提灯にデザインされているのが見える。

 

昔はこのように町毎に色んな特徴があって差別化されていたのだろうけど、現代の日本は個性を持つ事をあまり社会が求めていない事もあって、また町内自体の結びつきも弱まっていて、個性も無くなりつつあるのだろう。

 

館内では大きなモニターに、この土地の名物祭『土崎港曳山祭り』の様子が動画で流されていた。そしてこの祭りの動画を見て気になったのが、その祭の内容ではなく、その動画のナレーションをしていた女性の声だった。聞いた事のある声だと思っていたら、最後のテロップで「声:壇蜜」となっていた。

下手なタレントのナレーションとは違って、ごく自然な雰囲気の話し方でとても聞き易かった。単に独特な不思議な雰囲気を持つ壇蜜を採用しただけかと思っていたけど、調べてみたらこの壇蜜は秋田県横手市で生まれていた。ただ1歳頃に東京へ越していったので秋田出身という訳でもないようだけど、ちゃんと秋田にゆかりのあるナレーターを使っていた動画に少し関心したのであった。。

 

こちらでは川柳大賞のような句が並べられているが、これは”見返し”という曳山の裏側に掲げる風刺の言葉である。この2020年はコロナ禍で世界中が感染症のパンデミックにいきなり襲われるという、大きなパニックに見舞われた年だけに、コロナ禍に関連した作品が最優秀賞と優秀賞に輝いている所が、世相を表しているように思った。

 

こちらは江戸時代に日本海側の北廻り海上輸送ルートで活躍していた、「北前船」の復元ミニチュア模型が展示されていた。この土崎港が発展したのも、この北前船の輸送ルート上の拠点として重要な場所にあった事が影響しており、またこの東北地方で作られた米俵を大坂に運ぶ要所だったからでもあった。

 

江戸時代に一番大きかった米市場は、江戸ではなく、大坂だった。だからこの北前船で米処の東北から米俵を載せて、近畿方面に向かう輸送に当時は最も適していた。そして当初は敦賀港に陸揚げしてから陸路で大坂まで運ばれたが、近江商人がそれなりの手間賃を取っていた事もあって意外と運送費が割高になっていた。その問題を解消したのがこの北前船で、敦賀港で米俵を降ろさずに、そのまま山口県の下関側まで回ってから、瀬戸内海を抜けて大坂に直接物資を届けるようになった。

 

客観的に考えると、陸路で敦賀から大坂まで運ぶよりも、瀬戸内海側まで入って大坂まで船で運ぶ方が手間が掛かりそうに思うけど、実際には陸路での輸送もトラブルが付き物で、高い手数料の割には信頼度が掛けて、また多くの米俵も輸送できなかったそうだ。それに比べると瀬戸内海は波が穏やかで転覆するリスクが少なく、多くの米俵を直接大坂に届けれる方がメリットが大きかったという。

ハゲる前君
ハゲる前君

物流は大きなサイズで、直接目的地に届けるのが一番効率的だゾ~!

 

 

「空襲展示ホール」の見学!

そして奥に進むと、「空襲展示ホール」という部屋が見えてくる。意外と思っていた以上に「土崎港曳山祭り」コーナーが少なく思えたけど、この「土崎港伝承館」は祭の資料だけではなく、この土崎の歴史全体を伝える資料館でもあるので、大事な第二次世界大戦時の出来事も伝える必要があるのだろう。

 

第二次世界大戦時に日本国内では多くの場所が、アメリカ軍の爆弾を沢山搭載したB-29が飛来して空襲し、爆撃していったという事実は知っているが、ここ秋田県でもそのような爆撃が行われたという事実は正直ここに来て初めて知ったのである。そしてその秋田の爆撃で特に興味深いのが、終戦前日に爆撃されたという点である。

ハゲる前君
ハゲる前君

「戦争がもう一日早く終わってれば・・・」と言いたくなるゾ~!

 

現代の日本人に「日本でも石油が採れる場所があるのを知ってますか??」と聞いても、恐らく多くの人がどこで石油が採れるのかを明確に答えれる人は少ないだろう。そういうボクもそんな事は考えた事も無かったので知らないが、戦前まではここの土崎付近で油田が発見された事に伴って、大規模な製油所が造られて、国内最大の生産規模を誇っていたという。

 

そして戦争中に海外から石油を入手しにくくなった日本は、軍需物資を生産する為に石油が必要だったので、国内随一の産油地だったここ土崎が重要な拠点でもあった。しかし、対するアメリカ軍側も日本国内を細かく精査して、軍需物資を造る為に必要な石油が採れる場所を破壊する為に、ここ土崎に爆撃を行う事になった。

 

この展示室に飾られていた、このボコボコした物体は、その空襲の際に落とされた爆弾での爆撃によって、高温状態になってコンクリートの壁が溶けた残骸のようだ。乾いたらカチカチの硬さになるコンクリートが溶けるなんて想像にもした事が無いけど、コンクリートの溶解温度は1200度以上とされているので、かなりの高温にさらされて溶けたとされている。

 

「日本という国は、化石燃料の資源国ではない!」というのがよくメディアなどで聞かされるのでそう思ってしまうけど、現在の日本国内では石油も天然ガスも実は未だに生産されている。この土崎では今は殆ど石油は生産されていないけど、新潟地方や千葉の一部では未だに石油や天然ガスが生産されて、それが都心に送られているのだ。

 

こちらはその第二次世界大戦時の空襲の際に、投下された「250ポンド(113.4kg)爆弾」の不発弾。実物の爆弾で勿論不発弾処理されてもう爆発する事が無い物だけど、このような爆弾が何と約7,300個もこの土崎の製油所目掛けて投下されたという。

 

この土崎では旧:日本石油(株)秋田製油所が造られており、その施設目掛けて多くの爆弾が投下された。その被爆した倉庫跡の一部分がこの展示室に移管されて保存されているが、もうその製油所自体はとっくの昔に取り壊されている。こちらは被爆した後に解体される前の状態を収めた写真のようだ。

 

 

第二次世界大戦時には日本国内の至る所に爆弾が投下されたが、主に基地や軍需物資を生産する工場など、相手の戦力を低下させるのに効率的な場所が選ばれた。しかし中には東京や横浜・神戸や大阪などの大都市にも、大規模な空襲が行われている。しかしこのような人口が少ないように思える秋田にも爆撃が行われているとは知らなかったので、この「土崎港伝承館」に来たからこそ、こういった事実を新たに知識に加える事が出来た。

 

1945年8月15日に日本は連合軍に対して全面降伏をしたが、その前夜である8月14日の夜22時30分頃からこの土崎は約4時間に渡って7,000発近い爆弾が投下され爆撃された。勿論それだけ激しい爆撃だったので一般人にも犠牲者が出て、軍人を含めた約250名以上が死亡したようだ。

 

 

土崎空襲の様子! 動画

 

 

こちらにはグアム島を出発したB-29が、ここ土崎まで飛来してきた飛行ルートが記されている。片道3000kmの距離を沢山の爆弾を積んで約6時間前後で秋田に到達し、積み込んだ爆弾を全て落として再びグアムに引き返していった。この図を見ていると、グアムや東南アジアの島をアメリカ軍に奪取された事が、戦況がほぼ不利な状態になった事実としてよく分かる。

冷静に考えれば、これらの島々から直接日本本土まで飛行到達できる爆撃機で攻撃されるのが分かった時点で、降伏するという考えも浮かんだかもしれないが、勿論戦時中は自分の身を犠牲にしてまで敵を倒さないといけないという精神だった時代なので、最後まで戦わずに降伏なんてまず行われる事が無かった。

 

こちらには終戦前日に爆撃された土崎の小学生が実際に着ていた服のようで、この服を着ていた小学生はその爆撃で亡くなっているそうだ。近年でも一般人が戦争被害者に巻き込まれるのを極力避けようという動きがあるけど、どうしても戦争で犠牲になってしまうのに一般人が多いのは、どの時代でも避けられない事なのかもしれない。

 

この爆撃で亡くなった子供が着ていた服の、右わき腹部分に破裂した爆弾の破片が入って体を貫通したらしく、この服にも右わき腹部分に大きな穴が開いているのが見えている。ただ本来なら爆弾が貫通したのであれば血だらけになっているのだろうけど、さすがにそれは展示する訳にはいかないからか、血が付いた部分は綺麗に洗われていたのかもしれない。

 

こちらは土崎に投下されて、爆発した爆弾の破片の実物。このような破片が目にも止まらないスピードで飛んできて、人間の体を簡単に貫通していって、死に至らしめる。第一次世界大戦では活躍しなかった飛行機が、この第二次世界大戦で主役となった戦争だったから、このような空爆が大きな戦果を挙げたのである。

 

2階にはちょっとした資料が置かれているスペースと、こちらの土崎空襲のVTRを見学できるスペースがあった。しかし、誰も見学客が居なくて、このようにガラガラな空間となっていたが。。

 

こちらにはさっき道で見かけた土崎のデザイン・マンホールの「マンホールカード」というのが、描かれたのぼりが立っていた。どうやらデザイン・マンホールをアピールする為のカードまで造られているらしく、不定期に無料で配布されているようだ。

青森ンゴ
青森ンゴ

この「マンホールカード」貰って、どうするノ??

ハゲる前君
ハゲる前君

土崎に来た記念として、心に刻み込め~!

 

 

そして今では土崎港のシンボルマークともなっている「ポートタワー:セリオン」(正式名称は秋田ポートタワー)に向かいます。この土崎の地が素晴らしいのは、先程の「土崎港伝承館」の見学が無料で行えるのと、このセリオンタワーの展望階にも無料で入場できる事です!

ハゲる前君
ハゲる前君

それだけが土崎の良さではないゾ~!(怒)

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ

↓↓↓↓東北旅行記:初回↓↓

雪一面の青森空港に降り立ち、東北地方横断の旅が始まる【東北旅行記①】
2020年12月1日に降り立った、雪一面の景色が広がる青森空港。その白い大地を踏みしめて、7泊8日に渡る東北地方の旅が始まりを告げるのであった。。
タイトルとURLをコピーしました